4
その少年と出会うより先になまえは、少年の父親と母親を知っていた。だからこそ彼を初めて見たとき、変わった子だと、いっとう強く思ったのだ。
蛙の片足を掴んでさかさまに吊るし上げ。そんな残酷な行為を働きかけながらも少年は顔色ひとつ変えず、むしろその様をじっと見つめるなまえこそが不愉快の元凶であるかのように、眉をひそめた。
「なんだよ」
「かわいそうだよ。はなしてあげなよ」
なまえがぴしゃりとそう言ってのけたことが意外だったのか、彼はわずかに目を見開いた。そして数回、ぱちぱちとまばたきをした。まぶたが閉じる一瞬一瞬、こはくの虹彩が姿を隠してしまうそのとき、目の下の隈はそばの光を失って、ますます色暗く見えた。
この子はいったい何時にベッドに入っているんだろう。少年のきょとんとした顔を見つめたまま、なまえは考える。あんなすばらしい、立派なお家に生まれて、お父さまとお母さまはきびしくないのかしら。
「それとも、その子はあなたのぺっとなの?」
「ペットじゃない。これは……」
そこで言葉を切って、少年は二の句を考えるように、暴れる蛙を一瞥した。視線の移動に伴って彼の身体がわずかに動いたそのとき、なまえはふと、少年の反対の手のひらに、きらりと光る何かを見つける。
それは、学校の図工の授業でちょうどこの前に使った、彫刻刀と少し似ている。しかし彼の手にあるものは、それよりもむき出しになった銀色の面積がはるかに大きく、なまえの知るものよりもずっと危ないものに見えた。
なまえの視線が自身の片手に向けられていることに、少年もやがて気が付いた。蛙からまたなまえに目を向けて、めんどうくさそうに、その、彫刻刀のような何かを持ち上げる。
「これがどうした」
「それはなに?」
「メス」
「めす……女の子?」
「違う。手術に使う小さい刃物のことをメスって言うんだ」
「手術……」
その単語はなまえにとっては珍しいものだった。日常的に使う単語ではなく、舌に乗せればはじめてことばを喋る赤ん坊のような幼さでもって響く。たった今、同じことばを流れるように口にした彼とはずいぶんな違いで、それがなまえにはとても不思議だった。
「これでコイツを解剖するんだ」
「カイボウ?」
「身体を切って、中を見る」
「そんなのだめ!」
なまえは慌てて叫ぶ。少年の声はずいぶんと平坦で、たとえば破れた折り紙をごみ箱に捨てる、その程度の呆気なさしか伴っていなかったけれど、少年が言い放った台詞そのものは、まだほとんど血を見たことのないなまえにとってはひどくおぞましい行為に思われたのだ。
突然声を荒げたなまえに、また少年は意表を突かれた様子であったが、今度はすぐに、真顔、あるいはしかめ面に戻って溜息を吐いた。
「病院で大声を出すな」
「あっ、ごめんなさい」
口を抑え、なまえははっと周囲を見回す。しかし周囲には誰もいない。当然である。なぜならば二人が今いる場所は病院の裏口を出たところであって、一般の人間は立ち入らない、関係者用の通用口でしかないからだ。
だから、少年がこの場所を病院と表現したことも正確に言えば間違いであったのだけれど、なまえはあまりにも素直なので、かけらの疑いも抱かず反射的に謝罪の言葉を口にした。
「……で、お前は何でここにいるんだ」
「あ、あのね、最近手足がちょっと痛くて」
「成長痛か」
「せいちょうつう?」
「大人になるのに必要な痛み」
「すごい。あなた、なんでも知ってるのね」
「本当にそうかはちゃんと診ないとわからない。今から診察か」
うん、となまえは頷いた。平たく言えばつまり、なまえは迷子であった。
なまえの返事を聞くと、少年はあごをしゃくって病院の裏口を示す。さっさと行ってこい、と言うので、素直ななまえはもう一度頷いて、小走りに駆け出した。きっと待合室ではなまえの母親がなまえを探しているはずだった。
