死んで、毎朝、生き返る。
うすく射しこむ朝日の下に目を開けるたび、回遊する陶器の馬を思い出す。現世にいたころ、親に手を引かれてまわった遊園地の中心で、同じ場所を何度も、何度も、何の疑いもなく走りつづけていた馬を。
また同じところへ。
「おはよう」
と、私の顔を覗き込む、山姥切国広の顔は相変わらずの無表情だった。私はおはようとつぶやき返して、それから布団の中でもぞもぞと身体を動かした。眠気はしなびた毒のようにまだ四肢の中を這いずり回る。山姥切がそっと身を引いたので、私はのろのろと上体を起こした。後頭部が触らずとも寝癖に乱れていることがわかって、手櫛で乱暴に整えていると、山姥切はそんな私の起き抜けの一挙手一投足を神妙な顔つきで見つめている。
「あんた、」
「うん、おはよう、山姥切。どうかしましたか」
あくびとともに私は二度目の挨拶を口にする。じんわりとにじんだ涙があやうく流れ落ちていきそうになり、慌てて目元を指で押さえた。
山姥切は、姿勢良く折り畳んだ膝の上にこぶしを握り、整然とたたずんでいる。少しの沈黙を挟んでから、なんでもない、とつぶやく彼の声は、いつも通りの空虚さである。何の感情も読み取れない。それこそ研ぎ澄まされた刀のように。
妙な間の悪さを埋めるように、今日の朝食はたまご粥だそうだ、と彼が続けた。私は特に驚きもせず、先の話題を蒸し返すことなく頷く。
「朝食とはいえ、控えめですね。出陣する刀たちには物足りないのでは」
「なんでも計算を違えて、食材が尽きたと厨当番が。急遽ではあるが、今日万屋に行きたいとのことだ」
「そうなんですか」
「許可をもらえるか」
「それは、もちろん」
山姥切が淡々と頷くのを見届けてから、私は億劫ながらも立ち上がって、寝巻きがわりにしている薄手の襦袢の上に半纏を羽織った。それから部屋の片隅に置かれた鏡台の前に座り、胸の前にぼさぼさと広がった髪の毛を適当にうなじの上でまとめ縛る。鏡の中で左右反転した私の顔は、死人のように血の気の失せた色をしていた。鏡の端には、まだ私を見ている山姥切の顔が小さく映り込んでいる。
「あんた、」
と。もう一度。
「なんともないか」
私は映り込んだ彼の顔を見つめた。山姥切が見ているのもまた、鏡の中の私である。私たちは互いを見ているくせに、今歩み寄れば触れられる近さにいる互いのことを見ないでいる。
いつものことだ、と私は思う。もはや、これが何度目であるのかだって思い出せない。同じ場所をまわり続ける無機の馬のように、繰り返している。何度だって。
私は今度こそ振り向き、彼の顔を正面からまっすぐに見つめた。彼は驚いた様子で目を見開いたが、一瞬だった。
「なんともないですよ」
障子の薄紙を透過してまどろんだ朝光が、翡翠のような彼の瞳に反射してかがやき、私は朝が来たのだと思う。またまわり始めるのだと思う。やわらかなスポットライト。はじまりの声はなく。また同じところへ。
山姥切国広。昨夜私の心臓を貫き殺した男は、まるでにこりともせず、そうか、とつぶやいた。
私は毎晩死んでいる。
殺すのは山姥切国広である。
夜更け、私がすっかり寝入った頃になると、彼は決まって審神者部屋へとやってくる。そうして私がすこやかに寝息を立てていることを確認すると、音もなく腰の刀を抜き、私の心臓をまっすぐに刺し貫く。私はそのたびに眠りの先へと命をやり、だけど朝になれば、何事もなかった顔で目をさます。一度目のとき、私はきっと夢を見ていたのだろうと思って、だけど同じことが二度三度と続いたころから、これは夢幻などではなく、本当に己が身に起きていることなのだと理解せざるを得なかった。
殺された次の日の朝、山姥切は必ず私の枕もとにいて、はじめて生まれるようにたどたどしくまぶたを開ける私を、じっと覗き込んでいる。そして、私が何かを言うより先に、朝のあいさつを投げかけてくる。たしかめるように。
おはよう、と。
私は彼を咎めなかった。
