人間にしてはきれいな見目をしている。髭切がこの本丸に顕現して目をひらき、その視界に主たる審神者を見つけたとき、真っ先に思ったことがそれだった。その審神者は髭切よりもいくばくか背丈の低く、華奢な体躯に些か大きめの絣をまとっていた。黒い髪の毛は窓からこぼれいる太陽の光を受けて艶がかり、肩のすれすれのあたりを泳ぐ毛先はきれいに切り揃えられていた。
ーーはじめまして、髭切様。
と、審神者は髭切を見て言う。さして驚いている様子もなかった。私がここの本丸の審神者です、よろしくお願いします、と続けて、それからじっと髭切を見つめるので、髭切はなんだか不思議な子だなあなどと思いながらもよろしくねとだけ言った。
はたして髭切が抱いた印象というのはおそらく的を射ていて、それからしばらくこの本丸で過ごしてわかったことだが、その審神者はどうにも人離れした雰囲気をまとっていた。古参の刀たちから見てもそれは同様らしく、刀がそんなことを言うこと自体が笑ってしまう話ではあるが、どうにも普通の人間らしくは見えないと、初期刀だという赤目の刀でさえそんなことを口にする始末である。けして無理な采配をするわけではないし、どの刀たちに対しても平等に優しく思いやりがあり、物腰やわらかであるので、大半の刀たちからは慕われている。だから、それならばそれでいいだろうと髭切は思って、特段審神者の人となりに興味があるたちではなかったし、それ以上は気に留めなかった。
冬である。髭切が顕現してから三つ目の季節であり、それは彼の想像を超えて寒い季節だった。ある昼下がり、庭に積もったまっしろい雪を横目に縁側を歩いていると、むかいからゆったりと歩いてくる審神者に出会った。やあ、と手をあげると、審神者は懐手をそのままに首をすくめて笑う。
「こんにちは、髭切様」
「こんにちは。何かおもしろいことでもあったのかい?」
笑顔が不思議でそう問うと、審神者は一瞬きょとんと目を丸くしてから、またすぐもとのほほえみに戻り、
「いえ、あなたがあまりに寒そうだから……」
と言った。
審神者の発言に髭切は改めて自分の格好を見やる。いつもの灰色のインナーに白いジャージを羽織っているのはいつも通りだが、そのうえに弟が用意してくれた橙色の半纏をかぶっていた。もこもことしてあたたかくて、髭切はこれをずいぶんと気に入っているが、審神者からするとどうやら愉快に見えたらしい。人間のつぼはよくわからない、と髭切は思う。
「ううん、あたたかくてお気に入りなんだけど。変かな?」
「いいえ、びっくりしただけです。いいと思いますよ」
「景趣を変えてくれてもいいよ。寒くないやつ」
髭切の言葉に審神者はただただ笑うばかりで、どうにも意見を聞き入れるつもりはないらしい。この審神者は刀に対して仰々しく敬称をつけるくせに、その実さほど敬いの気持ちなど抱いていないようである。仮にも付喪神たる存在に対して、最低限の礼儀だとでも思っているのかもしれない。
「季節は感じられた方が良いですよ。四季は日本のすばらしきのひとつですから」
「うーん」
「寒いほうがお鍋がおいしいでしょう」
「まあそうだねえ」
「夜、布団に入ったときに幸せな気持ちになるのも、冬の寒さあってこそです」
「なるほど」
審神者の説得に、髭切はひとつひとつを思い浮かべてうなずく。たしかに先日、名前は忘れてしまったけれど、眼帯をした黒髪の刀がこしらえてくれた鍋は大変に美味だった。暗い室内で毛布を何枚も重ねた中にもぐりこむときも、それに包まれるであろうぬくもりを予期してはいっとう幸せな気持ちになるのも事実である。
うなずいた髭切に満足したのか、審神者は最後ににこりと深めた笑みを残し、髭切の横を通り過ぎていく。それを見送ってからまた髭切も歩き出して、だけど彼がすぐに足をとめたのは、後方から「ああ」と、何かを思い出したような審神者の声がしたからだ。「だけど」。
「そうしているとあなた、まるで人間みたいですね」
はっと振り向き目をむけると、わずかに首だけ振り向けた、審神者の横顔が見えた。つんと上を向いたまつ毛の奥に、隠されるようによどんだ瞳がじっと髭切を見つめている。髭切はのんびりとその視線にさらされながら、やっぱりきれいな顔をしている、と、彼にはじめて出会った日のことを懐かしむ気持ちで考えている。
「髭切」
と声がして、顔をあげると男が障子をあけたところに立っていた。こたつの中に腕をしまい、天板に顎を乗せた姿勢のまま男を見つめて、彼の名前を思い出そうとするのだが、やはり難しい。男の背には朝を知らせた太陽がすでに天頂高くまでのぼっていて、昼餉の時分だろうかと思う。
「なに」
「何じゃない。お前、今日近侍だろう」
「ありゃ、そうだっけ」
男は眉間に皺を寄せて髭切をにらみ、それからわざとらしくため息を吐いた。彼が障子を開けたせいで室内には冷気がすべりこんできていて、こたつから出ている上半身や、特に衣服で隠しきれていない首や顔のあたりが冷たい。もう一度男の頭からつま先までを眺めて、外廊下を歩いてきただろう彼の鼻がまったく赤らんでいないことを髭切は不思議に思う。
「すでに主は今日の執務を始めておられる。さっさと主の部屋へ行け」
