霧が具体的にどのようなものなのかご存知でしょうか。あれは水蒸気という小さな水の粒が空気中にたくさん浮かんで、それが白いヴェールのように見える現象なのであります。主に朝に立つものなのですが、その日はどういうわけか夕方からぼんやりと立ち始め、陽が落ちて夜になると周囲が全く見えなくなってしまいました。
 困ったのは遠出をしていた者であります。家の側であれば方向がわかるのですが、慣れぬ土地となれば右も左もさっぱりわからなくなるのです。特に大谷吉継という男はその代表のような有様で、隣村の医者に病状を診てもらっていたばっかりに夜霧の中へ迷い込んでしまいました。
 吉継は足の不自由な病躯でありましたから、人里を離れることは死を意味します。しかし彼は生きる理由を持ち合わせておりませんでしたから、車椅子をきぃきぃと進め続けるのもだんだんと馬鹿らしくなってきました。どちらを向いても暗い霧の中、出口などどこにも見当たりませんし、ここがどこなのかすらわかりません。為す術もなくその場で呆然としておりますと、どうせ近いうちに病で死ぬのだからここで死んだって変わりないような気がしてきました。車椅子の車輪を回し続けていた手のひらは擦れて血が滲んでいますし、無い体力は底を尽きかけております。
 人里に戻るのを諦め、すっかり死ぬつもりになった吉継は、死ぬ間に何がしたいかと考え始めました。汗で湿った全身の包帯を替えたいとか横になりたいとか、欲求はたくさんありましたが、そのどれよりも強く己の喉が潤いを欲しております。どこか水辺はないかと耳を澄ませば、なんとも都合の良いことに、さらりさらりと水の音が聞こえてまいりました。音の大きさからして、そう遠くはない距離でしょう。
 吉継は残った力で水の音の方へと進み始めました。霧が何かの光を反射しているのか、きらきら、きらきらと世界が眩しく銀色に光っております。暗い霧の中にその銀の光がとても綺麗。意識の朦朧としてきた彼は、いつの間にか水ではなく光を追いかけるようにして車椅子を進めていました。
 きらきら、さらりさらり、きらきら。光と水の音に満ちた世界は本当に綺麗。病を患ってからというもの憎らしくて仕方がなかったこの世がとても美しく思えて、吉継は苦笑しながら目を閉じ、車輪から手を離しました。
 しかし、車椅子は止まりませんでした。地が斜面になっていたのです。きぃきぃと車輪は回り、車椅子はどんどん進んで行きます。吉継はこれっぽっちも恐怖を感じませんでした。だって、もう、死ぬつもりだったのですから。
 車輪が岩につまずいて、吉継は前へと投げ出されました。ぱっと開いた目に映ったのは地ではなく深い夜霧。崖から落ちたのだ、と思うと同時に、彼は意識を手放してしまいました。
 落ちて落ちて、地まで落ちる寸前。吉継を受け止めた者が何であったかは、また次のお話に。


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