深い眠りの中にあっては、命の臓腑をまっすぐに抉られる痛みさえもただの衝撃としてしか感知されない。私は辛苦を感じる間もなく死に至っているに違いなかった。そうして朝、太陽が、昨日となんら変わりなく私の本丸を照らすのを見つけ、そこに山姥切国広の姿があるのを見つければ、私はどういうわけか、それだけでいいような気がしてしまうのである。たしかな死からのよみがえりというものは思いの外御しがたく、私はただ、いつもと変わらぬ彼の無表情に胸を撫で下ろしてばかりいる。
「なあ」
「なんですか」
「昨夜のことはおぼえているか」
夜毎に殺されるのが始まってから、山姥切は数日おきに一度こんな質問を投げかけてきた。私はその度に同じ答えを返している。わかりません。何かあったんですか。夢をみる隙間もないくらい、ぐっすり眠りこけては鶏が鳴くのを待っていて……。たいていはそんなようなことを口にして、すると山姥切は少し黙った後に、そうか、とだけ言う。
私にとって不思議であったのは、その短い相槌で会話を切り上げるときの彼の無機質な声が、私の胸をほんのわずかだけ焦らせることだった。ともすれば、夜更けに殺されるその瞬間よりもずっと、明白に心臓が急くのである。そのたびに私は私の答えが間違いだったのではないかと思って、取り繕おうと口を開きかけるのだが、中途半端に開いた唇の隙間からは乾いた息しか出ていかない。
そんな繰り返しだった。
●
ここのところ、雪がしきりに降り積もるようになった。
縁側に腰を下ろし、ぼんやりとした思考で、私はここ一週間の三食の献立を順にそらんじる。視界にちらちらと舞う結晶をとらえながら、七日前の朝食から、昨夜の夕食まで、指折り羅列する。そうしてすべてを問題なくおぼえていると確かめてから、茶を啜る。最近はこれをひとつの日課としていて、時折通りがかった刀剣にはずいぶんと奇妙なものを見る目つきで見下ろされるものだった。
「おや」
と声がして、私は中指まで折り畳んでいた手のひらを一度とめ、それから顔を上げた。いつの間にか私の後ろにやってきていた髭切が、大きな猫目を不思議そうにまばたかせて、私を見下ろしているのである。彼がこれを目にするのは初めてだっただろうか、と思いながら、私はどうもとだけ挨拶をした。
「何をしているんだい」
「この一週間の献立を思い返しているんです」
「へえ、おかしなことしてるんだね。一体どうして?」
私は口ごもった。どうして、と改めて問われると、自分でも理由はわからなかった。
思えば、そのときの私は、自分でもわからない何かが漠然と、途方もなく不安であったのだろう。男士らと同じ机を囲んで食べたものが、はたして私の血肉となり私を生かしているのか。私の足、神経が伝い、血がめぐる私の足が、ほんとうにこの空間の土を踏みしめているのか。私の心臓はほんとうに動いているのか。きっとそういった類のことが。
髭切、と呼ぶ。彼はほほえみを返答とする。
「きのうの夕餉はどうでした」
「きのう? いつも通りおいしかったよ」
「どれが気に入りましたか」
髭切はそこで顎に手を当てて、ううんと考える仕草をした。それはどこか芝居じみていた。
「揚げ出し豆腐かなあ」
「そうですか」
「きみはどうなんだい」
「茄子の煮浸しがおいしかったです」
「ああ、あれもおいしかったね」
髭切はからりと笑い、それから私の横にしゃがみ込んだ。私は庭がしんしんと白く染められていっているのを忘れ、ただ彼のうつくしい顔立ちに目を奪われ見つめ合った。黒い手袋に隠された左手が、私の頬をすくうように撫でて。
「かわいそうに」
と言う。
「目の下が真っ黒だよ。よほど眠れていないんだね」
「髭切」
「きみは少し真面目すぎるところがあるからね。眠るときくらいは、ゆっくりおやすみよ」
彼の親指は私の目の下のへこみをするりと滑り、それからあっさり離れていく。そのまま何事もなかった様子で立ち去ろうとするので、私は慌ててどこへ行くのかと尋ねた。髭切は足を止め振り向き、嫌な顔一つせずに答えてくれる。
