ニアがその話を聞いたのは、仕事の関係で彼らの拠点を外していた部下の一人の定時連絡が入ったときだった。特段何事も滞りなく進行している、という旨をもう少し小難しい言葉で飾って説明した上で、そうですか、とだけ返したニアに、彼は続けた。
「そういえば、あなた宛てにメールが来ていましたが、確認されましたか」
ニアはプラモデルの飛行機を遊ばせながら、知りません、と言った。報告中もこうして玩具を手放さないニアに、慣れた部下は何も言わない。ノイズでちらつく画面の向こう側で、男は生真面目に唇を引き結んでいる。
「恐縮ですが、ご確認をお願いします」
「あなたが開封してどうぞ。そうしてくださいと伝えているはずです」
「ハウスからです」
小さな飛行機をのんびり宙に漂わせていた手が止まる。肉眼では覗き込めないほど細かに造られた窓の群れから、ニアはそこでやっと画面に視線を移した。
「ハウス」復唱する。男は頷く。
男がその先に言葉を続けないので、ニアは仕方なく差出人の名前を聞いた。男は予め用意していたかのように整然と一人の女の名前を口にした。ニアは目を細め、もう一度、そうですか、と言った。朝と夜が逆転した地球の裏側にて、男はニアの目の鋭くなったことを見つけなかったかもしれない。画面には何度もこまめに筋の砂嵐が通り抜けている。通信を切った。
真っ黒になった画面に薄く反射する自分の顔と対峙しながら、ニアは床の端に玩具のふりをして転がっていた自分用の端末を手に取る。自らいじるのは随分と久々なことだ。起動した画面には待っていたかのように一通のメールの知らせが佇んでいた。差出人の欄には部下の言った通りの言葉が並んでいた。
The Wammy’s House.
そして続く女の名前。
ニアは溜息を吐き、メールを開封する。
イギリス。ウィンチェスター。
彼がニアという名前を与えられた故郷は、日本からジェットで十二時間の旅路の先にある。小ぶりなプライベートジェットはそれなりに快適ではあったが、同行する部下が彼のためにと持参していたパズルを十数分で終えてからというもの、ニアは退屈になって、手慰みに自分のくるくるとした前髪をいじるしかなかった。
「珍しいですね」
通路を挟んで隣に座った、スーツの部下がつぶやく。
「メールの内容は何だったのですか」
「くだらないことです」
ニアは間髪入れずにそう答えた。それは本心だった。部下はいつかのニアを真似するようにそうですかと言う。
「差出人の女性は、あなたとは同じくらいの年頃とお聞きしました」
「誰に」
「ミスター・ラヴィーに」
ニアは指先に前髪を巻き付けながら、窓の外に視線を遣った。彼の左側に並んだ楕円形の窓はその顔よりも大きい。
「彼女はいつもテストで最下位でした」
ニアは視線を前方に戻し、ずるりと身体をシートの上で滑らせる。雲海を眺めるのは十秒で飽きた。
「今はハウスでロジャーとともに子どもたちを見ています」
「まるで先生ですね」部下が感嘆する。
「ワイミーズ・ハウスの子どもたちを見られるというのは、なかなか稀有な才能のように思います」
部下の発言はよく的を射ていた。彼のこういった聡明さをニアは正当に評価している。ニアが言葉を返さないとき、それは否定する必要がないか肯定する必要がないかのどちらかであって、今回についてはすなわち前者だ。聡明な部下はそれさえもよく理解している。
ニアは前髪から手を離し、額の上に戻った毛先の痒さにわずかに眉を寄せた。
「あと何分ですか」
「フライトはもう二時間ほど。着陸した後、車でさらに一時間走ります」
頷く。目を閉じる。眠るように。
「ニア」部下が呼ぶ。
「到着しました」
そこでニアは自分が車に乗っていることに気が付いた。どうやら眠っていたらしい。ニアの返事を待たず、ただ起きたことだけをバックミラー越しに確かめてから、部下は運転席を降りる。
後部座席の扉が回り込んだ部下の手によって開けられるのを待ってから、ニアは柔らかい座席を辞して地面へと降りた。花に縁取られた石畳の先には、黒く細い装飾の門。その前に一人、ベージュのボウタイブラウスとチョコレートブラウンのスカートを身につけた女が立って、漆黒のリムジンとそこから降り立った彼らを穏やかな微笑みで持って見つめている。
「久しぶり、ニア」
「お久しぶりです」
「長旅お疲れ様。遠いところをどうもありがとう」
取ってつけたような労いと謝辞。しかしニアが黙っていたのは、その言葉にあまりにも感情がこもっていなかったことに機嫌を損ねたのではなく、目の前に二本の足でしかと立つ彼女の姿が、記憶の中のそれとうまく重ならなかったからだ。
