「結婚しよっか」
雷が落ちたかと思った。
こういうのをなんというのだっけと私は思考をめぐらせる。急転直下、あるいは青天の霹靂。軒先から仰げる青空はどこまでも澄んだその色のまま、雷雲どころか雲の切れ端一つすらないけれど。
けっこん、と私は阿呆のように復唱した。あまりにたどたどしくて、彼の口からたった今紡がれた滑らかな言葉と同じものとは思えないひどい有様だった。それでも彼はやわらかいほほえみを絶やさず、私をじっと見つめている。私なぞ足元にも及ばない聡明さを持っているのに、理解の遅い私に対して彼はいつだって辛抱強い。
「けっこん、って、結婚、ですか」
「そうだよ。つまりは、君が僕の奥さんになって」
「奥さん、」
「僕が君の旦那さんになる」
「旦那さん……」
口元に運ばれるはずだった湯呑みが、手の中で行く先を忘れたみたいに呆然としていた。彼の口にした単語を繰り返すだけになっている私はさぞかし滑稽だっただろうと思うのだけれど、やさしい彼はやっぱり少しだってからかう素振りを見せない。彼の後ろに見える青空が澄み渡っていて綺麗だなぁとか、今日は絶好の洗濯物日和だったなぁとか、脳の片隅がどうでもいいことを考え始めたのをなんとか抑え込んで、私は必死に自分の思考を目の前の会話に繋ぎ止める。
それでも、結局のところあんぐり開いたままの口から言葉はどうしても出ていかなくて。数分にも渡った(ような気がする)沈黙を、先に破ったのは彼だった。
「驚かれるとは思ったけど、ここまでとは思わなかったな」
と。苦笑しながら。
穏やかに低い笑い声に、渋滞していた思考回路がやっと少しほぐれた気がした。ええ、とか、ああ、とか、意味のない言葉を数回口に出してから、私は緊張を出て行かせるようにゆっくりと息を吐く。
「あの、京楽さん」
「うん」
「不躾な質問を、お許しいただきたいのですが……私たちが結婚したとして、今と何が変わるのでしょうか」
「そうだねぇ」
そこで彼は顎髭を触り、一度視線を斜め上へ遣った。
「例えば、君の苗字が僕とお揃いになる」
「呼び方が変わるだけですね」
「結婚式で君の白無垢姿が見れたり」
「貴方が見たいだけでは?」
「休みの日には一緒に街に出てお散歩できる」
「今もご相伴に預からせていただいてますが」
「ほんと君は手強いなぁ」
間髪入れず打ち返し合う問答。先に根を上げたと思われたのは彼の方で、ちょっとだけ余裕のできた私は湯呑みを置いて両手を膝の上に重ねた。
それからしばらくの間、彼はあぐらの上に頬杖をつき黙っていた。次の弁論を考えているというよりは、すでに頭に浮かんだ一つを彼自身が吟味しているように見える。
だから私は、彼がいつも私にしてくれるみたいに、彼の準備ができるのをじっと待った。やがて、先程までよりもわずかに低められた声が再び鼓膜を揺らすそのときまで。
「たとえば、僕がいつか死んだとき、」
感情を隠したような声音。
だけどほほえみだけは変わらずそこにあった。
「僕が持ってるもの全部、堂々と君に遺していける」
最低だ、と思った。だけど口には出さなかった。
のちに知ったことだが、この言葉を聞いたその瞬間、私はあっさりと首を縦に振ったらしい。
◆
尸魂界のどこを探したって、あんなにひどいプロポーズをする男はいないと思う。
布団を挟んで相対する男の整った顔立ちをまっすぐ見つめながら、私はそんなことを思い返していた。それはおそらくある種の現実逃避でもあったかもしれない。室内はすでに薄暗く、部屋の端に置かれた小さな行燈だけがほんのりと淡くあたたかく光っている。
「これを言えばよかったかもね」
彼の声は落ち着いていた。緊張しているつもりはなかったけれど、それでもその声には私を慮るような響きがあった。
「夫婦になれば、堂々と君を抱けるって」
「だから、それは……」
あなたへのメリットでしょう、と言おうとして、私は口をつぐんだ。居た堪れなくなって俯き、膝の上で握りしめた拳を見下ろす。
彼だけへのメリットじゃない。私だって、うれしくないわけがない。
小さく空気を揺らすような笑い声がした。ついで、畳を踏みしめる些細な音の後で、視界一面に影が落ちる。白い浴衣が灰色になって、頑なに膝の上から動かないでいた手首をやわらかく掴まれた。
「おいで」
「……っ、」
顔を上げて、心臓までもが掴まれたみたいに、胸がぎゅっとなった。自分を見つめる彼の顔が、あんまりにやさしくて。