「でも、もうすぐお昼じゃない」
「まずは主に謝罪が先だ!」
まなじりを釣りあげて男が怒る。彼がどうしてそんなに怒っているのかが理解できず、髭切はぽかんとして首をかしげ、当人がそんな有様だからますます男は目をいからせる。
そこにひびいた声がひとつ。
「大丈夫ですよ、長谷部様」
水面に石が投げられたようだった。
長谷部と呼ばれた男の隣に、いつの間にか立っていたのは言うまでもなく彼らの主である。
「髭切様の言う通り、もう昼食ですから。私も午前の仕事は切り上げました。少し早いですが……」
長谷部、そうだ、この刀は長谷部というんだった……そんなことを頭の片隅に思い出しながら、髭切の思考の中枢は審神者の声を聞いて、まったく別のところをさまよっている。主の顔はいつだってうつくしい。人間の中ではいっとうにうつくしい。寒いのか、折れてしまいそうな細腕をしきりにさすりながら、主のおだやかにするどい視線がいつかのように髭切をとらえる。
「髭切様」
と。
「午後からはきちんとお願いしますね」
そう告げた、彼の顔は笑んでいた。
それきり、もう話すことはないというように、審神者はくるりとからだの向きを変え来た道を戻ろうとする。名前は忘れたが、ナントカとかいう刀は未だ納得がいっていない顔つきでその背中についていこうとしている。
「主」
思い立って声をかけると、審神者はぴたりと足を止め、障子に隠れようとしていた横顔はそのままに、ぎりぎりのところで覗いている目線だけで髭切を見つめた。ぎょろりとうごめく眼球が、まるでそれだけが意志を持っているかのようで、どうにも。
どうにも、……。
「きみってさ」
「はい」
審神者の唇がそうやって二文字をつむいで、髭切に先を促す。死人のように薄い色をした唇。どうしてうつくしいと思うのだろう。こんな、屍のようなかたちをしたにんげんを。
「人間にしてはきれいだよね」
頬を撫でていく冬の空気がつめたい。
審神者は数秒じっと黙ったあとで、にこりともせずにつぶやいた。
「ありがとう」
ある夜、政府から審神者のもとへ伝令が入り、それは新しい戦場が開拓されたという知らせだった。今まで以上に過酷な死地であり、優秀な戦績を修めている練度の高い本丸だけに伝えているのだという話であった。その日、近侍ではなかったけれど、厨当番に頼まれて、ずいぶんと夜遅くまで仕事をしている審神者に夜食を持っていったのが髭切だった。入るよと言って返事のある前に障子をあけると、審神者はそういう会話を政府の担当者としているところで、彼は突然不躾な入室をした髭切を一瞥こそしたけれど、特に咎めるでもなくそのままモニターに目線を戻してしまった。
ありゃりゃ、と、さてどうしよう、と思う。片手の盆の上には厨当番が作ってくれた茶漬けがある。そっと主のそばにおいて退室すればいいか、とすぐに自答して、座布団の上に正座する、審神者のすぐ横にそっと盆をおいた。審神者はこちらを見ない。
だから、髭切がそのときモニターを見たのは、単なる好奇心でしかなかった。
あれ、と、口から声がこぼれた。
画面に映っているのは、刀剣男士だった。
それはなにひとつおかしなことではない。新しい戦場の話なのだから、すでにそこに出陣している他の本丸の男士たちの映像が例として映し出されている、その程度の話だろうと思う。刀剣男士が刃を交わしているのは、ここにいる髭切とてもう何体とも斬り殺してきた、あの黒くまがまがしい敵の刀たちだ。なにひとつおかしなことはない。なにひとつおかしなことはないのに、なにか、魚の小骨がのどにつっかかったときのように、妙な違和感が引っかかって消えない。
「髭切」
と、審神者が呼ぶ。
いつの間にか、政府の担当との通話はとうに切れている。
「おまえにはこれが化け物に見えますか」
ふとモニターから審神者に目を落とすと、審神者のまなこはやはり泥のようであった。顕現され、鍛刀部屋ではじめてこの人間とむきあったときも、はたしてこの瞳はここまでひどく濁っていただろうか?
「人間はね、髭切」
審神者の声は相も変わらずおだやかで、凪いだ水面の底へ引きずり込むような色をする。
「人間は、見たいようにものごとを見るんです」
「どういうこと?」
「正義は美しくあるべきということ」
審神者はうつくしく笑っている。きょとんとする髭切をうっそりと眺め、それからその頬を包み込むように両の手のひらを伸ばしてふれる。鼻先のふれそうなほどに近づいた顔は人形のように端正で、頬にのった手は降りつもる雪のようにひややかだった。死んでいるのではないかと思うほど。
「あなたはずっと美しくいてください」
目を合わせた先、よどみきった瞳の奥になにかがきらりとかがやいて、髭切はなんとなく、それが涙というやつなのではないかと思う。だけれど顕現してからほかの刀たちに教えてもらった、涙というやつはどんな感情によっても流れうるものだから、今目の前で自分に手をふれている主が、怒っているのか、よろこんでいるのか、それとも苦しんでいるのかが、髭切にはどうにもわからないのである。
2021.12.07
吝嗇家さまへご提出
題「かなしいお願いごとばかり」