「Lが死んだ」
そう言ったきり、女は部屋に閉じこもってどうやらさめざめと泣いていた。彼女を部屋から外へ歩き出させる男は残念ながらもうこの世にはいないので、私もまた知らぬふりをして平時通りに部屋にこもっていたが、三日経ったところで私の部屋をノックした世話役がおそるおそると扉を開けて、「ニア」と控えめに私の名を呼んだ。
「何ですか」
「なまえが部屋から出てこないのです」
「知っています」
「恐縮ですが、あなたから声を」
「何の意味があるのでしょうね」
私は左上だけが未完成のミルクパズルを見遣ったままぼやく。世話役が言葉に窮して困っている気配がしたが、それは私にとってはあずかり知らぬことだ。床に散ったピースから、レタリングされた黒い"L"の欠片がプリントされたものを一つ選んで摘まみ上げ、宝石の鑑定士を真似て天井の灯りに透かすかのようにかざしてみる。白と黒はどこまでも不透明な二色のままだ。
途端つまらなくなって、ピースをぽいと投げ捨てて私は床から立ち上がる。世話役が扉のあたりで驚いたようにびくりと肩を揺らした。私はその横を縫って部屋を出た。
廊下を三歩歩いたところで、部屋の電気が消える音がした。
電気は消え、カーテンは閉められ、散らかった薄暗い部屋はさながら監獄であり、真ん中にぽつんと座っている女は囚人だった。扉を開けたその隙間から一筋の光が包丁で切ったかのように部屋に差し込んで、女の頭を二つに割った。女は動かない。
「Lが死んだわ」
私は思わず溜息を吐く。扉はそれ以上開けなかった。半分だけ開いた隙間から右目を覗かせて、鼻をつく妙な香りに私はすぐさま辟易とした。それはもしかしたら血の匂いだったかもしれないし、女のよく使っていた香水の臭いだったかもしれない。
「知っています」
「悲しくはないの」
「どうでしょうね」
私の返答は本心だった。少なくとも女の口にした悲しいという感情に完全一致するものは私の中にはないと思われたが、今の女にそこまで説明して、彼女が聞く耳を持つとは到底思えなかった。
「エルが、……」
女は囁くようにすすり泣いている。それをしばらくの間私は立ったまま聞いていた。おそらくは時間の無駄だったが、しかし今は生憎時間を持て余しているときだった。急がずとも五分で完成するパズルに、その塗装の丁寧さにわざと感心しては一時間費やし、そうやって未完成なまま放置してきた。
女の背は死にかけの虫のように丸まって、髪は雨風に晒された乞食のように乱れている。開けた扉の少しの隙間から流れてくる部屋の空気は、肌にまとわりつく、妙に不快な重苦しさがある。
「エルを殺したのはキラです」
私は口を開く。
女は答えない。
「私は日本へ行きますが。あなたはどうしますか」
にほん、と女はたどたどしく繰り返した。まるで初めてその言葉を知ったように。
「何をしに」
「キラを捕まえに」
「Lとして?」
振り向かずに告げられた、女の声は尖っていた。クエスチョンは純然たる皮肉であり、語尾はほとんど嘲笑に近い。
「あなたがLだなんて」
「笑いたければどうぞ」
Lはただの記号に過ぎない。しかし女は――彼の本当の名前を知っていた彼女は、だからこそ理解していても、きっと最期まで納得ができないでいたのだろう。論理として全くわからないではない。彼の名前など、あるいは知らない方が女は幸せでいられたのかもしれない。
「私は日本へ行きます」
私は繰り返す。
「あなたはどうしますか」
女は答えない。
やがて、女の肩が小さくひくりと震えた。ひくり、ひくりと。泣いているのだろうと想像するのはたやすかった。三日三晩泣き続けても人間の涙というものは案外枯れないらしい。
五分間の沈黙を待ってから、私は踵を返した。牢獄の扉をそっと押し戻し、背を向ける。檻が閉まり切る間際、隙間から差し込むように声が聞こえた。
「さようなら、ニア。あなたの旅路に幸多からんことを。」
女が自室で首を吊ったのはその翌日のことだった。
女の火葬に立ち会った。世話役はもの言いたげな様子で私の傍らに立っていたが、私は何も言わなかった。彼が私に何を期待していたのかは知らないが、万が一、死の海に自ら沈んでいった彼女の精神がすくわれることを願っていたのなら、それははなから役違いというものであった。私は知らぬふりをし続け、彼といつまでも目を合わせなかった。
女の灰が煙となって空に登っていくのを見上げながら、私は私の新しい名前について考える。A, B, C, D, …… H, I, J, K, その後に続くL。十二番目の陳腐な子ども。
――あなたがLだなんて。
嘲笑う女の声はいつまでも耳の奥にこびりついている。呪いのように。
――さようなら、ニア。
所々に千切れた雲の切れ端を浮かべ、青空は毒々しいほど澄んだ色をしていた。私はまぶしくて目を閉じる。ハウスの庭をさざめくように風が駆け抜け、思い出したように時折私の頬を撫でていった。
「日本へ行きます」
呟いた言葉に、隣に立っていた世話役が小さくはいと言った。私は目を閉じたまま、まぶたの裏に明滅する太陽の灯りを見つめる。
さよならを云うつもりはない。
お前の物語は、まだ終わらせない。
タイトル「物語はここから」
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テーマ「さよならを云うつもりはない」
2021.6.12 企画「ただでは生きない」様へご提出