女を抱くことは殺すことと似ている。
つまりはそれの一段前の話で、肉体を傷つけるということはすなわち愛することに似ているのだ。
「仕方なかったんだよ」
女の言葉は駄々をこねる子どもの言い訳を真似ていた。反省に類する感情は少しだって込められていない。血にまみれたベッドの縁に腰掛けて、頬杖をついた両手に顎を乗せるその様はいっそ不遜でさえあった。
「やっぱり、まずかったかな」
「殺せとは命令してねぇよ」
「うん。でも、殺しちゃだめとも言われてなかったから」
上目遣いで容赦をねだる。女の任務の大半はハニートラップを要するもので、女自身もそれを糧にこの組織で少しずつのし上がってきた人間なので、要するに男の心を転がすように撫でるのは巧かった。ジンに対してそれが効くかと言われると、また別の話だが。
「成果は」
ポケットに手を突っ込み、部屋に充満した汗と血のにおいに辟易しながらもジンが問いかければ、女は記憶を探るように一度彼から目を逸らし、とある住所と時間を口にした。
「ミッション・コンプリート!」
「その情報が本物だったらな」
「ええ? 嘘だとは思えなかったよ?」
土足のままカーペットに上がり込んで、女のそばへ近づく。赤いシーツの海に沈んだ裸の男が、瞳孔の開いた瞳で虚空を見つめているのを視界の端に留めながら。
自身を見下ろすジンに、女は臆することなくほほ笑んでいる。その目の下に血飛沫がひとつ飛んでいるのがまるで涙のようで、その様はある種の絵画にも見えた。女は何せ四六時中無邪気だ。寝起きに歯を磨く程度の当然さで男に抱かれ、男を殺す。
「今更尋問しようにもさ、もう死んじゃったし」
「そっちじゃねぇよ」
女はぱちぱちと目をまばたかせた。しらばっくれているというよりは、本当に心からジンの言葉の意図が理解できないようだ。しかし、人の本心を知るのはいつだって当人一人だけなので、他人の見た目と振る舞いから勝手に都合の良い解釈をすることをジンは良しとしない。
「嘘を吐ける口は二つあっただろう」
加えて与えたヒント一言で、女はやっと意を得たりとてにっこりと唇を笑ませた。こぼれ落ちるように、薄い声が「やだ」と呟く。
「そんな悲しいこと言わないで」
忠実なベレッタは今日も彼の黒服の中に忍び、断罪の時を待っている。
ホテルの前では車が男と眠っていた。運転席でハンドルにもたれて項垂れていたウォッカが、扉の開いた音にハッとして身体を起こす。助手席に乗り込むジンと、後部座席に飛び込むように座った女を一度ずつ見遣ってから、従順な部下は何も言わず、そろそろと車を走らせる。
後部座席を占領した女は悠々と真ん中に陣取って、窓の外を流れていく夜をぼんやりと眺めていた。バックミラーに映った女の頬はもうありふれた血の跡もなく、時折車内を通り過ぎていく街灯の光に照らされてつるりと光る。
「でもね、ほんとに仕方なかったの」
不意に落ちる独白。あの八畳一間の小さな寝室で、一人の男の死体を背にして告げたのと同じ言葉。先程と同じようにそれはただの言い訳であって、懺悔には程遠い。
「愛してるって言われたんだ」
贋の喜びとともに、嘲るように。
「だから殺しちゃったんだけど」
鏡の中、反転した女の横顔がわずかに動き、暗く輝く瞳がジンを見つめる。
「殺す?」
「ぬかせ」
そう、と女は言った。鮮やかなローズピンクの唇が、どこか皮肉げに歪む。
それきり、車内には沈黙が落ちた。女はまた窓の外を見つめる。ジンは黙って懐から煙草を取り出し、寡黙な運転手はその場にいないかのように気配を消して車を走らせ続ける。
女を抱くことは殺すことと似ている。
それの一段前の話で、つまり愛するというのは肉体を傷付けることとよく似ている。
背に立てられた爪痕さえ、時が経てば消えてしまうのだ。劣情と殺意の爪先は薄い皮膚を抉り裂いて、真っ赤な一筋を滴らせる。まばたきほどの瑣末なひととき。それが終われば何も残らない。
特殊な嗜好を持った人間をジンは山ほど見てきたけれど、その中でも女は比較的奇特と呼ばれる部類の人間であった。彼女にとって手ずから他者に与える傷は、一つとして死を与えるためのものでも、あるいは慈しむように触れるためのものでもない。傷付けることそのものがすなわち愛するということの最上の手段であり、そこにあるのは一切の混じり気ない、純然たる愛そのものだ。
膿んだ孔の奥に指を挿れて、犯すように肉を抉り、痛みに叫ぶ誰かを見て、女は極上に美しく笑うのだろう。
“あいしているわ。”
「ジン、私ね、いつかあなたに殺してほしいの」
耐えきれずにジンは声をあげて笑った。女の愛情は与えるにも与えられるにも傷のみを介している。そうでなければ生きていけない、哀れでかわいらしいいきもの。
「いいぜ。なるべく時間をかけて殺してやる」
「素敵!」
甲高い声で女が沸き立つ。
「あなたのそういうところが大好き」
「そうかよ」
「うん。愛してるわ、ジン」
ぺらぺらと愛を宣う女はさぞかしご満悦な様子であった。ジンはそれきり会話を打ち切って、肺がいっぱいに満たされるまで深く煙を吸い込んだ。
ジンはサディストではなかったが、それでも女に対する加虐欲が全くないかと問われたら、即座に否定を返しただろう。それを考えれば、結局のところ彼らは同類と呼ばれるべき存在だったのかもしれない。けれどその先を考えるのも面倒なので、彼はひとまず女に倣い、その感情を体良く愛と呼ぶことにしている。
タイトル「触れるためにある傷じゃない」
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テーマ「傷」
2021.7.10 企画「吝嗇家」様へご提出