「愛してる」 「……は?」 「って言ったら、アンタはどうしますかィ」 梅雨という時期柄故だろう、見上げた空は今日も機嫌が悪そうだった。 異常な蒸し暑さとじんめりした湿気が入り混じった空気は、お世辞にも心地がいいものとは言えない。こんなもの気が滅入るだけだ。 沖田はシャツの胸元を掴んで数度前後に動かし、僅かながらに身体へ風を与えた。 「急になんだよお前。どうした」 「だから、言葉のまんまですぜ。俺が愛してるって言ったら、アンタはどうすんですかぃ。嬉しいとかなんかあんだろィ」 横を歩く土方が怪訝そうにこちらを見やったのがわかったが、沖田は表情一つ変えることなくだらだらと歩を進める。 あぁ、本当に厭な天気だ。 ハンガーと化した腕に掛かった上着が、中途半端にぶらぶらと揺れている。 暑苦しいのに、どうして上着など持ってきてしまったんだろう。 「んなこと訊いてどうする」 「いいから答えろィ」 「……嬉しいも何も、んなもん恐ろしいだけだろうが。心霊現象だ」 言うなりぶるりと身震いまでしてみせた土方に、沖田は苦笑するしかなかった。 そのあまりにも予想通りな拒絶がおかしい。 つくづく自分は信用がないらしい。 きっと本当に沖田が土方を愛していたとしても、それは有り得ない奇妙な想いとして処理されてしまうんだろう。 どれだけ誠心誠意伝えても、悪戯やからかいだと思われるのが関の山だ。 (対土方さんになると俺ァ損だねィ) 日頃の行いを思えば仕方ないのだろうという自覚はある。 それに実際それだけの想いがあったところで、じゃあ伝えるのかといったらそれは別問題である。 そんな想い、ただの邪魔者にしかならない。 こちとら仮にも命を懸ける仕事をしている身、暢気に恋愛ごっこにかまけている暇などないのだ。 ましてや本気の恋に溺れている余裕など、尚更あってはたまらない。 実際沖田の場合それは自分保全のための単なる言い訳だけれど、自らの感情に振り回され仕事に専念できなくなるなど考えられない、というのは土方には言える事だった。 彼の姿勢はいっそ模範である。 だから彼を好きであるなら、負担になるような真似をするわけにはいかない。 よって、知られることは許されないのだ。 万が一伝えでもしたら、仕事一筋なくせに人情深くもある彼には、相当な心労を強いることになってしまう。 「はぁ、折角の好意を霊の仕業にするだなんて失礼ですねィ。部下から愛されて嬉しくないんですかィ」 沖田はわざとらしく溜め息を漏らしながら、ぷちりぷちりとシャツのボタンを上いくつか開け始まった彼を横目に見る。 普段あまり着崩さない土方ですら着衣を乱す程なのだから、今日の陽気がなかなかに曲者であることわかる。 じんわり肌から出てきた汗が湿り気になり、それがシャツにベタベタと纏わり付くのが不快でならない。 「あぁ?部下に信頼置かれんのは悪い気しねぇが、お前はンな柄じゃねーだろうが。どっちかっつーと俺の命狙ってるクチだろ」 「愛しさ余って、というやつですよ。愛し過ぎて命欲しくなっちまうんでさぁ。可愛いもんだろィ」 「んなわけあるか。お前のどこに可愛いなんつー要素があるってんだ。所詮面だけだろ」 「アンタもな」 「うるせぇ」 土方はフーッと害の塊を吐き出しつつ、ケッと盛大に顔を歪めた。 ある種のコミュニケーションになっているいつも通りの応酬は、今日もまたこうして繰り広げられる。 その言葉の選び方や口調は、お互いなんら通常と変わらない。 しかしなんとなく覇気がない気もする。 それこそ当人じゃないとわからないような、些細過ぎる違和感が付き纏う。 そしてその違和感の正体はなんなのか、沖田は既に気付いている。 けれどそれを敢えて口に出すような野暮なことはしない。しては、ならない。 沖田はぐいっと額の汗を拭い、誤魔化すように暑ィ暑ィと呻いた。 ……愛しい、と。 そう思う気持ちは確かなものだ。 その想いが齎す僅かな空気のズレ、違和感、動揺。 とんだ失態だと、沖田は思う。 ましてやこの状況下で、愛してると言ったら、なんて彼の気持ちを試すような真似までし出す自分は、相当参ってもいるんだろう。 そして結果、冗談だろと口元を歪ませた彼のスルースキルに助けられる始末。 