そっと鶯の鳴く声がして、朝が来たのだと思った。眠りに沈んでいた意識がひとたび浮き上がれば、閉じたまぶたにうすく伸ばすように光が降ってくる。夜とは違う世界なのだと、その光の色でわかる。
「鶴丸」
まぎれてやってきた声に、彼は喉の奥で笑った。短く彼の名を呼んだその声は近くとも遠くともつかぬ距離から聞こえており、間には紙一枚を挟んだような絶妙な曇り方がある。障子の向こう側にいるのだろう、ほかの鳥たちと一緒に。
「こりゃ愉快だ。今日は鶯が随分たくさんいるんだな」
「鳴いてやろうか。ホー、ホケキョ」
「驚くほど似てないぞ」
「細かいことは気にするな。開けるぞ」
しゃ、と障子を引く音。瞼の裏を焼く光が少しだけ強くなる。鶴丸はよっこいせと声を漏らしながら上体を起こし、それから鶯丸がいると思われる方向に顔を向けた。衣擦れの音。畳を踏みしめる音。それからその気配が、今鶴丸がいる布団のすぐそばに膝をついて、
「朝餉だ」
「悪いな」
鶯丸がどういう形で食事を運んできてくれたのかが鶴丸にはわからないが、何やらがちゃがちゃと食器の音がして、それから転んでいた手のひらを取られたかと思うと、硬くひんやりとした焼き物、おそらくは湯呑、を握らされた。水だ、と言うので素直にうなずき、口元に運んで一口飲む。さして気になっていなかったが、いざ喉が潤っていくのを感じると、今までさぞ喉が乾いていたのだと後から気が付くものだ。
鶴丸が水を飲んでいる間も食器の音はやまずに聞こえている。
「今日は……魚と、副菜がいくつか……まあよくあるやつだ。食えるか?」
「きみ、もう少し説明を頑張ってくれないか」
「我儘なやつだな。魚は……鯵の開き。と、これは……これは何だったか」
まるで弟の名前をおぼえないあの同僚のような有様である。俺にわかるわけがないだろ、と言うと、そうだなと納得した声音が返ってくる。今の鶴丸にとっては、そういう鶯丸の遠慮のなさは気楽でもあるのだが。
「ごぼうと人参とごまが入っているやつだ。野菜は細く切られて、もやしみたいになっている。少ししおしおとして」
「きんぴらごぼうか」
「ああ、たしかそんな名前だった」
「今日の朝餉当番はきみと誰だい」
「髭切」
「ひどい采配だ」
髭切と鶯丸では先に顕現したのはたしか髭切の方で、その分人の体で暮らすための知識を身に付ける機会も多くあっただろうが、何せ髭切なのでだいぶ怪しい。今ここにいたのが髭切だったとしたら、まず鯵という魚の名前が思い出せなかったとしても別段不思議でない。そういう意味では、鶴丸のもとへ遣わせられたのが鶯丸の方であるというのは正解なのだろう。
「口を開けろ」
箸を喉に突っ込むのだけはするなよ、と念を押すと、鶯丸は今気が付いたというように小さく笑った。流石の彼でもそんなことはするまいと思ったが、念のため忠告しておいてよかった。朝日がやんわりと肩のあたりに降りそそいでいるのを感じながら、言われた通りに口を開けると、鶯丸がきんぴらごぼうを一口分運んでくれる。しゃきしゃきと小気味良い音が鳴り、舌の中に旨味が広がる。
「なかなか旨い」
鶯丸の声が「良かったな」と笑う。自分がつくったくせに、まるで他人事のようだ。
鶴丸国永が視力を失ったのは初陣のときで、そもそもそれ以来彼は戦に出ていないので初陣だなんて大層な呼び方をしていいものかわからないのだが、とにかくそのとき、彼は敵太刀に両眼をまっすぐ切り裂かれて帰城した。疑うまでもなく重傷であった。当時隊長であった加州はすぐさま鶴丸を手入れ部屋に運び、審神者を呼びに走っていった。自分の気配しかしない手入れ部屋で、鶴丸はしばらくの間眠っていたが、誰かが部屋にやってきたときに引っ張られるように意識を戻し、血のあつさがあふれるこめかみに無言で柔い布が押し当てられていくのをぼんやりと受け入れていた。
