人間の世へと帰ってきた吉継は、まず人間の容姿に違和感を持ちました。誰も彼もがふたつの目とひとつの鼻とひとつの口を持ち、それがどう美しいか整っているかなどで競い合っているのです。美醜も何も、同じ部位が同じような位置についているのですから、吉継には男も女もさっぱり見分けがつきません。不気味に思ったのがそれらがすべてこちらの顔を見て話し掛けてくることです。元来己の容姿に劣等感を持っている吉継のこと、こうなれば会話などひとつもできません。
 妖怪の世が恋しくて、穏やかなあの光が恋しくて、吉継はいつの間にか狂っておりました。そうしてもとの世へと帰ってきてひと月経つか経たぬかのうちに、真っ白な壁の精神病院へ閉じ込められてしまったのです。
 精神病院というのは精神的に異常な者が入る場所で、どんなに己が正常であると主張しても『狂人の言う戯言』として処理されてしまいます。それは吉継に己の正常を己で疑わせました。白い部屋の中に入れられ、外部からの接触を断たれて二週間。吉継は己の恋う妖怪の男は果たして現実のものであったのかと疑うまでに壊れてしまったのです。
 そんな吉継の病室を夜に訪ねたのは、妖怪の世で何度か言葉を交わしたあの狸でありました。

「久しぶりだな、人間」

 相変わらずの眩しすぎる光を持つ狸は、吉継を見下ろすようにして立っております。しかし病室には関係者以外は入れぬはずで、夜ともなれば扉に南京錠がされてあるはず。吉継はその懐かしい容姿に目を疑いました。

「ぬし、どうやって入った」
「今晩は霧が立ったのでな、見舞いに来た」
「答えになっておらぬわ」

 肩を竦めた吉継に、狸はへらりと笑います。それから狸は「何も持たずに来てすまない」と言いましたが、吉継には狸がもたらした『妖怪が存在している』という事実が一番の見舞いの品です。「良い、良い」と吉継は口端を上げてみせました。

「して、何用か。ぬしのことだから、見舞いだけではないのだろう」
「はは、人間は本当に賢いな」

 狸は感心するように腕を組み、それから、今にも泣きそうな顔で笑いました。

「妖怪の世に戻ってくるつもりはないか」

 吉継には一瞬、時が止まったような心地がしました。それは吉継がずっと求めていた誘惑だったからです。狸はぽつぽつと言葉を続けました。

「三成がな、病のようなんだ。妖怪は病を患わぬというのに、病のように真っ暗なんだ。それなのに眠らないし、力を回復することもしない。このままだと三成は死んでしまう」
「…………」
「どんな絆を以てしても妖怪と人間は同じ時を生きられない。わかっているんだ。充分わかってはいるんだがな、三成はお前がいないとダメらしい。ワシではお前が居た頃のように笑ってくれないんだ。頼むから、帰って来てくないか。薬が必要ならワシが人間の世から調達する。医者を攫ってきてもいい。頼む、一生のお願いだ、頼むから三成の傍で生きてくれないか」

 今にも泣き出してしまいそうな勢いで懇願する狸の言葉に、吉継は必死で無表情を装って首を横に振りました。本当はうんと頷いてしまいたかったのです。頷いて、妖怪の世へ戻り、狸の言う通り三成の傍で生きたかったのです。しかしそれでは何もかもを先延ばしにしただけ。どう足掻いても吉継は三成を遺して先に逝きますし、そうなると三成はまた弱りきってしまうのでしょう。
 これは一体、何に対する罰なのか。

「我はもうここから出られぬし、命もあと一年持つかどうか。このような身で戻ったとして、三成の為にはならぬ」
「しかし」
「三成のことは心配だ、とても心配だ。だが戻ったとして、何かが変わるわけではない」
「しかし、このままではふたりとも、あんまりに可哀想だ」
「ひひ、狸の同情が買えるとはの。だがそれで寿命は買えぬ」

 狸はフードを被り、すっかり俯いてしまいました。眩しすぎる光がちらちらと弱々しく光っております。

「ではせめて、三成に言霊を贈ってやってはくれないか」

 フードの下から聞こえた狸の願いは、ひどく弱々しい願いでした。一体どのようにするのかと吉継が問えば、抱えて持って帰ると答えます。あいわかったと吉継は頷いて、「どうか名さえも忘れてくれ」と呟きました。狸はその言霊にひどく驚いた表情をして顔を上げ、吉継の顔をじっと見つめます。それから両手でそっと言霊を抱えるような仕草をし、また来ると言い残して姿を消しました。
 窓の外は昔と同じ深い夜霧。この先は妖怪の世へと繋がっているのでしょう。夜にとりのこされた吉継はひとり、その中に淡い光を探しておりましたとさ。


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