透明の押し扉に手をかけたところで、なまえははたと手足を止め、振り返る。少年はまだそこにいて、なまえが当初気にしていたはずの蛙もメスもまだ握ったままであったのだが、幼子らしく移ろいやすいなまえの興味はしかし、もうそこにはないのだった。
「ねえ、あなた、名前はなんて言うの?」
「トラファルガー・ロー」
トラファルガー・ロー。告げられた名前を小さく繰り返して、なまえはやっと、彼がこの病院の院長の子どもであることを知った。あの穏やかで優しい院長先生と、きれいで明るいお嫁さんの子ども。それが今、なまえの前に、メスと蛙を手ににぎって、ぶっきらぼうな顔つきで立っている子どもなのだ。
だから、なまえはそう思わずにはいられない。
――変わった子。
3
「あ、ローくん」
「……また来たのか、お前」
「うん。やっぱり痛くて。ええと、ちんつーざい? を、もらいに来たの」
二度目の出会いは待合室だった。なまえの母親がトイレで席を外していたタイミングだったので、なまえは緑色の革張りのソファに座ってひとりぼんやりと暇をしていて、だからたまたまやってきたローが自分に気付いて立ち止まってくれたことが、彼女にはとても嬉しかった。
「前の診断ではなんて言われたんだ」
「よくわからないから、ケーカカンサツしましょうって。そのときもお薬をもらったの」
「そうか」
なまえの言葉に、ローはどこか悩ましげに眉を寄せた。その意味がなまえには一瞬わからなかったけれど、その後に彼とよく似た顔立ちをした父親の姿が脳裏に浮かんで、もしかして、と思う。
もしかして、お父さまが、よくわからないと言ったことを、くやしく思っているの?
だけど、きっとそれを口に出すべきではないことは幼いなまえにもわかっていて、だからなまえはただ肩をすくめて黙っていた。わからないと言われただなんて、正直に伝えるべきではなかっただろうか、と思いながらも、しかしそれ以外の方法が彼女には思い浮かばない。
なまえは幼いなりに頭をひねって、ひとまず話題を変えることにした。
「ローくん」
「なんだ」
「ローくんは今日は何をしていたの?」
「教会に行ってた」
「教会! すてきね。実は私も通っているの。最近は痛みがひどくて行けてないのだけど」
「そうか。早く治るといいな」
ローの声音はあたたかいものではないけれど、それはけして冷ややかというわけではない。平静ながらも、患者として苦痛と戦っているなまえに対しての心からの見舞いの声だった。
彼はきっとお医者さまになりたいんだ。なまえは思う。だからお父さまを尊敬して、今だって難しそうなお本を抱えて、あの日も蛙をカイボウ≠オようとしていた。それはすべて、お父さまのような立派なお医者さまになるため。
「ローくんは、やっぱりすごいね」
「? 何もしてねぇが」
「ううん、すごいよ」
いいな、と思う。夢があって、こうなりたいという姿があって、そのために一生懸命になれること。まだ将来の夢というものがないなまえにとっては、ローの姿はきらきらと、まぶしく輝いて見えた。
「わたし、今度教会に行くときは、あなたの夢が叶うようにお祈りを捧げるわ」
不確定な未来になまえは夢を望む。友だちと遊ぶ新しい予定ができたような、浮ついた気持ちでそうつぶやくと、ローが小さく笑った。苦笑するような、耐えきれずにこぼれてしまったみたいな、ささやかでやわらかい笑みだった。「ばかだな、お前」とからかう声は、まさしく幼い、無邪気な子どものそれだ。
「おれのことなんて祈ってないで、自分の夢を祈ればいいだろ」
「夢っていうのは、叶ってほしいことでしょ。わたし、あなたの夢が叶ってほしいもの。だからそれが、わたしの夢なんだわ」
