参
二階へ続く階段を一段一段、ゆっくりと登る。手すりを掴んだ手はほとんど命綱を掴むほどの必死さだった。摩擦熱に指先が焼かれるのも構わず、力のない身体を無理やり引っ張り上げるように、手のひらに力を込める。
ここにいてはいけない、と思った。漠然と。しかし、確かな恐怖と焦燥を伴って。
あるじ、と、言い聞かせるように私を呼んだ鶴丸の声が、和泉守の声が、耳元で囁かれるように何度も何度もよみがえる。そのたび、叫び出したい衝動を抑えるのが苦しくて、身体中から汗が噴き出した。
ここではない。ここではないのだ。
私の本丸はここじゃない。
降りしきる大雨が階下から浸水して迫ってくるように、じりじりとおそろしさが足元からせり上がってくる感覚があった。まぼろしをおそれ、焦燥だけで次の足を踏み出したそのとき、思うように持ち上がらなかった足が階段にぶつかって躓く。あ、と思った瞬間には身体が大きく前に倒れていった。
こける。
そう思って目を閉じ、来たる衝撃に備えたけれど、私の身体は倒れ切る前に空中で止まった。
「やあやあ」のんびりとした、だれかの声。
「そんなに急いで、どうした」
私ははっと目を開ける。つい先ほどまで誰もいなかったはずなのに、私の目の前には一人の男が立っていて、転びかけた私の身体を正面から抱きとめていた。月と湖の色を混ぜた瞳が、私の視線とぶつかっては薄く光る。
みかづき、と私は小さくつぶやいた。薄い唇がやんわりと弧を描き、彼の名前を真似た形を作る。
「事を急いても良いことはないぞ」
「三日月、はなして……」
情けなく震えた声は彼にどう聞こえただろうか。私はただおそろしくて、今自分を支える彼の腕が、私の三日月のものでないかもしれないことがおそろしくて、彼の腕の中で小動物のように縮こまるしかなかった。
「そう言われてもなぁ、きみ、ずいぶん顔色が悪いぞ」
三日月はあくまでやさしくわらっている。
「よし。俺がこのまま部屋まで運んでやろう」
「だいじょうぶだから、三日月」
弱々しい私の拒絶に、三日月は数回まばたきをして、それから「ふむ」とつぶやいた。私の身体を支えていた腕がゆっくりと離れていく。私はもう自分の力だけでは立っていられなくて、階段の上にずるずるとしゃがみ込んだ。三日月も真似てしゃがみこんだけれど、彼の方が二階側にいるから、見下ろされるままなのは変わらない。
「やはり、大丈夫そうには見えないのだが」
「だいじょうぶ、ったら」
「そうは言ってもなぁ」
顎に指を添え、片眉を下げてわざとらしく訝しみの顔つきをする三日月から、私はなぜか目が逸らせない。どこからどう見たって、そこにいるのは私の三日月宗近なのだ。そうでないわけがない。
だけど、どこからどう見たって私の鶴丸国永だった鶴丸国永が、私の和泉守兼定だった和泉守兼定が、私の刀たちを知らなかった。誰も、私の明石国行を、知らなかった。
見慣れた不思議な色の瞳が、ゆるやかな光をたたえて私を見ている。みかづき、と震える声で、私は目の前の刀を呼ぶ。
「ここは、どこなの」
蝉の鳴き声がうるさい。
細められた三日月の目には果たして何の感情があったのだろうか。彼の着物の合わせを掴み、皺が寄るのも気にせずにきつく握りしめて、私は噛みしめた歯の隙間から、押し出すように言葉を紡ぐ。
「三日月」
舌も喉も、今にもぼろぼろに腐り落ちていきそうだ。
「あなたも、私をあるじと呼ぶの?」
私はそんな問いを口にしたけれど、三日月が肯定を返そうが否定を返そうが、もうどちらでも結論は変わらないのだと気付いていた。要は、私と世界と、狂っているのはどちらかという話なのだ。肯定されるのならば頭が狂っているのはすなわち私であり、否定されるのならば気狂いなのは世界の方であって、どちらにせよ、私がまともでいられないことは違わない。
やがて、三日月は、そっと笑って、
「きみ」
と、言った。
戦う男のそれとは思えないほどに白く、しなやかな手のひらが、やさしく私の頭を撫でる。私の視界はいつの間にかぼやけていて、私を見つめる三日月の表情がもう、よく見えない。
「そんな顔をするな」
三日月は懐から一枚の紙を取り出して、私に胸元に押し付けるように寄越した。数度折り畳まれ、所々がぐしゃりと歪んでいた。受け取るまでもなく、折り畳まれた一番上に書いてあるひらがな一文字を見た瞬間、それが何であるのかを理解する。
「これを返そう。きみのものだ」
差し出された紙と三日月とを交互に見遣る。三日月はいつまでも穏やかに笑っている。
震える手でそれを受け取り、ゆっくりと、折り目を開いていく。開いた先には、紛れもない私の筆跡で、六振りの刀の名が書いてある。
太刀 鶯丸
脇差 鯰尾藤四郎
打刀 陸奥守吉行
大太刀 次郎太刀
短刀 薬研藤四郎
隊長 太刀 明石国行
私は、自分の目尻からつうとしずくの流れていくのを、他人事のようにながめている。
「その紙に書かれている意味が、俺にはわからん」
蝉の声が近付いてくる。すぐそこにいる三日月の声さえ、呑み込んでしまいそうな勢いだった。
「しかし、これはまぎれもなくきみのものだ」
紙を握る私の手に上から重ね、子どもをあやすようにそう告げる。あの夢の中で、私にお守りを返した明石国行のように。
追い立てるように蝉の絶叫が迫ってくる。耳を塞ぎたくて堪らないのに、私はただ阿呆のように固まって、乾いた唇の間からかろうじて言葉を紡ぐだけで精一杯だった。
「どうしたら、いいの」
蝉の鳴き声がうるさくて。
「明石がいないの。私の明石が……」
頭が痛い。目の前がちかちかする。
「きみ」と三日月がいう。
「彼らをどこへ行かせたかは憶えているか」
どこへ、と私は独り言のように繰り返す。三日月が辛抱強く首肯する。私の視界に滲んだ彼の顔はどこか心配げにほほえんで、私を見守っている。
そうして気付いた。
私は明石をどこへ行かせた?
「どこへ、……」
蝉の声が私を罵り立てる。息を呑む音さえも押し潰されて聞こえない。
「私、彼を、どこへ行かせたの」
思い出した。
だけど信じたくなくて、私は、縋るようにぽつりとつぶやく。頬の上を流れていく涙だけが冷たく、夏に犯されたこの空間の中でただひとつ、私の輪郭を形作る。
三日月の手が離れ、にぶく輝く二つの瞳がまっすぐに私を見つめる。その口がゆっくりと、言い聞かせるように答えを告げる。
「――」
蝉の絶叫がやまない。
ああ、と私はつぶやいた。とうとう心臓が貫かれたように。
すうと潮の引くように血の気が引いて、意識が遠のく。足元が揺らぐ。崩れ落ちる。遠ざかっていく世界の中で、主が倒れた、と誰かが叫ぶのが聞こえた。いっとう忙しなく屋敷を駆け回る、刀たちが。私の刀たちが……