「呼ばれてるんだよ。さっき捕まっちゃってさ」
「捕まった?」
「うん。なんだっけ、あの白くてうるさい……まあいいや。なんでも、万屋でおもしろい遊戯を買ってきたんで付き合ってくれって。駒があって、表裏が白黒で反対になってて、それをひっくり返して遊ぶんだとかなんとか」
「鶴丸ですね。遊戯の方は、オセロでしょうか」
「ああ、そう、たしかそんな名前だったと思うよ。つるまろは、俺は絶対に白がいいってうるさくて」
「白でも黒でも、どちらが有利というわけではないんですけどね」
苦笑すると、髭切はそうなんだねとうなずいて、それからまたすたすたと歩き出す。雪の冷気のただよう縁側を遠ざかっていく彼の服装が、そういえば随分と薄手であることに首を傾げながら、私は真っ白い空へと視線を戻した。
そのとき、たしかに耳元で。
「どっちが裏なんだろうね」
もう一度振り向いても、髭切の姿はそこにはない。
何も聞こえず、私の耳には雪のふる音だけがする。
私は溜息まじりに、再び白銀の庭を見回す。庭の端に咲いた山茶花が、白い氷の粒をまとって張り詰めている。そうしてふと、疑問に思う。
どうして雪が降っているのだろうか?
●
午後。審神者部屋。
政府への報告書作成もあらかたひと段落がついたとき、ふと顔を上げた先では窓の向こう側でまだ雪がちらついていた。私は小さく息を吐く。斜向かいで同じく書類整理に励んでくれていた山姥切が、私の呼吸が変わったのに気付いて手を止める。無言ではあっても私の動向を気にしているのは明らかで、私は彼に何か牽制をされるより先に、外へ出ましょうと言った。昼食を終えてからというもの、すでに一刻半はこうして机に向かい続けていたのだから、多少の休憩はあって然るべきだ。山姥切は当然のように即答しなかったが、やがては嘆息とともに筆を置き、立ち上がった。
庭はすっかり真冬の装いで、短刀たちが遊ぶために設られた遊具や、物置と化した離れ、そこへ続く小ぶりな橋など、あらゆるものが白をかぶって隠れ鬼をしているようであった。私はすっかり白銀に飲み込まれてしまった足元を踏み外さないように注意しながら、あてもなくふらふらと屋敷の周りを歩き回った。山姥切は終始無言で私の後をついていた。
「今日の夕食はなんでしょうね」
私は前だけを向き、後ろに佇んでいるだろう彼に向けて問いかける。
「先ほど髭切と会って。昨日は茄子の煮浸しと、揚げ出し豆腐が美味しかったと話したんです」
「そうか」
「私、久々に中華が食べたいような気がします。山姥切、あなたはどうですか」
次々と湧き出てくる、本当にどうだっていい瑣事を垂れ流すように喋る。山姥切は必要以上の反応はよこさないけれど、いつだって、必ずその耳だけは私の言葉に傾けていてくれる。どんなにくだらないことだって、取るに足りないことだって、彼は、彼だけは私の声を聞き逃さない。
私を審神者にした刀。
「山姥切」
私はそこでやっと振り返り彼を見た。彼を頭から覆い隠すくたびれた布切れが、所々雪を浴びては濡れていた。頭の丸みの上にはうっすらと白く透明な層ができていて、私は傘を持ってくればよかったと後悔する。
山姥切はやはり微塵も表情を変えなかった。ただまっすぐに私を見て、どこか、遠い声音でつぶやいた。
「俺は、食事は要らない……」
山姥切、と私は呼ぶ。彼は何かばつの悪そうに目を伏せ、それきりまた黙ってしまった。俯いた拍子に彼の前髪がふさりと垂れて、浅瀬の色をした瞳をその奥に隠そうとする。
私は雪道を注意深く戻って、彼の前へ、手を伸ばせば届きそうな距離まで近づいて、彼の頭や肩から、積もった雪を払い落とした。ほんの少しだって乱暴にならないように、撫でるように。ともすればこのまま、目の前のからだはガラス細工のようにばらばらに砕けてしまうのではないかと思った。それだけがこわかった。
●