もちろん視界には何も映らない。しかしそれが、審神者による手入れでないことくらいは、顕現したての彼にだってわかる。まだ一度も手ずからの手入れを受けたことがない鶴丸にだって、そのくらいわかる。
だから鶴丸は、自分の傷跡にガーゼと包帯を巻いてくれている加州に向けて問いかけた。主はどうした。もしかして外出中かい。そうだとしたら運の悪い話だなあ。初めて怪我というものをしたが、こりゃ存外痛いもんだ。……
最初の問いに対して加州の答えを待たず、だらだらと言葉を続けたのは、もしかしたら鶴丸自身が何かを察していたからかもしれない。加州の気がひどく沈んでいるのは見えずとも気配でわかっていて、だから、今ここに審神者がいないのは、審神者自身がそれを選んだからなのではないかと。
鶴丸の言葉がやんでも、加州はしばらくの間沈黙していた。包帯を巻く加州の指先がかすかに震えていて、その振動が、顕現してから世界が見えていた束の間よりも、ずっと鮮明に脳に伝わってくる気がした。
主が、と、加州はやがて口をひらく。
「あんたの手入れはしない、って」
夏が死に、秋が始まった頃の話である。
×
ここの審神者は銀杏の葉が好きで、だからあの人は庭に銀杏の木をいくつも植えさせたのだと、ある刀が鶴丸に言った。鶴丸はあいにく銀杏の色づく時期が来る前に目を失ってしまったので、その刀が熱心に語った秋の銀杏の美しさというものを知らない。今がちょうど見ごろで、庭はまるで一面黄金に包まれたようになっているぞと、彼はずいぶん興奮気味にまくしたてた。初めて喋った刀のはずだが、相手は旧知の親しさで鶴丸にあれこれと話をふりかけてくるので不思議だった。その喋り方が随分と自分に似ていることも。
その刀はこの本丸に初めて来た太刀だという。
彼の名前を聞き忘れたことに気が付いたのは、その日髭切が夕餉を運んできてくれたときだった。あの刀は突然ふらりと現れたくせに好き勝手喋り倒し、ついぞ名乗ることもなく部屋を去ってしまった。嵐のようだったが本人はひどく楽しそうで、自分ももし傷一つなく、世界を目にしながら自由に動き回ることができていたなら、ああであったような気もする。人間を模した体も中身までは人間になりきれず、傷はいつまでも治癒することなくじくじくとうずき続けていたが、鶴丸国永にとって何よりつらいのは痛みではなく、ずっと何をするでもなしに寝ているしかできない退屈さだった。
「髭切」
「なんだい?」
「夕餉の前に、刀が一振りここへ来た」
「うん」
鶴丸の目が見えないことを皆知っているので、鶴丸と話をするときは皆がよく声に出して相槌を打ってくれる。
「この本丸の初めての太刀だと言っていた。喋り方がずいぶん俺に似ていた」
食器のぶつかる音。お椀の蓋を開ける音。水をそそぐ音。少し間を置いたが、相槌はなかった。鶴丸は先を続ける。
「名前を聞き忘れてな。なんという刀かわかるかい」
「なんだっけ。忘れちゃった」
今度は食い気味に返答があった。予期せぬ速度に一瞬驚いたが、これも今の鶴丸にとっては貴重な驚きである。重傷状態のまま手入れをされず、しかし他の刀剣の出陣は続いているので手入れ部屋を一つ占領し続けるわけにもいかず、鶴丸はあれ以来離れの小部屋で日々の時を見送っていた。他の刀剣と話す機会は、相手からやってきてくれない限りはないのだ。
「思い出したら教えてあげるよ」
「まあ、いい、わかった。明日にでも、他の刀に聞くとしよう」
「どうかな。案外みんなド忘れしてるかもしれない」
髭切の言葉の意図がわからず鶴丸は首をかしげたが、彼からそれ以上の声はやってこなかった。口を開けてと言われ、素直に口を開けば、あつい味噌汁が匙に乗って一口運ばれる。熱いよと忠告がなかったので、何の躊躇もなくそれを口に含んだ鶴丸はあっさりと舌を火傷したが、髭切からは笑い交じりの謝罪しか降ってこなかった。
×
