波に揺られて一時の夢

 白い部屋に、陽光が煌めいて差し込む。
 穏やかな目覚まし時計のように、海鳥の声がさんざめく。
 そうして今日も、一日が始まる。


「──おはよう、朝食を頂けるかしら」
『了解、お嬢さん』

 室内備え付けの電話を切り、少女は一つ、のびをする。柔らかいベッドのおかげで、体に強張ったところはない。ぼふん、と仰向けに倒れこむと、やや高い位置にある窓がちょうど視界に映った。
 船旅を始めて一週間──波に揺られる浮遊感にも、そろそろ慣れてきた頃だ。ただ、同時に地上に焦がれてもくる。一人用の部屋は、広めで最低限の用品は揃っているが、同乗者に会えないと人恋しくなるものだ。他にも自分と同じくらいの子供たちがこの船に乗っているのは、乗船する時に姿を見かけたので知っているが、部屋から出ないよう言われているので船で会ったことはない。
 窓の向こうに広がる空を眺めて、しばらくぼーっとしていると、とんとん、と部屋の扉が軽くノックされた。

「どうぞ」

 少女の声に、かちゃり、と扉が開く。
 入ってきたのは、二十代前半であろう青年だった。片手に持った銀の盆には、白い皿に盛られた美味しそうなフレンチトースト、それに新鮮そうなサラダと牛乳が乗っている。

「朝食だよ、お嬢さん。一応この船最後の朝食だし、味わって食べてもらいたいね」
「あら、今日中に船は着くの?」

 ああ、と青年は頷く。

「昼前には着くんじゃないかな。そんなに長くはかからないだろう」
「そうなの。久しぶりに外が見られそうね」

 盆をテーブルに置きながら、少女の言葉に青年は苦笑した。

「部屋から出られないのは、やっぱり退屈だったかい」
「退屈ね。檻みたいだわ」

 口を尖らせて、少女はソファにぼふっと座り込み、フレンチトーストを取ってかぶりつく。青年も少女の隣に座って、肩をすくめた。

「このあたりは、近隣の国からの大気汚染が酷くてね。外に出て病気でもされたら大変だ、海上だと万全な手当ができる病気ってのが限られてくるし。それに、この方舟だとどのみち甲板には掴まるものがほとんどなくて、景色に見惚れてるうちにうっかり足を滑らせて海にドボン、なんてことにもなりかねない」
「それは前も聞いたけれど」

 朝食を摂る手を休め、ほう、と少女はため息をつく。

「せめて窓くらいは、楽に外が見える位置につけてほしかったわ。あの高さだと空しか見えないんだもの」
「今度造船所に苦情を言わないとな」

 そう返してから、青年はなにやら思いついたように手を打つ。

「君が朝食を食べ終わったら、窓の外を見せてあげるよ」
「……どうやって?」

 不思議そうな少女に、青年は片目をつぶった。

「君が俺の肩に乗れば、あのくらいは届くさ。どうだい?」





「──わぁ、」

 初めて見えた窓の外の景色に、少女は目をみはった。

「……本当に、海の上だったのね。乗船する時しか海を見てなかったから、なかなか実感がなかったけれど、ようやくひしひしと感じたわ」
「そりゃ良かった」

 少女を肩車したまま、青年は微笑む。

「他には何か、見えるかい?」
「……向こうに見えるのは、街かしらね。灰色っぽいけれど、高い建物がきらきらしているわ」
「ああ、そりゃあの辺名物の塔かな。夜には灯りが灯ってもっと綺麗なんだそうだ」
「素敵ね。船からの夜景も見てみたかったわ」

