浮かべない水底の彼方へ。
彼女に再会したのは、とある同人誌即売会の会場だった。
「あら、久しぶり」
唐突に声をかけられ、一瞬、私は誰から呼びかけられたのか判別がつかなかった。大規模なイベントであるこの即売会の会場には、何千という人がひしめいていたからだ。
声の主が寄ってきて私の肩を叩いた時も、即時にはそれが誰だかわからなかった──ティアドロップのサングラスは、人の顔を隠すにはうってつけだと思う。そのサングラスが軽く持ち上げられた時、ようやくその人物が誰だか理解できた。
「わ、久しぶり……っていうか、来てたんだ」
「まあね、久々の休みだったから」
そう笑って、彼女はサングラスを元に戻した。
彼女は、私の高校時代の友人である。お互い、漫画やアニメなどの趣味が合って仲良くしていたのだが、おとなしい私とは対照的に彼女は活発な方で、軽音部で日々活動していた。高校を卒業してからも地道に音楽活動をしており、半年ほど前にソロデビューした。最近ではCDもどんどん売れていて人気は急加速、様々なメディアよく見かけるようになっている。おそらく、スケジュールは過密状態だろう。
そんな売れっ子の彼女がここにいるということにやや驚きを隠せなかったが、彼女の言う通り、仕事の合間に取れた休みをこのイベントにあてたのだろう。なんとなく殿上人にも感じていた彼女が、相変わらず私と同じ趣味なのは変わっていないようで、なんだかほっとした。
ちょっとゆっくり話そうか、と落ち着ける場所を探すことにする。空いているベンチを探すのにも一苦労だったが、なんとか確保はできた。
会話は他愛のないものがほとんどだった。高校時代の同級生の話や、今はまっている漫画。お互いの近況が話題になった時、今度またライブやるんだよ、と彼女が言った。
「広めの会場でね。今売れてる数だと、入場者数5000人にはなるかな。多分、これまでで最大の規模にはなると思う」
「へえ、すごいじゃない」
私は感嘆の声を上げたが、彼女はやや苦笑した。どうやら思う所があるらしい。どうしたの、と訊くと、少し悩むように考えてから、口を開いた。
「……正直ね、あんまり大勢の前で歌うことは考えてなかったなぁ、って。私、自分の歌をたくさんの人に聞いてもらいたいとは思ってたけど、いつもCDの向こうで、ってことしか考えてなかった」
覚悟が足りなかったんだろうなぁ、と彼女は自嘲気味に笑う。
「率直に言うとね。大勢の人の前で歌うのが、すごく重圧なの。最初は気楽に考えてた。軽音部の時だって、数十人の前で歌ってたもの。でもね」
彼女は、一度言葉を切る。初めて公共の場で、衆目の中で歌った時のことを思い出していたのか、若干顔が青ざめていた。
「軽音部は、所詮観客とは言っても知り合いがほとんどだし、ボーカルの私以外にもドラムやギター、そっちの演奏がお目当ての人って結構多いのよ。けどソロデビューしてからは、観客は当然知らない人たちばかり、バンドじゃないからギターやドラムに注目する人も少ないわ。……ねえ、視線に重さを感じたことはある?」
問われて、私は首を横に振った。派手な舞台に立ったことはなく、とりたてて美人でもないので、今まで人の視線を集めたことはほとんどない。故に、誰かからの視線に気づく、なんて事柄は、一度もなかった。単に私が疎いだけという可能性もあるが、尚更彼女の質問にはNOと答えるしかないだろう。視線の重さなど、私にはどんなものか想像もつかなかった。
そんな私の様子を察してか、そうね、と彼女は私にわかりやすくするためだろう、言葉を選ぶようにゆっくりと話した。
「例えば……水圧ってわかる? 海に何メートル潜ったら、どのくらい重さがかかってくるとか」
「ああ、結構深い所だと、ぺしゃんこになるから生身では潜れないんだよね……深海魚とか、たまに釣り針にひっかかって水揚げされたら、水圧の急激な変化で目玉が飛び出たりしちゃうらしいし」
私の台詞に、そうそう、と彼女は頷く。