夕食の支度ができると、厨当番がお玉を片手に審神者部屋まで私を呼びにくる。そんな手間をかけさせなくても、私一人がきちんと時計を見て自ら食堂へ赴けば良いだけの話なのだけれど、そうしようそうしようと思っても、どういうわけか私は必ずその時分を逃すのである。襖の向こうから私を呼ぶ声がして、はっと時刻を確認しては嘆息するのを、飽きもせず毎日繰り返していた。
今日の当番は加州清光だった。今日も失敗したと項垂れながら部屋から出てきた私を見て、何か嫌なことでもあったのと尋ねてくる。私は首を横に振り、こちらの話ですと笑って返した。彼はむうと不満げに唇を尖らせたが、それ以上わざわざ追及してくることはなかった。
「今日の献立は何でしょうか」
私は話題を変えて問いかける。私が出てきても、加州はなぜだか部屋の入り口で立ち止まったままでいるので、私もその場にとどまり、まるで井戸端会議のようなていになった。
「今日は肉じゃがと、舞茸の炊き込みご飯。デザートにわらび餅つき」
「それはいいですね」
この本丸では、買い出しがあった日は食後のデザートがつく。今日もその恒例をなぞったのだろう。八つ時に菓子が出るとはいえ、甘いものはいくらだって好んで食べたがるものが多くいる。私や加州もその一人である。
加州はうんと頷いて、それから私の肩越しに、電気の消えた部屋をもう一度覗き込む。そして首をかしげた。
「どうかしましたか」
「ねえ、山姥切は?」
きょとんとした表情で尋ねる。私は少しだけ振り向き、暗くなった部屋に視線をめぐらせる。部屋の片隅、襖がある壁際の角に隠れるように、山姥切は膝を抱えてうずくまっている。加州の立ち位置からではぎりぎり死角になって見えていないらしい。
丸まった背中は暗闇の中でかすかに上下している。寝息は聞こえない。起きているかもしれないが、私と加州の会話は耳に入る距離だから、そうだったとしても起きてくる気はないのだろう。私は目の前の加州に目を戻し、いいんですとつぶやいた。
「眠っているみたいなので」
加州はどこか怪訝そうに眉を寄せながらもふうんとつぶやき、食堂へ向かう道を歩き出した。私は後ろ手に襖を閉めて、彼の後へ続く。
離れ際、後方で何かものおとが聞こえた気がしたけれど、気のせいだ、と思った。
食事は皆で一緒に。それがこの本丸の暗黙の了解であるけれど、とはいえ逐一時刻を合わせ、全員が揃うまで待ってからいただきますをするというわけでもなく、基本は食堂へやってきたものからどんどん勝手に食べ始めている。だから大皿によそられた主菜なんかはよく取り合いになるので、大食らいの刀は厨当番が知らせるより先に食堂で待っていたりする。その時々の当番の刀に呼ばれてやってくる私はたいてい到着が最後の方で、すでに食堂は大盛り上がりになっていることが多かった。今日とてそれは例外ではなく、やいやいと楽しげに騒いでいる男士たちを横目に、私はスペースの空いていた端の方の席をこっそりと確保する。
両手を合わせていただきますとつぶやいたとき、ふらりと鶴丸がやってきて、私の目の前へ腰を下ろした。
「やあ。きみ、近侍殿はどうしたんだい?」
本来、私の向かいには近侍が座ることになっている。ここの刀たちは私のことをずいぶんと慕ってくれて、そういった取り決めがなかったころに喧嘩に発展した事態が何度かあったのだ。
私は早速、小鉢の里芋に箸を伸ばしながら、「疲れたみたいで、今眠ってます」と答えた。立てた片膝に頬杖をつき、鶴丸はおだやかに目を細めて私を見ている。
「食事のときまで眠りこけてるだなんて、まるで死んでいるみたいだな」
「鶴丸、そのたとえはよくないです」
「そうか。いやしかしな、ずっと眠ってるだなんて、死んでいるのと変わらないだろう」
あまり悪びれた様子はなく、鶴丸はそう言って、私の向かいで手のひらを合わせた。言葉選びには問題があるにせよ、こういったときの振る舞いに関しては鶴丸は行儀が良い。
「まだ食べ始めていなかったんですか?」