そうして引っ張られるように布団の上に上がって、私はされるがままに京楽さんの抱擁を受け入れた。背中に回った彼の腕がたくましくて、頭を寄せた胸板が厚くて、それを意識した瞬間、身体が勝手に小さく震えた。
「怖いかい」
「……それは……だいじょうぶ、ですけど」
また笑われるかな、と思ったけれど、彼は何も言わずに私の背中を撫でるだけだった。
縋るように彼の着物の合わせを掴んで、ぶつけるように額をくっつける。彼がよくつけている香水の匂いはどこにもなくて、代わりに新鮮な石鹸の匂いがわずかに香った。私からも、きっと同じ匂いがしているのだろう。
「怖かったら、ちゃんと言うんだよ」
「……心配性ですね」
「僕も臆病だからね。君に嫌われやしないかっていっつも恐る恐るなの」
背を撫でていた手のひらがゆっくりと動いて、後頭部をぽんぽんと叩く。それはまるで子どもをあやすような仕草だった。
――わかっているんだ、このひと。
そう気が付いた途端、胸のうちで蓋をされていた感情が、川が氾濫するみたいに押し寄せてきた。
あのとき、自分の死後を思い描いた彼に、私が何を思ったのかということを彼はわかっている。何を思うかをわかって、その上であんな言い方をしたのだ。
「だったら、」
皺が寄るのも気にせずに、彼の浴衣を握った手に力を込めた。紡いだ声は震えた。
「だったら、……」
いつの間にかあつくなった目から、勝手にぽたぽたと涙がこぼれていく。私の着物を濡らし、彼の着物を濡らし、まるでお揃いのように安い染みを作っていく。
この手に掴んだぬくもりはいずれ消える。
このたび私の夫になった彼は護廷十三隊の死神で、総隊長で、尸魂界を守護することに身命を賭している。一死以て大悪を誅す、そんな忠義に従って、いつか命を捨てなくてはいけないときが来るかもしれない。
彼が命をかけるのは私ではなく、この世界を護ることだと知っている。
そして、私がそれを理解していることをわかって、彼はあんな酷い言葉を寄越したのだ。
「あなたは、ずるいです」
込み上げる嗚咽の合間になんとか紡いだ。泣き顔を見られたくなくて俯いて、それでも拳だけはこの怒りを伝えようと彼の胸板を叩いていた。
「ずるい。ずるすぎる。信じられない! 私が怒るってわかってて、悲しむってわかってて、あんなひどい言い方して!」
「うん。ごめんね」
「でも、どうせ取り消してはくれないんでしょう」
「……そうだね」
彼の手はまた居場所を変えて、子どものように泣き喚く私の髪の毛を梳いていた。
「嫌いになったかい」
「……きらいになりたかった」
「そっか」
穏やかな口調は変わらない。どうしようもなく悔しくて、私は意地を張るように顔を上げないでいた。駄々をこねたって彼にはきっと通じない。彼の覚悟は変わらない。
わかってる。
「酷い言い方をしてごめんね」
声は暗闇に溶けていくようなやわらかさだった。やんわりと私の肩を掴んで胸元から遠ざけて、灰褐色の瞳が優しく細められては私を見下ろす。
「それでも、あげられるものだけは全部、生きているうちに君にあげたいんだよ」
ひどいひと。
彼の親指が私のまぶたを撫でるようにして、あふれ続ける涙を拭う。その感触に浸りながら、私は心の中で夫を詰った。
何も言わないでいたら、そのまま壊れ物をさわるみたいな丁寧さで布団の上に押し倒された。首横から垂れた彼の長い癖毛がふわふわと、ひっくり返った視界に揺れている。涙はやっぱり止まらなくて、その度に彼の指が何度でも涙をさらっていった。
「京楽さん、」
「いい加減下の名前で呼んでおくれよ。君ももう京楽さんなわけだし」
「……春水、さん」
「うん」
結局、そういうことなんだ。
あまりにもやさしいまなざしに耐えられなくて、私は目を閉じた。また押し出されるみたいに涙が流れた。
このぬくもりがうれしかった。
やがてこの手から消えて亡くなってしまうとしても、それがどれほどおそろしくても、今この瞬間彼のぬくもりは確かに私の手の中にある。
いつか、この思い出だけを頼りにひとりで生きていかなければならなくなるとしても、その可能性をわかった上であのときの私は首を縦に振ったのだろう。
結局はじめから、それが答えだったのだ。
「あなたがすきです」
今、手を伸ばせば届くところに、濡れて輝く二つの光がある。この光を、この色を、絶対に忘れないでいようと思う。
そうすればきっと、あなたがいなくなった後も、そのぬくもりを抱えて私は生きていけるだろう。
2021.7.25
企画「そのぬくもりに用がある」様へご提出