ほんの細かな、色褪せた断片
2013/02/14 03:16

 生まれた時の記憶なんか霓暉に当然あるはずもなくて、物心ついた時には既にスラムに住みついていたというのが最古の記憶だ。父親と母親に会ったことはない。ただ兄と名乗る人間がずっと傍らにいて、それを特に不思議に思ったことはなかった。
 兄は自分よりやや年が離れていた。7つか8つだっただろうか。兄が語っていたかもしれないが、特に生きることに必要な情報とも思えなかったので、しっかりとは覚えていなかった。
 兄は、身体が弱かったのだと思う。基本的には日雇いの職にでかけていたが、時折血を吐いて動けなくなることがあった。元々子供の力では大した労働力にもならず、賃金も雀の涙ほどしかなかったが、兄が倒れた時など当然一銭も手に入らなかった。
 スリや強盗の仕方を覚えたのは、兄が何日か回復しなかった頃だ。それまで兄は、なんとか自分の稼ぎで一日を食い繋ぎ、そういう犯罪に手を染めることを徹底的にしない、霓暉にもさせないようにしていた。だが、肝心の収入がなければ元も子もない。それに、他のストリートチルドレンは、息をするようにそういう犯罪をしていたから、兄から止められていたとはいえど、特に霓暉自身には罪悪感や犯罪意識はなかった。ただ、生きるための手段の一つであると。
 最初の犯罪は、近くの商店から林檎を盗みだしたことだった。兄が意識を失っている間になにくわぬ顔で行って、誰にも見つからない場所で久々の食料を口にした。空っぽだった五臓六腑にしみ渡る果汁の瑞々しさに、やはりこれが生きることだと実感した。
 一応兄の分も彼に持って行きはした。兄はいつも自分に食料を与えていたから、少なくとも自分も兄にそうするのが普通なのかと思ったから。だが、意識を取り戻した兄は、持ってこられた林檎を見ると、哀しげな顔をして一言、ごめん、とだけ言って、口にはしなかった。何を謝られたのかはさっぱりわからなかったが、いらないのなら、ということでその林檎も自分で食べた。
 それ以来、兄は今まで以上に熱心に働くようになった。無理をして働くものだから倒れる回数も自然と多くなっていったのだが、兄は自分が倒れることに頓着していないようだった。だが、倒れれば食料がなくなるので、やはり霓暉が兄の動けない間に犯罪を行って食料を得ることになる。次第にこっそり盗むよりは堂々と強盗をした方が、また直接店の品を盗むよりは通りすがりの人間から金を奪った方が効率がいい事を学んで、他の人間と戦う術を身につけていった。初めの頃は何回か失敗して半殺しになる憂き目にあい、それが余計食料不足を加速させることを知った。だから徹底的に強く、誰にでも勝てるように強くなれるように工夫した。強く、強く。
 無論、しっかりした栄養があったわけでもないし、ちゃんとした身体の作り方を知っていたわけでもないから、その向上は緩やかなものでしかなかったが、それでも着実に強くなっていった。また、それと反比例するかのように、兄の身体はどんどん衰えていった。
 兄と過ごした最後の日、やはり兄は動けず病臥していた。その横で盗ってきた蜜柑を頬張っていると、兄がかすれた声で話しかけてきた。

「──ねえ、霓暉」
「……なに」

 呼ばれたので、蜜柑を嚥下して答える。
 やせこけて青ざめた頬に、汗に濡れた髪がはりついた兄は、その汗をぬぐおうともせずただぼんやりと上だけを眺めて、言葉を紡ぎだした。

「霓暉は、僕がまだ元気だった時──楽しかったか」
「クッソつまんなかった」

 新たな蜜柑の皮を剥きながら、即答した。

「何もしねえってことは生きてねえのに等しいもんだぜ、にーちゃん。あんたがオレになにもさせなかった時、オレはなんで生きてるかわかんなかった。あんたが倒れてから他の奴らと戦うようになって、戦って、戦って、戦い抜いて勝った時、ようやくわかったんだ。──これが生きることだと」

 蜜柑の一欠片を、口に放り込んで咀嚼する。

「なあにーちゃん、逆に訊きたいんだけどさ。あんた生きてて楽しいの? 毎日毎日倒れるまで働いて、別に楽しくもないけどなんかただ頑張って笑ってるってさ。オレにはあんたがよォわからん」

 兄は、しばらく黙っていた。兄が口を閉ざすのは別段珍しいことではなかったから、霓暉はその間、着々と蜜柑を食べ進めていた。
 十数分してから、兄は再び問いかけてきた。

「霓暉。僕が生きてきたことに……意味はあっただろうか」
「知らん。なんでオレに訊くんだ」

 いっそ馬鹿馬鹿しいとばかりに呆れた表情を浮かべ、八つ当たり気味に蜜柑の皮を遠くへと放りなげてみる。どうやら猫にでも当たったようで、短くギャッという鳴き声が聞こえた。

「そんなもんはてめえで考えててめえで決めろ。他の誰が何と言おうと、あんたが意味があったと思や意味はあったんだろうし、ないと思うんだったらねえってこった。安心を他人に求めてんじゃねえ」

 その回答を訊き、少し考えるように目を瞑ったあと、兄は一つ、ため息をついた。そして何か言おうとして口を開き、だが言うべき言葉に迷ったのかそのまま目を伏せ、結局なんの言葉も口にはせずに、ただ少し微笑んでゆっくりと手を伸ばして蜜柑の汁がついた頬に触れた。
 霓暉も黙って兄に撫でられていた。特に減るものでもなかったから。



 兄が死んで、霓暉は独りになった。特に不便は感じなかった。生きるために何をすべきかは、わかっていたから。

「……にーちゃん」

 棒きれを組んだだけの貧相な墓標に、ぼそりと呟く。

「あんたが何を望んでたかなんか知らねえ。ただ、オレはオレの思うように生きる」

 その台詞だけを手向けにして、くるりと背を向け、墓標を後にした。




 それ以来、霓暉がその墓標がある場所に戻ることは、一度もない。





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