 ひとしきり景色を堪能した後、少女は青年に合図して、ゆっくり体勢を低くしてもらった。そして、とん、と青年の肩から飛び降りる。

「ありがとう、お兄さん。この船旅で一度きりだったのは残念だったけど、とてもいい思い出になったわ」
「そうかい? そいつは光栄だ」

 答えて立ち上がろうとした青年に、待って、と少女は静止の言葉をかける。そしてかがんだままの青年の頬を両手で挟んで、

「──!!」

 目を丸くする青年に、ちゅ、と軽く口づけした。

「……綺麗な景色を見せてくれたお礼」

 えへ、と少女ははにかむ。

「可愛いお嬢さんにキスしてもらえるなんて、これはお釣りが来るな」

 青年も、立ち上がりながら微笑した。

「──あと一時間もすれば、船は目的地に着くはずだ。それまでに船を出る準備はできるかな、お嬢さん。なんなら手伝うけれど」
「そうね……」

 青年の申し出に少女は考えこむような顔をしたが、少ししてかぶりをふった。

「……やっぱりその必要はないわ。そんなに荷物は多くないもの」
「そうかい。じゃあ、俺はそろそろ行くよ」
「ええ」

 頷いてから、思い出したように少女は一つ、青年に質問を投げかけた。

「──ねえ。船を降りる時、見送っていただける?」





 潮風が吹き渡る、活気溢れる港に、船が着いたのは青年の言葉通り一時間後のことだった。
 方舟からタラップを渡り、子供たちがわらわらと港に降り立って行く。その光景を、ひと足先に降りていた青年は、侘しげに見ていた。

「お兄さん」

 呼ばれて、青年は振り向く。どうやらいつの間にか船を降りていたらしい少女が、そこに微笑みながら立っていた。

「お別れね」
「……そうだね」
「言われた待合所に行けば、新しいおうちの人が迎えに来てくれるのね」
「……ああ」

 頷く青年に、少女は握った片手を差し出す。

「これ。あげるわ」

 唐突に言われた言葉に、やや戸惑いながらも受け取るために、青年も手のひらを上にして片手を出す。その手のひらに置かれたのは、不透明な包み紙で包まれた、丸い棒つきキャンディーだった。

「じゃあね」

 それだけを笑顔で言うと、明るい陽射しの中を、少女は船とは反対の方向へ駆けて行った。おそらくは彼女の新天地に向けて。
 その後ろ姿をずっと見送り、見えなくなってからもしばらく立ち尽くし、長い時間が経ってから、青年はきびすを返して船へと戻った。

「──よう、新入り」

 声をかけられて、立ち止まる。相手は方舟の船長だった。

「どうした、うかない顔してんじゃねえか」
「……別に、なんでもありませんよ」
「どうせ『商品』に情でも湧いちまったんだろ。だからあんまし仲良くすんなっつっといたんだ」

 素っ気なく答える青年に、やれやれ、と船長は肩をすくめた。

「この船が奴隷船だってのはおまえもわかってただろ。港に着いたが最後、あのガキんちょどもにゃいい運命なんざ待ってねえってな。足腰たたなくなるまでこき使われるか、変態の慰み者にされるのが関の山だ。そんでもこの船の待遇なんか破格だぞ、何も知らないガキんちょどもに、最後にとびきりの待遇でいい思いさせてやろうってんだからな」
「……外の景色も見られないのに、なにが破格の待遇ですか」
「そりゃうっかり勘付かれた奴に、窓割ったりして逃亡されたら豚の餌になんのは俺たちだからだろうがよ。もしくは、」

 一度言葉を切り、船長は言葉をつづける。

「俺の娘や、あんたの妹がこの船の乗客になる事になるかもな。……それをさせない為に、今俺たちが乗務員としてここにいるんだろ」

 青年は、答えなかった。代わりに、ゆっくりとため息を吐き出した。

「まあ、おまえの気持ちはよくわかるさ。でもな、さっさと慣れろ。ここじゃそれ以外、処方箋なんてねえのさ」

 青年の肩を軽く叩くと、船長はどこかへと去った。食堂のある方向に向かったのを見ると、昼食でもとりにいったのだろうか。
 あとを追う気になれなかった青年は、壁にもたれかかって軽く目をつぶった。そして近くの窓に歩み寄った。楽に景色が一望できる高さの窓に。
 鍵を外して開けると、涼しげな潮風が彼の髪をなぶった。眼下には、綺麗な海が広がっていた。
 なんとなくポケットに手をつっこむと、固いものに手が当たる。それが少女にもらった棒つきキャンディーだという事を思い出して、青年はポケットからそれを引っ張り出した。
 包み紙を外して、キャンディーを口に入れようとした時、包み紙の裏に文字が書かれているのに気づく。どうやら手書きのようで、小さくはあったが、丁寧な字だったので読むのに苦労はしなかった。

『お兄さんへ。私のファーストキスがお兄さんで、本当に良かったです。ありがとう。さようなら』

 ぐしゃり、と握りつぶされた包み紙は、しばらくしてから青年の震える握りこぶしから解放され、海風を舞って蒼い空の彼方へ、青い海の向こうへと飛んでいった。
 そのまま青年は俯き、残った棒つきキャンディーを、がり、と噛みしめる。キャンディーは甘く、ほんの少しだけ苦い味がした。



作品提出企画様/第二回お題『方舟という名の檻』

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