この本丸にて顕現させられた鶴丸国永はもちろんこの本丸しか知らないので何とも言えないが、ここの刀たちは優しいながらも一定互いに距離を置いて接する者が多い。けして互いに踏み込みすぎることはしない。他の刀たちは仲間ではなく同僚。そんな感じだ。良い意味ではさっぱりとしていて過ごしやすく、悪い意味ではやや冷淡でもある。痛みが出るので億劫だが、たとえば厠に行くだとか、水差しから水を汲んで飲むだとか、その程度であれば鶴丸も一人で何とか済ませることができたので、刀たちは食事を運んでくる以外で彼のもとを訪れることもない。あまりにも退屈なので、鶴丸は時折死んだ方がましだとさえ思うことがあるが、次の瞬間にはいつの間にか眠りに落ち、新しい朝がやってきている。鳥のさえずりが聞こえ、太陽の光が傷だらけの身体を燃やしている。
それを幾度となく繰り返して、ある日やってきた昼餉の当番に今は何月かと訊ねると、霜月だと答えた。庭の銀杏はと問うと、とうに葉は落ち切ってしまい、今は雪をかぶっていると言った。
鶴丸国永は落胆する。この本丸の初太刀だという刀が教えてくれた、美しい黄金の庭はついぞ見れなかったというわけだ。
相手の顔が鶴丸には見えないが、彼の落胆が伝わったのだろうか、食事当番はそれまでよりも幾分語調をやわらげて、雪の積もった銀杏も綺麗ですよと言った。雪。
雪、と思う。心の中につぶやく。はじめて聞いた単語を口にする赤子のように。
食事当番が帰ってしまった後でもう一度布団の上に転がって、色づいた銀杏が見たいと思っていた、ひと月かふた月か前の自分を鶴丸国永は思い出す。銀杏が散ってしまうまでに手入れしてもらえれば、眼が直れば。そう思っていた、いつかの自分を。気が付いたら冬が来ていたくせに、それはまるで遠い昔のことのようだった。
それからそう経たないうちに、隙間風が気になるようになった。布団の中でじっとくるまれているとはいえ、所々毛布からはみ出したりする手足、あるいは首から上なんかはどうしようもない。そこら中戸は閉めてあるはずのに、一体どこからもぐりこむのかと疑いたくなるほどあっさりと冷気がやってくるので、しまいには毎夜目が覚めるようになってしまった。あるとき加州清光が夕餉当番として食事を運んできてくれたことがあったので、鶴丸はそういえばと、なるべく軽い声に聞こえるように口をひらいた。この頃どうにも寒くて寝苦しい。本殿の方も同じ状況なのかもしらんが、どうにかならないだろうか。
失明の中、加州の気配はしばらく沈黙したままそこにあった。加州、と念を押すように呼ぶと、そこではじめて加州が息を吐くのが聞こえて、それから彼は「そうだね。主に頼んでみるね」と言った。
×
いっとう冷える日があった。いつも通り、夜中と思われる頃に目が覚めた。からだ中に氷を押しあてられている夢を見る。
おかしな話だが、夢の中で彼は何の不自由もない眼を二つ持っており、いたずらに伸びた自分の襟足や、血しぶきの一滴も残っていない手足を眺めることができる。しかし彼の周りには何もない、絵具で塗りつぶしたような黒がどこまでも続くだけで、それを見つけた瞬間に爪先から芯までが冷えていく。肌のすべてが刺すような冷たさにおおわれる。それで目が覚める。
目が覚めた先は当然ながら夢以上に真っ黒で、朝や昼であれば光の色くらいは変わるけれど、どの道一色でつぶされているのは同じことだ。時折風が戸を叩くように低くさざめき、揺れる草木のこすれあう音がそろそろと這ってやってくる。冬の夜風は涙の出そうなほど冷たく、結局今自分がいるのが夢なのか現なのかわからなくなる。
寝なおそうと思った、そのときにふいに声がした。風や草木が鳴る方向から、それらに混じって。
鶴丸はなるべく気配を殺して布団から這い出て、膝立ちのまま障子のそばへすり寄った。障子にぶつかって音を立ててしまってはまずいので、手のひらを前のほうへ伸ばしながら、おそるおそる近寄った。声は向こうのほうからも勝手に鶴丸のいる離れへと近寄っているようで、鶴丸の手がやわらかな障子紙にふれたときには、言葉ははっきり聞き取れるようになっている。