両手の指を交互に絡め、祈りのポーズでそう言えば、ローはもう一度声をたてて笑い、ばあか、とつぶやいた。病院の裏で初めて会ったときは彼はずっと仏頂面だったから、彼の笑顔を見るのはなまえにとって初めてのことだった。こうしてまっすぐに見ると、いつもの苦い表情ではわかりにくいけれど、なまえの友だちの誰よりも、ずっと整った顔立ちをしていることに気づかされる。
「もう、笑わないでよ」
「わかった、わかった。じゃあ、祈りを捧げるために、さっさと痛みを直さないとだな」
「うん。それに、手の痛いのが治ったら、お料理がもっと上手に作れるし、足の痛いのが治ったら、もっと速く走れるから、とても楽しみなの。転んでもただでは生きない、って言うのよね、こういうの」
「ただでは起きない、だろ。使い方も多分、少し違うぞ」
「そうだっけ?」
両腕を組んで首をかしげれば、ローは呆れたように溜息を吐く。なまえにはどちらが正しいか、訂正されてもすぐにはわからないけれど、ローがそう言うのであればきっとそうなんだろうなと思った。
ふと視界に、廊下を歩いて戻ってくる母親の姿を見つけて、なまえは「あ」と短く声を上げる。ローも振り返り、なまえの母親の帰還に気付いたらしかった。母が戻ったところで、なまえはまだローとしゃべっていたかったのだけど、またなまえに視線を戻したローが「じゃあ、また」と言ってしまったので、なんとなくだだをこねて引き留める空気でもなく、うなずくほかなかった。
「またね、ローくん」
「ああ。お大事に」
迷うそぶりも見せず、病院の奥の方へ歩いて行ったローの背を見送ってからも、なまえはどこか気分が高揚したままで、座ったまま足を交互にぶらぶらと振った。
楽しい。最近は痛みがひどくて苦しいことばかりだったけれど、ローくんと話せて、とても楽しい。また、おしゃべりできたらいいな。楽しいだろうな。
足に感じる痛みもよそに、なまえは足をぶらぶらと振り続ける。そのふくらはぎの片隅に、白い斑点が浮かび上がっているのも気付かずに、なまえは鼻歌を歌いながら、足を振り続ける。
あとからわかったことだが、なまえの痛みは原因不明の痛みでも、まして成長痛でもなかった。
鉛の体内蓄積によって発生する中毒症状の一種。
のちに、珀鉛病と名付けられることになる、不治の病気だった。
2
三回目にローに出会ったとき、なまえはもう満足に動くことができないでいた。
「ローくん、こんにちは」
「……こんにちは」
帽子のつばを下げながら、ローは無理やり押し出すように、なまえにあいさつの言葉を返す。日常を思わせる五文字は、しかしその部屋の空気にはあまりにも不釣り合いだった。
ローの父親が経営する国一番の大病院は、溢れかえる珀鉛病患者に最早一つとしてベッドが空いていない状況だったが、発症の早かったなまえはかろうじて一般病棟の一室に入院ができていた。個室ではなく四人の相部屋だが、なまえ以外の三名もまたなまえと同じような容態であり、部屋にはただ、痛みに堪えるうめき声が時折ひびくだけだ。先ほどなまえとローの間で交わされたあいさつだけが、ずいぶんと久しく、この部屋に鳴った意味のある言葉だった。
「外はどんな様子なの」
「別に、いつもと変わらない」
「ずいぶんと騒がしい気がするけれど」
「どこかで祭でもやってるんだろう。フレバンスは……」
何かに耐えるようにローが唇をかみしめる。ベッドに横になったまま、その表情を、帽子のつばに影を落とされて見えにくいその顔をなんとか視界に映して、けれどなまえは何も言わずに、彼の言葉を待った。
「フレバンスは、いつも栄えてる……」
ローくん。君はどうして、そんなにつらそうに、嘘を吐くのだろう。
やっと紡がれた少年の言葉は、語尾がかすかに震えていた。最後まで必死に言い切って、それきり顔をうつむけてしまった少年から真っ白い天井に視線を移し、なまえはそっと目を閉じる。蛍光灯の灯りが、灼けるほどまぶしかった。
「そうね、ローくん。フレバンスはすてきな国だわ」
「……」
「わたし、フレバンスに生まれて幸せだった」