「視線の重さも、まさにそんな感じでね。一人二人ならどうということはないんだけれど、大勢になってくるとどんどん重くなってくる。……わかるのよ、私が彼らを見なくても。肩の上に、空気の塊がのしかかってくるの。体も重い水の中にいるみたいに、軽やかには動かせない。押し潰されそうになる……」
単にそう思い込んでるだけなんじゃないの、とは、大勢の目に晒されたことのない私からは言えなかった。視線が突き刺さる、という表現もあることだし、実際彼女は自分に突き刺さる視線を、痛いほどに感じているのだろう。
「応援してくれてる、っていうのはわかるわ。聞いてもらえてる、っていうことも。でも、それが嬉しい以上に、押し潰されそうになるのが苦しいのよ。……正直な所、続けていける自信がないわ」
ほう、と彼女はため息をついた。
「結構、私メンタル弱くて根性のない女だったのよね……ほとほと自分に呆れるわ。歌を聞いてもらいたいって気持ちよりも、衆目の前に立ちたくないなんて我が儘の方を優先させたくなっちゃうんだもの、情けなくて意志薄弱な女だわ」
「そんなことないよ……」
憂いを帯びた彼女に慌てて私はフォローを入れようとしたのだが、いいのよ、と疲れたような笑みで言葉を制されてしまった。
「ありがとう、あんたの気持ちは嬉しいわよ。でもね、誰かに励まされて、それでも立ち上がれない自分が、どんどん惨めに思えてくるのよ……ごめんね、軽蔑してくれていいから」
一つ息を吐いて、彼女は空を見上げる。
「次のライブ、5000人もの視線に晒されたら、私はどうなっちゃうのかしらね。まるで水深5000メートルの世界を生身で潜る気分よ。仕事請けといてなんだけど、今から怖いわ」
「一回、その仕事終わったら、しばらく仕事休んだら?」
私の提案に、そうねえ、と彼女は思案するような間合いを作ったが、口の両端がやや諦めがちに上がっているのを、私はなんとなく見てしまった。
「『やってくれるよね?』って言葉には、ハイって答えたくなっちゃうんだけど。……そうね、できれば仕事入れないようにしてみるわ」
その後、話題はまた他愛のないものに戻った。たっぷり喋ってもう日が暮れようかという頃、じゃあね、と彼女と別れたのだが、彼女の見せた諦めたような笑顔が、私は忘れられないでいた。
──結論から言うと、彼女は死んだ。
彼女が話していた、例のライブの後でのことだ。死因は近くの海での溺死。自殺と判断された。
遺書などは見つからず、しばらくは自殺に見せかけた他殺説や、彼女を妬む者の嫌がらせの末ではないかという憶測などが、連日メディアを騒がせていた。おそらく、彼女の死は永遠にわからないままだろう。
私は、未だに彼女との最後の会話を覚えている。彼女が見せた、諦めたような笑顔も。私がもう少し説得できていれば彼女を安心させられたのだろうか。それとも、情けなくて意志薄弱と自らを嘲った彼女は、自分が仕事を断れもせず、かといって重圧に耐えきれるわけでもない半端さを悲観して、死を選んだのだろうか。まさしく5000メートルの水深を潜り抜けず、息が途絶えて溺れたかの如く。
もしくはどのみち、半年でのブレイクという人気の加速が酷だったのだろうか。深海から釣り上げられた魚が、急激な水圧の変化に耐えきれず変形してしまうように。
今となっては、どの後悔も、どのシミュレーションも意味をなさない。既に彼女は死んでしまい、もう戻ってはこないのだから。
だからいつも、悩むような考えは途中で中断して、一つのことだけ、ひっそりと思いを寄せて祈る。
どうかあなたが今いる場所は、呼吸もできない水の重さを感じる水底でも、墓の重さを感じる地面の下でもなく、軽やかに飛べる雲の向こうでありますように。
作品提出企画様/第五回お題『水深5000メートル世界』
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[mokuji]
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