『a leger line』
※現代パロ





 黒田は港町に住んでいる。と言っても、潮風に満ちた、穏やかな水平線広がる漁師たちの町『だった』町だ。昭和初期から一気に灰色の工場が並ぶ工業の町に変わり、今はそれなりに景色が良く観光客も多いが、何十年か前は公害の酷い真っ黒な町だったらしい。最近ようやく漁ができるまでに回復し、住人は工場関係者と漁師が全体で二割ずつを占めている。黒田はその前者の方で、朝から冷たいコンクリートの中で機械に囲まれて働き、夜遅くにコンビニで缶ビールを一本だけ買ってぼろぼろのアパートへ帰るのが日常になっていた。ただただ繰り返される生活に飽きていたし、いつかはと野望を燃やしながら上部へ気を遣い続けるのにも疲れていた。そんな黒田の部屋へ変わった柄の蝶が転がりこんできたのは、神様のちょっとした遊び心、運命の悪戯というやつだったのかもしれない。
 黒田の長所はその懐の広さである。相手が変わり者であればあるほど、何故かそれをすんなりと受け入れてしまう何かが黒田にはあった。しかし短所は類いない運の悪さである。受け入れた者が良い者だとは限らない。その『変わった柄の蝶』というのが代表的な例で、黒田のなけなしの給料の内で養ってもらっているにも関わらず、仕事でくたくたになった黒田をからかって遊ぶのを趣味にしている。黒田は蝶が憎たらしくて仕方がないのだが、やはり今日も憎めぬまま、蝶の待つ部屋へ戻ってきてしまうのだった。
 立て付けが悪いのか、ドアは普通にノブを引いたぐらいではびくともしない。力任せに引っ張ると、どこかが凹んだらしくベコリと音を立ててドアは開いた。大家に会ったら、絶対怒られるだろう。溜め息を吐いた黒田へ「暗か」とおかえり代わりの低くしゃがれた蝶の声が部屋の奥から飛んできた。蝶とは言っても可憐な女子ではなく病を患った男で、『暗』は蝶が付けた黒田のあだ名である。黒田はその声を聞いてさっと顔色を変えた。声色に酒の色が混ざっていたからである。
 悪い予感は大抵当たる。蝶は酒瓶と己の体を覆う包帯を床に散らし、白い錠剤の入った小瓶を握りしめていた。その小瓶のラベルに『睡眠薬』の文字を見つけた黒田は慌てて蝶の傍へしゃがみ込み、それを取り上げた。減りようからして、まだ飲んでいないだろう。ほっと安心したその瞬間、蝶の手が黒田の右手、小瓶を持っている方の手へと伸びた。しかし酒に酔っているものだから目標が定まらず黒田を突き飛ばすような形になり、仕事で疲れた黒田の体はあっさり押し倒されて頭を強打した。痛みで呻く大柄な体に小柄な蝶がぴったりと体を合わせてきて、何のつもりかと思えば黒田が右手に握ったままの睡眠薬の小瓶に手を伸ばしているのである。黒田は手の平を広げて小瓶を部屋の隅へころころと転がした。そしてそれを追いかけようとする蝶を、腕の籠へ閉じ込める。脆い翅を折ってしまわぬように緩く、けれどひらひら逃げられぬよう固く。

「いいか、死ぬのは小生の居る時だけにしろ」

 まるで子供に言うように言えば、蝶の眼がこちらを向いた。酒に酔って今にも溶けそうな視線。この蝶らしくないが、悪くはない。

「ではあの薬を、」
「返さない。……何度だって止めてやるという意味さ。残念だったな」

 黒田は皮肉のつもりで嗤った。しかし蝶はきょとんと目を見開いて、ひひひ、といつもに増して気味の悪い笑い方をした。これは泣きそうな笑い方だなと黒田は思った。思ったけれど何も言わなかったし、体をぴったりとくっつけたままそっぽを向いた蝶の視線を追うこともしなかった。ただ今更ながらテレビが点いていることに気づいて、耳を傾ける。真夜中のやる気の無いニュースだった。今日も誰かが死んだらしい。

「暗よ。我はな、ぬしに出会うまで、死が極楽のような気がしていたのよ。真っ暗で、いたみもくるしみも何も無い場所へと行きたかった。さっきまでも、そうだった」

 年を食った男のニュースキャスターが読み上げる不幸に紛れて、蝶は語る。

「それがな、ぬしの顔を見て、声を聞いている瞬間に、どうして死にたいのかさっぱりわからなくなってしまったのだ。ひひっ、ぬしの不幸な阿呆面は愉快だからの」

 それはいつもの戯れ言か、酒の勢いに任せた本音か。どちらにせよ、黒田にはひどく浮世離れして聞こえた。
 蝶は顔を上げて、黒田を見下ろした。相変わらずとろんとアルコールに呑まれた視線。黒田はゆるりと目を閉じて、なんとなくその唇にキスをした。なんとなく、理由も好意もなく、ただそうすれば困らせることができる気がして。腕の籠に閉じ込められ逃げられない蝶は翅を震わせ、ぎゅっと身を縮める。しかし拒絶はなかった。だから黒田は、またなんとなくアルコール味のキスを続ける。
 キスの合間に、好き、と蝶が漏らした。その口が続けて黒田の下の名前を呼んだものだから、黒田は慌てて口を塞いで声を奪う。名前を呼ばれたぐらいで何故慌ててしまったのやら。ほだされているのは自分の方かもしれない、なんてくだらないことを黒田は思った。


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