ローの手足にはなまえと揃いの白斑が浮かんでいた。彼がこの病室に入ってきたその瞬間から、なまえはもう気付いていた。自分の手足にて初めて対峙したときとはまた違う。その白斑の意味を知っているからこそ、ゆっくりと、真っ黒い感情の波が心に流れ込んで、徐々に身体まで犯していくような、そんな気分だった。
「お祈りに行きたかったの。あなたの夢が叶うようにって」
「……ああ」
「わたしが死んだら、代わりに行ってきてくれる?」
瞬間、投げ出されていた手のひらが強く握られ、なまえは驚愕して目を開けた。
当たり前のことだが、手をとっていたのはローだった。
どこか怒ったようにまなじりを吊り上げて、ローは、なまえの手を握りしめる。指先が交互に絡めとられて、一本一本に彼の体温が伝わってくるのが、途方もなくあたたかく、心地よかった。
「そんなこと言ってる余裕があるなら、今ここで祈れ!」
「ローくん」
「おれは医者になる。父さまみたいな医者になって、この病院を継いで、みんなを助ける。お前は病気治して、今よりうまく料理作って、今より速く走るんだろ」
外からは発狂した国民たちの怒号が轟き渡り、地響きのようにびりびりと窓を鳴らす。きっと今自分がいる場所は、外よりは多少なりともましな地獄なんだろうと、なまえにはわかっていた。
指先まで震えるほどに力をこめながら、ローはつないだ手を自らの額に寄せ、きつく目を閉じた。それはたしかに祈りだった。
「生きる。生きるんだよ。おれもお前も、この先どれだけ泥水すすったって、どんなひどい目にあったって、生きていくんだ。生きていかなきゃならないんだ」
宝石のようにきれいな琥珀から、かがやく涙が一筋落ちていくのをなまえは見る。すとん、と、胸に何かがはまったような気がして、なまえはただ、わずかに開いた唇の隙間から小さな息だけを吐き出した。
1
壁を、天井を、扉を、窓を伝って、四方からごうごうと燃え盛る炎がゆっくりとなまえを迎えに来た。もうにじんでまともに字も読めない視界で、しかし、赤と橙と黄色が織りなすその鮮やかな死の色だけは明瞭に見えた。相部屋の者たちはとうに病で全身真っ白に染まり、そうしてみな息絶えていた。なまえがここまで息をし続けたことは奇跡だった。
――ローくん。
ベッドの上に寝転んだまま、なまえは心の中でつぶやく。喉は乾き切り、口の筋肉はろうで固められたように動かず、だから、声に出してその名前を呼ぶことはできなかった。
なまえに祈れと叱ったあの少年は、まだ生きているだろうか。
どれだけの苦痛があろうとも、その先に生きる道があるのならば進まなければいけないのだと、自らに言い聞かせるようになまえに説いたあの少年は、まだ生きているだろうか。
なまえはゆっくりと自らの両手を腹の上に重ね、まさしく今から火葬される屍を真似る。右と左、それぞれ五本ずつ指を互いに絡め、目を閉じる。
「かみさま」
ただでは生きない。ただでは生きられないんだ。
わたしたちが、平穏無事に日々を生きていたことは、何も当然の権利として与えられるものではなかった。今やっと、確かな死を目の前にして、それを知った。
だからこそ、わたしの死がどうかあなたの生をつなぎ、わたしの祈りが、あなたの夢の対価になればいいと、心からそう思うのだ。
「かみさま、」
――祈れ。
少年の悲痛な叫びを耳に思い返しながら、なまえは必死に言葉を紡ぐ。掠れていた。自分のものとは思えぬほどに、しわがれた老人のような声。だけど音は聞こえている。それはまぎれもなくなまえの祈りだった。
テーマ「ただでは生きない」
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タイトル「つないだ指先の隙間から祈りが羽ばたいて逃げていく」
2021.5.11 「ただでは生きない」様へ提出