「確かに、寒いですね」
それは審神者の声である。
「だからこんな時間に散歩なんかやめなよって、俺言ったじゃん」
「すみません。今日はなかなか寝つけなかったんです。それに、星が綺麗に見えそうだったから」
星。主が口にした言葉を無音でなぞりながら、その音を紡いだ彼女の声を、ずいぶんと久々に聞いている。
「清光、見えますか。ほら、空。星が出ているでしょう」
見たい、と思った。今すぐ障子をひらいて、彼女のそばに駆けよって、きっとその細腕が指さす空に、きらめく光をいくらでも見つけたい。鶴丸には今何かを見るための眼はないし、あったとしても夜目の利かない彼らだけれど、それでもいいと思った。そこにあるのだと主が教えてくれるならば、それで十分すぎると思う。
「主」
それなのに、主のかたわらで星を見ている加州の声はちっともうれしそうでない。
「主、なんで、……」
「はい」
「……」
「どうぞ、加州清光。言いたいことを仰ってください」
審神者の声は録音されたもののように明瞭で、まるで生き物の温度がなかった。加州の声の方がよほど人間じみている。そう思った瞬間、鶴丸は自分の肌がうすく粟立っていることに気が付く。
「あいつをどうするの」
「どうしましょうか」
やっと絞りだしたような加州の問いに対して、審神者は肩透かしなほどあっさりと答えた。
「珍しい刀ですし、すぐに錬結や習合に回すのもなんだかもったいないと思って、試しに出陣させたのですが。やはり同じ刀は二振りは要らなかったなと思っています」
「なら、どうにかしてやってよ」
「どうにかとは」
「……」
沈黙。足音は少しずつ離れていく。二つの声も合わせて、徐々に徐々に、遠く。しばらくして聞こえたのは加州ではなく、やはり機械じみた審神者の声である。
「少し前に、ひと振り目にどうしたいか聞いたら、習合して彼の目が見えるようになるなら習合してほしいと言われました。あなたたちって、意外と優しいですよね。もとは人を殺すための道具なのに。ねえ、清光。……」
それきり、足音は遠ざかって聞こえなくなり、夜の鳴音だけが鶴丸を閉じ込める。
鶴丸は重たい身体をのろのろと引きずって、また布団の中へ潜った。なけなしの体温によって少しでもあたためられていた毛布はすっかり夜の一部のように冷え切っていて、くるまっても震えてしまうほどに寒いのだった。頭まで隠すように毛布を引っ張り上げ、膝を抱えて、早く朝の光が来てくれやしないかと、吐く息の冷たさに辟易しながらそう願っている。
夢はその後も繰り返された。氷の夢。目は見えるのに世界のほうが真っ暗な中、そう気が付いた瞬間に全身が凍り付いていく夢。あまりに飽くことなく繰り返すので、はてには夢が始まった途端に悟ってため息まで吐けるようになってしまった。あるとき朝餉を世話をしてくれた骨喰藤四郎にその話をすると、物知りの彼は朝餉の並びを説明するときと何ら変わらない口調で、それは明晰夢というんだ、と言った。
明晰夢、と鶴丸は復唱する。ああ、とおだやかな相槌が返る。
「夢の中で、今自分は夢を見ていると理解できる夢のことだ」
「ややこしいな。珍しい事例なのかい」
「人間にとっては珍しいらしい。それから、脳にも負担がかかる事象だと聞いた。俺たちは刀だからわからないが」
かちゃかちゃと音を立てて、骨喰が食器を片付けている。鶴丸はただ運ばれる一口を飲み込むことしかしていないのでわからなかったが、どうやらいつの間にか食べ終えていたらしい。ふうん、とつぶやいたきり、それ以上何を口にする必要があるかわからず、そうしている間に骨喰はあっさり部屋を去っていってしまった。鶴丸も鶴丸でさして気にすることもなく、もう一度眠ろうと思ってまた布団を被った。太陽の光は障子の戸をうすく透過し、夜に飲み込まれ冷気に沈んでいたこの部屋をようやくあたためてくれる。朝の二度寝が習慣化してから、すっかり眠りこけて昼餉を逃したことも何度かあったが、今の鶴丸にとっては昼餉よりも安らかな睡眠の方がずっと貴重なものだった。