もう自分一人では処理しきれない所まできてしまっているということだ。 いい加減この糞みたいに纏まりつく想いをなんとかせねばならない。 「まぁ本気のつもり、なんですがねィ……」 ぼそりと、呟く。 その独り言に土方はなんか言ったかと首を傾げたが、沖田はふるふると首を振った。 沖田だけではない。 幸いこちらの感情までは理解し得てはいないだろうが、彼もまた二人の間に漂う空気の違いを察してしまっている。 だからこそ沖田の動揺が彼にも伝わり、それが二人の間に存在する空気感に僅かながらの歪みを生じさせているのだ。 けれど彼は何も気付かない振りをしてくれている。 それが一番いいのだと、彼もまた無意識の内に判っているから。 多少なりとも変化が表れてしまうのは致し方ない。 でも根本の自分達を変えてはいけない。 これからも一緒にいなくてはならないのだから、あくまで自分達は今まで通りを装っていかねばならないのだ。 そのためにはこの恋情を暑さからくる気の狂いだとしてみたり、思ってもないことを彼に言って気持ちを押し込めてみたりと、多少の強行手段も厭わない。 自覚しても認めることは許されない、そんななんとも可哀相な想いの行き場は、沖田自身が殺す以外にないのだ。 「ん……降ってきやしたねぇ」 「あ?……あぁ、ほんとだな」 空は予想通り泣き出し、ぽつりぽつりと地面を色濃くしていく。 見上げた頬に落ちる雨も、なんだか生温く感じた。 沖田は湿っていたシャツが更に湿る感覚に顔を顰め、どこかで雨宿りしやしょうよと横の仲間に提案する。 その視線の先には、すぐそこにまで近付いた馴染みの茶屋があった。 「ね、土方さん」 「……そうだな、ちょっと休んでくか」 いつもなら、これくらいの雨で何言ってやがる、と罵声が飛んでくるはずだが、今日の土方は大人しく頷いた。 その声は酷く落ち着いていて、彼であって彼ではないようだった。 なんの意思も感じさせないような、ただ沖田の言うことを許容しただけという反応。 表には出ない彼の動揺の表れなのかもしれないと思うと、ただただ申し訳ない。 沖田は大袈裟にはしゃいで見せて、目指す先へと走り出した。 店先に置かれている木製の長椅子は、徐々に激しさを増す雨によって水を吸い込んでいく。沖田は湿った髪を掻き上げながら、気にすることなく定位置に腰を下ろした。 濡れますから中に、という慌てた店主の声に首を振る。 やがて土方も、雨など気にもならないといった様子で沖田の横に腰掛けた。 どんどん体は濡れていく。 長椅子に挟まれた野点傘は、日避けになろうとも雨避けには大した効果を発揮してはくれない。 なんて無意味な雨宿りだろう。 きっと土方は、沖田の誘いを一喝するべきだった。 雨が強くなる前にとっとと帰んぞと、だったら一人で食ってろよ馬鹿と、そう見向きもしないで歩を進めてくれたらよかったのだ。 そうしたら沖田は、ここで一人になることができた。 そうしたら……この気持ちが少しでも整理できたかもしれなかったのだ。 どこまでも優しいが故に肝心な所で相手を突き放せない、不器用で温かい人。 そんな彼の甘さや人間性は時に残酷だと、沖田は身を持って知っていた。 「お、来やしたねィ」 軈て茶と共に団子が運ばれてきた。 皿には、程よい甘さと癖になるしょっぱさが売りの御手洗団子が3本ばかり並べられている。 雨粒が降りかかった新料理になる前にと、沖田はそれを頬張る。 内一本を土方に差し出したが、俺ァいい、と首を振られた。 雨の中で煙草に火を灯すのは困難なのだろう、結局土方は何をするでもなく雨に打たれている。 その横顔は何を考えているのかわからない。 ただシャツから透ける肌や顎を伝う滴が妙に色気を醸し出していて、沖田は静かに目を伏せた。 なんでこんなにも、この人は。 「……んまい」 串を横に引き、最後の一個を租借する。 口の中がどうにも麻痺して、実際は味がよくわからなかった。 いつもその背中を追いかけていた。 いつだって沖田の目の前には彼がいて、笑顔を向けてくれていた。 どんな時でも自分の視界いっぱいに広がる、土方十四郎という存在。 大好きな、大好きな存在。 けれど今は止まない雨だけがただ、沖田の視界を埋め尽くしていた。 (こんなに隣にいるのに、こんなにも遠い) END |