ニアの斜め後ろに立つ部下にも申し訳程度の挨拶と労いを与えてから、女は彼らを屋敷の中へと案内した。建物内の構造は見る限りではニアがいた頃と特段変わった様子もない。廊下を歩く途中、通りがかった部屋からは時折子どもたちの声が聞こえた。
「いずれはあなたも後継者を選ぶのね」
数歩前を行く背中がつぶやく。
「いつだか、エルがそうしたように」
ニアは黙って女の後に続き歩いた。聡明な部下は口を噤み、誰もいないかのようにひっそりと彼を後ろを忍び歩く。
入り口からそう離れていない応接室に入室し、ニアは特に断ることもなくソファに腰掛けた。部下の男は背もたれの後ろに背筋を伸ばして立っている。女は少し外した後で、三人分のコーヒーをトレーに乗せて戻ってきた。
「それにしても、来てくれると思わなかった。嬉しいわ」
「用事が済み次第帰ります」
ええ、と女が頷く。
「忙しいものね。時間を作ってくれてありがとう」
そう言って女はコーヒーを一口飲んだ。ニアはソファの上で行儀悪く片膝を立て、左手で前髪をくるくると捻った。彼の癖だった。
「物はどこにありますか」
「どうするの?」
「私の質問に答えてください」
淡々と、それでいて隙のないように、ニアは女の問いかけを跳ね除ける。女はどこか唖然と唇を半開きにしてはまばたきする。その表情はまさしく、ニアとともに幼少期をハウスで過ごした一人の少女だった。門の前で彼らを出迎えたときには見つけられなかった面影を、ニアはやっと彼女の中に見出す。
憶えている。
「ノートはどこにありますか」
昔からこうだった。
女はしばらくの間、ニアを黙って見つめていた。今度こそ、女が口を開くまで、ニアはもう何も喋らないつもりでいた。女のきょとんとした表情は、この張り詰めた空気感をわざと無視しているようにも見えた。無知のふりをした女のこういう躱し方が、昔から気に入らない。
数分、沈黙が続いた。やがて、根負けしたかのような溜息の後に女が立ち上がっては、部屋の隅にあったアンティークデスクの引き出しから一冊のノートを手に戻ってきた。
「どうぞ」
供え物のように、机の上に乗せて、そっと差し出す。ニアの方へ。
目に焼き付いて離れない黒表紙は、かつて世界を恐怖に陥れた、小さな殺人兵器だ。
文字ひとつない漆黒の表紙に、ニアは特に迷うことなく手を触れる。そのまま、指先を乗せたまま素早く部屋の中に視線を走らせるが、世界は何も変わらぬままだった。
「死神は来ましたか」
「ええ」女が答える。
「だけど、すぐにどこかへ行ってしまったわ」
女はさして興味なさそうにそう続けた。ニアは次に、ノートの両端を指でつまんでページをばらばらと流し読み、中身を確認する。薄い灰色で引かれた罫線の群れ。文字らしき文字はどこにもない。ノートは。
「私の好きにしていいと言われたから、あなたを呼んだ」
ノートは、新しかった。
きっと、誰も殺していない。
ニアは俯いたまま、瞳だけを動かして女を見遣った。女は穏やかな表情でまたコーヒーを一口飲んでいる。
部下に急かされ日本の拠点で開封した、女からのメールはほんの私信であった。今この場で殺人ノートを挟んで向かい合う彼らを見れば、彼ら二人以外の人間はもしかしたら勘違いをしたかもしれない。だけど違う。女が彼にメールを寄越したのは、彼がLだからではなく、彼がニアだからだ。
「なぜ私の名前を書かなかったのですか」
だからニアは、躊躇うことなく口にする。
「あなたは私が嫌いなのでしょう」
ニアは女のことが気に入らない。昔も今も。それは女も同じだった。互いにそうだと知っていた。
今目の前で、底知れぬ冷めた笑い声を立てる女が、自分を心から嫌っていることを知っていた。
「ニア。あなたって、女心には疎いよね」
「……」
「あなたの名前、書こうかなと思ったの。十八回くらい。でもやめた。あなたと話せなくなるのはさみしいから」
そうですか、とニアは言う。女のほほえみは絶えない。
「私がこのノートに手を出してたら、世界はまた変わったかもしれないけどね」
「あなたには無理です」
ニアは告げる。まっすぐに。
世界一嫌いな幼馴染の名前も書けない彼女には。
「あなたにはできないことでした」
女は何も言わずにほほえんでいる。
気配を消して後ろに控えていた部下の名を呼べば、聡明な男は小さな返事の声とともにニアにマッチの箱を差し出した。振り向くことなく手首だけを捻ってそれを受け取り、ニアは躊躇うことなく一本に火をつける。爪楊枝ほどの小さな杖の先、鮮やかに燃え上がる橙色はほんの一粒。それなのに、咽せ返るほどの火の匂いだけが強く、強く香っていた。
2021.8.4 主催企画「kindred」へ提出