×
冬めけば死のにおいがする。部屋はいつまでも捨て置かれた置物小屋のように陰鬱とした空気が立ち込め、それが冬の冷たさと、包帯の隙間から逃げていく自分の血のにおいによるものだと知った。幸い、毎日やってくる当番の刀たちがおかしな反応を見せたことはない。鶴丸が見えていないだけでみな本当は顔を歪めていたのかもしれないけれど、鶴丸も目を失ってからというもの、なぜだか料理のにおいや庭からそよいでくる花の匂いをやたら鋭敏に嗅ぎとるようになっていたので、できれば自分だけが気が付いているのであればいいと思う。
ある朝、珍しく凍える夢を見ることのないまま、太陽の光を浴びて目が覚めたとき、すぐそばにいつもと異なるにおいがあることに気が付いた。それは顕現したときに庭中をめぐっていた金木犀を思い起こさせたが、今は冬の底のはずである。何かと思ったそのときに、いぶかしむ鶴丸に答えを与えるかのように、上から声が降ってきた。
「おはようございます」
――主。
つぶやきたかった声が、声にならずに喉の奥で潰れ、呻くようになった。ふふ、と、息だけで笑う女の気配がある。
「お元気ですか」
「……元気に見えるか」
「わかりません。あなたが人間だったら、それは死にそうなていに見えます」
「そうだろうな」
目を失った戦から帰り、以来何一つ回復していないのだ。鶴丸にはもはや自分の姿さえ確認できないが、包帯で意味もなく隠しているとはいえ、さぞかし酷い有様だろうと思う。
女はどうやら鶴丸の布団のすぐそばにあるようだった。きっと丁寧に正座をして、背筋を伸ばし佇んでいるのだろう。顕現してから実際に言葉を交わしたのはほんの少しの間だったというのに、どういうわけか女の姿は容易に想像がついた。
「あなた」
「ああ」
「今何を考えていますか?」
「そうだな。きみがまだ俺をおぼえていたことに驚いている」
女はまた笑い混じりの吐息をこぼす。
「あなたのお好きな驚きというやつですか。良かったですね」
「ああ、良かった」
それから審神者はしばらくの間、ここ数か月にあった出来事を淡々と鶴丸に話して聞かせた。何振りかの刀が新たに修行へ行き、無事帰還したこと。政府から何の前置きもなしに天下五剣の一振りが配布されたこと。新たな戦場への出陣許可が下りたこと。新地には初期刀を含めたこの本丸の最高練度の部隊を行かせたが、あっさりと全員重傷にされて帰城したという。彼女の気まぐれが鶴丸にはわからないが、とりとめもなく続く彼女の声に鶴丸はじっと耳を傾け、時折うなずいたり、反応を挟んだりした。
少しして、話し疲れたのか、主は数秒沈黙した。それからつぶやく。
「あなた、うれしそうですね」
「主と話せて喜ばない刀はいないだろう」
鶴丸は何の迷いもなく即答したが、その瞬間、女の気配がじっとくぐもるように暗くなったのがわかった。またしばらくの沈黙があり、鶴丸はその間もじっと待っている。主の視線が自分を刺している感覚はあったが、彼女がどういう顔で自分を見ているのかはわからない。
やがて、呆れたようなため息があって。
「ここまで来ると、もはや気味が悪いですね。おまえたちは」
ふいに鶴丸は、この本丸にやってきたそのときのことを思い出した。この主に呼び出され、降り立ち目を開けたとき、彼女の後ろに咲いていた黄色い花。そのにおいを。
主からは衣擦れの音さえ聞こえない。ただ話す声だけが唐突に浮き上がるかのようにそこにあって、合間の呼吸やささやかなうごめきの音はひとつとして見つけられない。しばらくまた静寂があり、やがて鶴丸は、本当にそこに主がいるのかが不安になってくる。自分が気が付いていないだけで、本当はもう帰ってしまったのではないかと思う。
何分経ったか、しびれを切らして主と呼びかけようかとしたそのとき、計ったように次の言葉があった。
