ホテルに戻ったら我が物顔で男が居座っていた。残念ながら知り合いであった。
私が帰ってきたことに気が付いていないはずがないのに、男はこちらを振り向こうともせずに、ソファにしゃがみこんだまままっすぐテレビを見つめていた。こんな深夜に彼の興味を引くような番組が果たしてやっているものだろうか。財布とスマホと化粧ポーチ、最低限のものしか入れていないショルダーバッグをテーブルに置き、ジャケットを脱いで近くの椅子の背もたれに放り投げながら耳を済ませれば、流れてきたのは知らない国の言葉だったので、私はすぐにリスニングを諦めて、代わりに自分から口を開いた。
「こんばんは」
そこで男はようやく振り向いて、光のない真っ黒な瞳で私を見つめ、「こんばんは」と、にこりともせずに言い返した。
「またいらしたの」
「はい。また来ました」
「今は何を?」
「猫を探しています」
淡々と適当な返答を寄越して、また男はテレビに視線を戻す。丸まった背中の、ぼろいティシャツの背に寄った不恰好な皺を数秒眺めてから、私はシャワーを浴びるために風呂場へ向かった。
はじめて出会ったとき、男は自分のことを探偵だと言った。エル、と名乗った。
世界に名の知れた三人の探偵の中にそのアルファベットを持つ者がいることを、要らぬ教養を教え込まれた私はなんと知っていたので、当然その影にこの男を結びつけようと努力はしてみたのだが、彼のぼさぼさの頭と、ホームレスの服装と、生来背骨が湾曲しているのではないかと思わせるほどの猫背が最終的にはそれを許さなかった。結論それは私にとってはどうでもいいことだったので、私は何も聞かず、彼のことを言われた通り片仮名二文字で呼んだ。男の金払いは悪くなかった。この世で目を光らせておかねばならないのはそれだけだ。
すなわち、男は私の客である。
そして私の仕事とはもっぱら、知らぬ男と寝ることである。
毛先から雨粒を滴らせつつ部屋へ戻れば、エルは先ほどと微塵も変わらない姿勢のままそこにいた。いつの間にかテレビの画面は消えていて、部屋は静かだった。真っ黒いディスプレイの中に移る半透明の自身と見つめ合って、男が何を考えているのか私には知る由もない。彼の座るソファの横に寄り添ったサイドテーブルには、わずかに茶色い牛乳のマグと、角砂糖が盛り付けられたワイングラスが置かれていた。
「また砂糖を食べていらっしゃるの」
「頭を使うには糖分が必要ですから」
男はこれ見よがしに新しい砂糖のさいころを一つ摘まみ上げて、牛乳の中に落としてみせた。きっともうぬるい。マグから湯気は立っていない。甘ったるい粒子は手をとり合ったまま、不格好に溶け残って終わりだろう。その様を想像して、私は、軽い吐き気がした。
「飲みますか」
「遠慮しておきます」
「残念です」
さして残念でもなさそうにそう言って、エルは砂糖まみれのマグカップに口をつける。尖った喉仏のところがごくりと液体を飲み下すように動くのを眺めてから、私は猛烈に、喉が渇いた、と思った。手足は鉛が沈着したように重たく、内臓ひとつひとつが生命活動を一時休止したがっていた。
「エル。私、もう眠いわ」
「私はまだ」
「先に休んでもいいかしら」
「どうぞ」
重たい身体を引きずって、私は寝室へ足を向ける。髪の毛の先から重力に押し負けて落下する水滴が、ホテルの絨毯に染みの獣道を作っていた。やわらかなファブリックの感覚をはだしの足裏に感じながら不意に私は立ち止まり、思い立って男を振り返る。彼はやはり動かない。テーブルに戻されたマグカップは空っぽだった。
「エル」
「はい」
「猫のお名前は何というの?」
「まだわかりません」
男がベッドに潜り込んできたのはそれからおよそ二時間後のことだった。遠慮のかけらもなしに、私を包んでいた布団を堂々と剥いで、彼はマットレスの上に寝転んだ。セミダブルのベッドは二人で眠るには狭く、しかもうち一人は成人男性なので、横並びで寝るにはどうしたって多少身体がぶつかりあった。私の背には彼の右腕が当たっていた。
「お仕事は終わったの」
背中を向けたまま問えば、いいえ、と声が返ってくる。その中に眠たげな響きは微塵もない。
「疲れたので、今日はこれまでということにします」
「あなたも疲れることがあるのね」
「糖分も睡眠も、生きていくためには必要なことです」
