少し陽の傾いた七つ時。庭先から砂の踏む音が聞こえて、書物を読んでいた吉継は顔を上げた。今日は一体どんな猫が迷い込んできたことやらと、手で這うようにして閉め切った襖に近づき、猫の様子を伺う。こちらへ真っ直ぐに向かってくる、大幅だが少し軽い足音は、よくよく見知った猫であるらしかった。襖をそろりと開ける。
 まさか吉継が襖を開けて迎えてくれるとは思っていなかったのだろう、いつもは勝手に襖を開けて入ってくるこの猫は、少し驚いたように歩みを止めた。吉継は猫の姿を一瞥し、襖の奥の元の位置へと戻る。

「上がれ。包帯には困っておらぬゆえ、手当てをしてやろうぞ」

 戻り際に声を掛ければ、猫は大人しく草鞋を脱いで縁側に上がった。少しだけ開いた襖の間から吉継の部屋に入り、襖を閉める。まるで化け猫のようだ。思わずひひひと笑えば、猫は怪訝そうな顔で首を傾げる。それから力尽きたのか、急にぱたんと倒れた。

「これ、そこは布団の上ではなかろ」

 吉継が眉根を寄せると猫は、畳なら後で掃除する、と生意気なことを言った。必ずぞ、と念を押してから、せっかく元に戻った体を猫の側まで寄せる。
 猫の体は満身創痍であった。至る所が鬱血し、傷だらけ。出血が畳を汚していた。しかしやられっぱなしであったわけではないようで、拳は裂けて血が滲んでいる。吉継が傷の具合を確認している間に、友の傍が安心したのか、猫は意識を手放してしまった。すう、と子猫のような寝息を立てている。
 今度は誰と喧嘩したのか、と吉継は訊かなかった。その問いは愚問である。この猫が怒り狂うのは、主君と友への誹謗中傷のみ。豊臣の領内で秀吉の悪口を言う愚か者などおらぬから、今回も吉継の悪口を言う者を引っ掻いたのだろう。しかもこの有様、かなり多くの人間を相手にしたと見える。

「ぬしはまことに困った猫よ」

 どんな言葉も聞こえぬ振りをして笑えば、多数の者に愛され、多数の幸福を招いたものを。そう、例えばあの徳川家康という男のように。
 猫の傷はどこもひどい有り様であったが、特に左腕をひどくやられていた。暴れる猫を止めようと、二、三人ほどでこの左腕を掴んだのだろう。手のひらの形に鬱血し、その上を引っ掻き傷が走っている。傷口を病に蝕まれた指で触るわけにはいかぬので、へらで薬を塗って布を当てた。それを固定するため、常備している包帯を巻く。
 服を上半身だけ脱がせれば、その下にもまた傷と鬱血があった。胸元と腹に九つ、背には八つ。下女に氷を持って来させ、腫れ上がりそうな部分を氷で冷やしながら、また傷口に薬を塗って包帯を巻く。足の動かぬ身に一連の作業は大変骨の折れるものであったが、この猫が喧嘩をして訪ねてくるのはいつものことなので、吉継の手つきはこなれている。

「多勢に一人で向かうなど、愚かよの」

 無意識に独り言が漏れた。吉継が常々聡い聡いと褒めるこの猫は、愚かで真っ直ぐな猫である。この勇敢な猫が背に傷をつけているということは、大勢に囲まれた状態で喧嘩をしたのだろう。友情を理由に勝ち目のない戦に出るなど、戦国の世を生きる者としては愚かすぎる。
 すべての傷に包帯を巻き終わり、氷もすっかり溶けた頃、吉継は脱がせた服を元通りに直してやった。

「ほれ、終わったぞ」

 眠っている猫にわざわざ報告をしてから、吉継は部屋の定位置に戻り、読みかけの書物をまたぺらぺらと読み始める。時刻は既に暮れ六つ時を過ぎていた。薄ら暗くては字が読めぬので、蝋燭に火を灯す。
 愚かな猫の友がもし己でなかったならと考えた。健やかな体を持つ友ならば、己のように誹謗中傷を受けることもなく、それゆえこの猫が毎日のように喧嘩をすることもなかっただろう。交友関係も広く、このような狭い部屋には目もくれぬほど明るい世を広く見ていたのだろう。
 ああ憎いの、と吉継は息をするように人を呪った。


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