「人間がどうして犬や猫を愛でられるか知っていますか」
きっと女が朝日をさえぎっている。そのせいで身体が冷たい。もしかしたら、今自分は明晰夢を見ているのかもしれない。ひとりだった部屋、寒いばかりだったこの部屋に、朝とともに主がやってきてくれる夢。
「愛らしいからじゃないのか」
「いいえ。言葉が通じないからです」
女が言う。
「彼らが私たちにどれだけひどいことを言おうとも、私たちの耳にはそれが届かない。だからかわいい」
「きみ、つまり、俺たちの声も君には届いてないと言いたいのか」
「聞こえていますよ」
女の声はどこまでもまっすぐで、笑いのひとかけらも含まれておらず、どうやら随分と真剣な様子だった。
「しかし、つまるところは同じです。大事なのは、私を否定する言葉は聞こえないということです。犬猫からも、あなたたち刀剣男士からも」
鶴丸は、主が、自分の沙汰をどうしようか考えているのだと思った。そのためにここへやってきたのだろう。それは何の根拠もない推測だが、どういうわけか異様なほどの確信でもあった。
「私が何を言っているのかわかりますか?」
「ちっとも」
「残念。あなたたちは人間の心から生まれたのに、人間の心がわからないんですね」
「そうさ。同情してくれ」
「言われずとも」
主の立ち上がる気配があった。起き上がろうと思うのだが身体が重く、首を動かして気配の動く方向を見るので精一杯だった。首を向けたところで見えやしないのに、我ながらおかしなことだと鶴丸は思う。しかしやはり主の笑う声はなく。
「この馬鹿げた戦が早く終わるといいですね」
少しだけ遠のいた声が最後にそう言い残し、足音もなく消えていった。やわらかい光が再び身体にふりそそぎ、鶴丸はまるでたった今目が覚めたような心地がしたが、今の出来事が夢だったのかどうかはどうにも判別ができなかった。
×
主に呼び出されたのは、それからおそらく一か月ほどが経った頃だった。
朝餉を運んできてくれた刀が、彼に粥を食べさせる合間にそう伝えた。主が呼んでいる。この後審神者部屋まで案内するから、来てくれるか。鶴丸は匙にすくわれたどろどろの粥を飲み込みながら、とうとう来たかと思ってうなずいた。二人の間にあった会話はそれだけだった。
食べ終えると、行くかとつぶやいて彼は鶴丸の手を取り、それからゆっくりとその手を引いて歩き出す。食器の音はせず、どうやら空になった朝餉の器はそのまま置いていくつもりらしい。
足の裏に感じる感触が、あのじめじめとした畳から木目に変わり、途中には草履を履かせてもらって庭へと下りた。鶴丸が閉じこもっていたのは離れの小屋なので、本殿に行くにはどうしたって庭を通らなければならない。久方ぶりの地面は記憶よりもずっと硬く、時々草履の下に入り込んだ小石がぶちりと足裏を押すのが痛かった。それが鶴丸には懐かしい。
「今がいつかわかるか」
案内役が問う。鶴丸は少し考えて、それから睦月の中頃だろうかと答える。氷の夜を指折り数えてやしないが、まだ外は羽織もなく出るには寒い気温だ。
その刀はそうかとつぶやく。だけどそれ以上何を言うでもなく、変わらぬ速度で鶴丸の手を引いていく。
やがてまた草履を脱いで、本殿と思しき建物に入る。先導を追って何度か右へ左へと曲がりながら数分歩いた頃、あるところで先導が立ち止まり、主、と言った。すぐにどうぞと声がして、障子戸のひかれる音が続く。するとまた手を引かれ、されるがままに数歩進むと、急に手が離される。
「ありがとうございます」
主の声。
「ご苦労様でした、鶴丸。下がってください。……ああ、そうだ。今日の出陣も、期待していますよ」
×
どうしたんです、と聞こえてはっとする。
「立ったままでは身体に障るでしょう。どうぞ座ってください」
そう促す、主の声はおだやかだった。
何も見えるはずがないのにきょろきょろと首を回し、それから鶴丸は腰を下ろした。少しだけ膝をひらいて正座をする。軽く握ったこぶしを腿の上に乗せる。背に陽光の降りそそぐ、審神者の部屋はあたたかい。