そう言って男は私と毛布を分け合った。食欲と睡眠欲。男はいつだってこうやって明言してみせるくせに、そこにもう一つの欲求を並列しない。
私はまた気が向いて、枕から頭を起こし、男に向かってくるりと身体を反転した。そうして骨ばった男の頬に手を添えて、試しにその唇にキスをしてみることにした。
男は私の客であったが、とはいえ彼が私に要求してくることは他の客とは違っていて、つまり彼は私との性交を望まなかった。では彼が何に対して金を払っているのかというと、これがまた笑ってしまう話だが、こうやって一つのベッドでともに眠る、いわゆる、添い寝、というやつである。男はただの一度として、私のむき出しの肌に手を伸ばしたことがない。それを別段嫌だとか、不快だとか思ったこともないし、不思議だと感じることさえこれまでなかったわけだが。
唇を離すまで、男はずっと目を開いたままだった。色鉛筆で塗りつぶしたみたいな真っ黒い目。日本人の血なんてきっと少ししか入っていないのだろうに、病人のように白い肌とは対照的な漆黒。
「……まずい」
男の舌は鳥肌が立つほど甘く、キャンディを舐めた後のような後味があった。舌に残った砂糖の甘さに思わず私は顔をしかめて、それから自分の唇を舐めた。
「糖分は大事ですよ」
男はもう一度先ほどの科白を繰り返す。
この仕事を始めてから砂糖というものにとんと縁がなくなってしまった。男に好まれる体形を維持して生きるのに最低限の栄養さえあれば良かった。チョコレート、シフォンケーキ、プディング、ダックワーズ。会うたびに私に菓子を寄越してくる小太りの男もいたけれど、花開く笑顔でそれらを受け取った私は、ひとりになってから人を殺す顔で駅のホームのごみ箱にそれらをパステルの包装ごと投げ捨てている。
「少しはお控えになったら。寿命が縮むわ」
「生憎、長寿に価値を感じる人間ではないので」
「ああ言えばこう言う」
「私は子どもですから」
私はエルのすぐ横にまた倒れ込んで、男の右肩に顔を埋めた。痩せた皮膚のすぐ下に、硬い骨の感触がした。かすかに香る若い男の体臭。その中に甘い匂いは混じらない。あれだけ砂糖を摂取しても容易に変化をきたさない、人間の身体というものはよくできている。わかっている。
「あなた、初めて砂糖菓子を口にしたときのことを覚えてる?」
「覚えています」
「私も、初めて男に抱かれたときのことを覚えているけれど」
「さぞ素晴らしい経験だったのでしょうね」
「まったく。何一つ特別じゃなかった」
電気の消えた寝室に交わされる密談は当然ながらひそやかで、どこか遠くで鳴る空調の音さえもはっきりと鼓膜を揺らすほどだった。手を伸ばして男の胸板に触れ、その内側に脈打つ心臓の鼓動を感じながら、私はそこに、初めて肌を明け渡した男の記憶を重ねる。
「初めてなんて、そんなに神格化するようなものではないの。大人になれば、誰だって知っていることだわ」
「ならば、それに夢を見るのは子どもの特権というわけですね」
「あなたは夢を見ているの?」
「砂糖菓子を初めて食べたとき、それは夢のような出来事でした」
寝息もなく、呼吸の音さえも遠く、まるで死人のように目を閉じている男の顔には色濃い隈があった。冷たい頬に手のひらを重ね、親指で撫でるようにその隈をなぞっても、男は目を醒まさない。
この男はいつか私と寝るだろうか、と私は考えてみる。金で私の身体を買う大勢の男たち。その中の一人にこの男を落とし込めてしまえたなら、きっと彼ももう二度と、私に砂糖を勧めることはないだろう。
「エル」
けれどそれは、途方もない未来の話だ。私は彼に自らの肌を曝けない。身体に巻き付けたバスタオルをほどき、わずかに濡れた手を彼に伸ばすこともない。振り払われることがわかっているから。私の誘惑はそれを享受するための金と、私の手を取る意思のある男にだけ与えられるものだ。
「あなたが本物のLだったら面白いわね」
薄い耳たぶに唇を寄せて、私は歌うように囁く。音もなく深い眠りの中にいる男はいつまでも目を醒まさない。すげなく断られることを分かった上で、それでも懲りずに私に砂糖を勧める男。それはひとりの子どもだった。私は彼の手を払いのけ続ける。
甘いものは嫌いなの。
タイトル「大人にできないこと」
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テーマ「誘惑」
2021.5.24 企画「吝嗇家」様へご提出