人間に備わっている『忘却』というシステムは大変恐ろしい働き者である。主が気づかぬ間に記憶を消し、消したことすら跡形もなく消してしまう。それに気づいた吉継は、普段輿に乗っている時とは全く違う不快な浮遊感を覚えた。消えたのは大事な記憶だったのではないかと不安になり、しかしいくら不安になってもさっぱり思い出せぬ記憶に苛立つ。地に足つかぬ心地、と己で思って苦笑した。地から離れるのは、慣れているはずだったのに。
 そういう時に書くものといえば日記である。古来は女の書くものであったし、細々と日々を記すのは女々しくて気に入らない。よって吉継はその日記を健忘張と呼び、戦や愉快な不幸についてを主な内容とすることにした。食べたものや物事などは紙の隅に書くことにする。どうせ、誰に見せるというわけでもないのだ。
 ところが書き始めてみると、その内容は予定していたものとは全く違うものになった。別のことを書いたというわけではなく、吉継は確かに戦や不幸やその日のことを書いたのだが、そのどれもに『石田三成』という名が出てくるのである。戦については西軍の大将として。不幸については加害者や共犯者として。その日にあったことは、三成がいつもより飯を食ったとか機嫌が悪かったとか。己のためにと始めた日記が、書けば書くほど三成の記録になってゆく。
 今日も朝から『石田三成』と書いた。すっかり書き慣れた四字に思わず苦笑して、筆を置く。ちょうどその時、聞きなれた足音が廊下から響いてきた。吉継はそちらへ体を向ける。ぱーん、と軽快な音を立てて襖が開いた。そこに立つ無礼な男こそ、吉継が日記に何度も名を出す石田三成本人である。

「今日は、寝ていなくていいのか」
「気分が良いのでな」
「……では良いうちに寝ろ。次の戦で役立たずは許さない」
「あいわかった」

 いつもと同じ、悪く言えばあまりにもぶっきらぼうなその言い方に、吉継はやれやれと肩を竦めた。ここまで気の遣い方が下手な男が他にあるだろうか。硯を片付け、強制的に床へ寝かされながら、吉継は唯一無二の友である石田三成について思う。真っ直ぐすぎるゆえに不器用で、万人に理解されぬ男だ。西軍が勝ったとしても負けたとしても、陽を背負う徳川とは正反対に闇を背負うこの男は、無礼者か悪漢か狂人として世へ伝えられてゆくかもしれない。それはなんとも惜しすぎる。
 吉継を床に寝かせて満足げなその顔を見上げながら、今日の日記はこの表情のことを書こう、と吉継は薄く笑んだ。


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