「まだ少し寒いですね」
声は真正面からはやってこず、少し右にそれたところから鶴丸の耳へ聞こえてきた。
「こういう気候を花冷えというそうです。風流な言葉でしょう。先日歌仙に教えてもらいました」
「そうか」
「何か聞きたそうな顔をしていますね」
「ああ」
「構いませんよ。なんでも聞いていただいて。気になることがあるなら」
「俺はきみの役に立っているかい」
一瞬間があった。目には見えないが、鶴丸には女がどうにもほほえんでいるような、その表情をつくるための一瞬であったような気がした。
「彼には今、第二部隊の隊長をお願いしています」
「そうか」
「立派にやってくれていますよ」
そうか、と鶴丸はもう一度つぶやいて、ほほえみを作った。ここまで自分の手を引いてくれた彼の手のひらにあった、確かな体温を思い出す。
なあ鶴丸。ひと振り目の俺よ。銀杏というのは金木犀よりうつくしいか。
「明日、政府から新しい刀剣が来ます」
主が口をひらく。
「でも、今、本丸がもういっぱいいっぱいなんです。刀剣男士の所持枠に上限があるのはご存じですね」
「ああ」
「それで政府から、迎え入れられるよう事前に準備を済ませておくようにとのお達しを受けました。わかりますか」
「ああ」
鶴丸がうなずくと、しりしりと身じろぎの音がして、それが畳のこすれる音なのだとわかった。きっと、主がこちらを向いたのだと思う。
「ご苦労様でした。鶴丸国永」
鶴丸は見えもしない目をつむり、わずかにうつむく。主の視線がこちらをやわらかく刺している。
なあ、きみ、知っているか。
きみは俺をよそよそしくあなたと呼び続けた。思いつき一つで戦地へと放り、重傷のままでも気にせず放置し続けた。生きているか死んでいるかもわからない日々を俺に寄越して、そのはてに俺を殺すのだと言う。
それでも、俺は、今きみが俺の名前を初めて呼んでくれただけで、こんな、こんなにもうれしいんだ。
「主」
「はい」
「一つだけ頼んでもいいかい」
「なんでしょう」
「最後に手入れをしちゃくれないか」
女の息を吐く音が聞こえた。すみません、と声が返る。
「資材の無駄なので」
「わかっている。それで俺を今まで直さなかったんだろう。そのうえでだ」
「なぜですか」
「きみの顔がもう一度見たい」
返事はなく、鶴丸は、だめだったかと思う。情に訴えているつもりではない、そういったことを受け入れてくれるような生ぬるい主ではなかった。だからこそ、これは何の謀りもない鶴丸の本心で。
自分のかりそめの心臓の音だけが聞こえる中で、終わる瞬間を今か今かと待っている。そのさなかにふと、二の腕のあたりに何かが触れた。
てのひら。
やわらかい手のひらが、あまりにも頼りない力で鶴丸のからだを引き寄せ、そのまま背中や首の裏へ、羽衣をまとうかのように、優しい熱がやってくる。
抱きしめられたのだと思って、そう気が付いたとき、目の奥がかっと焼けるようにあつくなった。鶴丸の目はとうに死んでいるのに、こういうときばかりは一丁前に涙しようとするのだからずるい。それならば今、ほんの一瞬だけでも光を取り戻して、自分を抱きしめてくれている彼女の顔を見せてくれよと思うのだけれど、頬が濡れそぼち、斬り裂かれたときのように目が痛むのがどうしようもなくうれしくて、だから、もうこのままでいい。この痛みがうれしい。あつさがうれしい。涙が流せること。主が抱きしめてくれて、背をさすり、頭を撫でてくれること。
つるまる、と主がつぶやく。それはまぎれもなく彼の、彼だけの名前だった。信じられないくらい幸せで、ありがとうと言いたいのに、唇が震えてうまく動かない。主の手のひらは朝の太陽よりもよほどあたたかく、鶴丸は、今やっとながい夢から目を醒ましたような気がしている。
theme「悪女」
×
title「欠けていたい」
2022.1.21 企画「吝嗇家」様へ提出