妖怪という生き物が何を食べているかご存知でしょうか。また何を好み、何をして遊び、一日をどのように過ごすのかご存知でしょうか。知らぬと答えた方がほとんどでしょう。人間は妖怪の容姿を知りこそすれ、どのように生きているのかは全く知りません。それは妖怪の側も全く同じで、住んでいる世が違うというのは、つまりこういうことなのです。
 吉継が妖怪の世へと迷い込んでから早五日。体はまだ節々が痛むものの、どうにか上半身を起こし、ひとりで厠へ行くことができるようになりました。車椅子さえあれば這わずとも移動できるでしょう。となると、まず始めにしたいと思ったのが、風呂に入ることでありました。

「ふろ?」

 風呂場の場所を問うた吉継に、男はひどく困惑した表情をしました。この五日間で役に立たぬと悟ったはずの言霊を見て、しかしやっぱり判断の材料になりませんので、ただただ戸惑うばかり。
 表情の変化がいちいちわかりにくいこの男がここまで困惑するとは、と吉継は愉快を通り越して少し不安になってきました。妖怪の世で風呂とは何か不都合なものなのでしょうか。男は困り果てた様子で、ひとつ溜め息を吐きながら言いました。

「その、ふろ、とは何だ」
「やれ、ぬしは風呂を知らぬのか」
「知らぬ」

 その表情のあまりの生真面目さ。男は昨日嘘が嫌いだと言ったばかりですから、本気で風呂を知らぬのでしょう。やれ勿体ない、と吉継は肩を竦めました。

「湯浴みと言えばわかるか」
「ゆあみ……?」
「湯に浸かって垢を落とすのよ」
「あか?」

 どうやら妖怪には身が汚れるという概念がないようで、ここまで話が通じないと、すべて説明し終えるまでに何週間も過ぎ去ってしまいそうです。吉継はとりあえず人間には湯に浸かる必要があると言い、どこかに湯溜まりはないかと問い直しました。男は納得がいかないなりにも話が通じたようで、それなら村の外れにある、案内すると立ち上がりました。
 しかし案内すると言われましても、吉継の不自由な足と痛む体では部屋を出ることすら叶いません。それに気づいた男は、吉継へ背中を向けてしゃがみ込みました。きらきらの、男性のものにしては華奢な背中。そこに乗るのは躊躇われるのですが、車椅子はここにありませんし、村の外れと言うからには這って行けぬほど遠いところに違いありません。
 折れても知らぬからな、と心の内でひとつ呟いてから、えいやっと吉継はその背に飛び込みました。飛び込んでみればその背中は案外大きくて、吉継の病躯など簡単に収まったのであります。ふんわりと吉継を負って男が立ち上がった瞬間、男の纏っていた光はぱあっと辺りに散らばり、さらさらと空気中に舞い上がりました。まるで天女の衣のようと目を奪われた刹那、男は急に走り始めました。
 男の足のまた速いこと。屋敷を出るまでは周囲を見る余裕があったのですが、屋敷を出てからの速さは韋駄天のごとし。背負われている身としては酔わぬよう目を閉じているのが精一杯です。妖怪の村を見る間もなどありません。移動が止まったと思って目を開ければそこは山奥、目の前には天然の温泉がひとつありました。木々の葉が生い茂り陽の当たらぬ闇の中に、くぐもった水の音が響いております。

「貴様の言っていた『ふろ』というのはこれか」

 あれだけの速さで走ったにも関わらず、男は息を切らすことなく吉継に問うてきました。帰りもこの調子だろうかと今から不安に思いながら、これで良いと吉継は答えます。広さはもちろんのこと、ちょいと水に触れてみれば、湯加減にも文句無し。懐に持った替えの包帯も手拭いも、男の速さに振り落とされずに済んで何よりです。
 が。ひとつだけ困ったことがあるとすれば、男がその場を離れようとしないことでありました。まさか裸にならねばならぬという状況が理解できぬのかと見上げれば、男はしれっと言います。

「手伝ってやる」
「何を」
「包帯を取るのを」

 倒置法の会話。男は吉継の返事も待たずに顔の包帯から取りに掛かります。男の手を振り払おうと吉継は手を振り回しましたが、体はまだ思うように動きません。男は抵抗が弱いのを良いことにするすると包帯を解いていきます。そうして病で爛れた顔がすっかり露になった頃、男は吉継の手が震えているのに気づきました。

「寒いか?」
「……ぬしは、我の姿を見て何も思わぬのか」
「貴様は貴様であるということだけ」

 男があんまりにとんちんかんな答えを、真剣に、吉継の顔を真っ直ぐに見て言うものですから、吉継はなんだか可笑しくなりました。答えの意は解せぬものの、この顔を見て恐れや哀れみ以外の感情を口に出したのは男が初めてであります。

「ひひ、ぬしはほんに面白い男よの」

 それから吉継はふと思いついて、男を「三成」と名で呼んでみました。狸が何度も呼んでいたので、すっかり覚えてしまったのです。それはほんの戯れのつもりでありました。名を呼ばれた男――三成はそれに驚いた表情をして、しかし照れた時と同じようにそっぽを向いてから、吉継にひとつ問いました。

「貴様の名は」

 相手に名を知られるというのは、魂を支配されるのと同じこと。魂の概念の強い妖怪は、人間よりもずっと深くそれを知っております。しかし口から出てしまった言霊はもう戻らず、返事の言霊は脳髄の奥深くにしっかりと刻み込まれてしまいました。


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