「ああ。俺もついさっき来たところだ。まあおかげできみの向かいの席を取れたし、棚からぼたもちってやつだな」
流れるように喋っては、豚汁の椀を手に持ち上げ口をつける。会話をしながら、しかしすばやく上品に食べ進めることも鶴丸はうまい。
私は良く色づいた米を少量口に運びながら、彼の顔をじっと眺めた。伏せられた白い睫毛が天井の明かりを受けて、ふりしきる雪のように輝くのを見た。それで思い出した。
「そういえば、鶴丸」
「なんだい」
「オセロはどうでした」
「おせろ?」
鶴丸が首を傾げる。
「髭切と遊んだんでしょう。黒と白の駒を裏返して取り合う遊戯です」
「ああ、あれか」
彼は意を得た顔で汁椀を置き、次は迷いなく炊き込みご飯の茶碗へ手を伸ばす。
「やったぞ。なかなか楽しかった。きみもやるかい?」
「そうですね。私、オセロ弱いですけど、それでもよければ」
「はは、髭切よりも弱いということはないだろうから安心するといい」
「そんなにひどいんですか、髭切」
鶴丸は苦笑するように唇を歪め、六十四対零だった、と言った。私は肩をすくめ、むしろ何をしたらそこまで完敗できるのだろうかと不思議に思う。八八の枡目全てが白に埋め尽くされた盤上を想像して、だけどそれを見据えてもきっと平然と首を傾げる程度なのだろう髭切の姿を思うと、私は不思議と愉快な気分にもなった。
自分の圧勝が嬉しかったのか、鶴丸は食べ進めながらも揚々と語り続ける。髭切のやつ、角を取るなんて定石すら知らないんだぜ。挟めるところがあったら何も考えずに置いちまうって感じで、あれは面白かった。あいつに考える系の遊戯は合わないのかもしれないな。私はいつも通りおいしい食事を自分のペースで食べながら、彼の話に気持ちよく耳を傾けていた。勝負の弱さには自信があったのだが、鶴丸の話を聞いていると、もしかしたら本当に髭切には勝てるかもしれない、と思う。
ふと気になって、彼の言葉が途切れた際に食堂を見回した。食堂にはほとんど全員の刀剣男士が集まっているはずだったが、どういうわけか、髭切の姿だけは見つからない。あれ、と思った矢先、また鶴丸がうれしそうに話を始める。
●
月の暦を数えている。今日は三十日の間に唯一、月の見えない日である。雲の切れ端さえ見当たらない濃紺の中にはただこまかな星屑だけが散り散りになって光っている。地に積もった雪は、日中こそ目を焼くような真っ白さに発光するのに、ひとたび太陽が隠れてしまえば、うすい夜の影に覆われ眠る。
もう日付も変わる時分だった。自室の窓から空を仰いで、そうして何もせずただぼんやりとしているうちに、いつの間にか本丸は静まり返り、静寂の音だけが夜の狭間を包んでいる。私は私の呼吸や、心臓の鼓動といったものが、間違ってもこの静けさを壊してしまわぬように、ひとり息をひそめていた。思考は海の上を漂うように茫洋として、しかしすこしも眠たくはない。
だから、襖のひらかれる音が、些細な衣擦れのように小さく小さく私のもとへ届いたとき、私は私の鼓動が、それだけが眠っているかのように安らいでいてくれたことが幸いだったと思った。彼が驚きに息を呑む音さえ、この空間によく響き、私の鼓膜をしかと揺らしてくれる。眠る水面に落ちた雪の一粒が、たしかな波紋をうみだすように。
「山姥切」
私は振り向かずに彼の名前をそっと呼んだ。彼は答えない。襖を開けたきりそこで立ち止まり、私の背中をじっと見つめているようである。
私はゆっくりと振り向いた。灯りのない部屋で、暗闇に順応した視覚が彼の輪郭を時間をかけて形作っていく。
山姥切は迷子のような頼りなさでそこに立っていた。
光もないのに、その二つの瞳だけが鮮やかなあお色にひかっていて、私は素直に、それを美しいと思う。
しばらく、互いに黙って見つめ合っていた。先に口を開いたのは彼の方だ。少し眉根を寄せてから、溜息とともに言う。
「起きていたのか」
「ぼうっとしてたらこんな時間になってたんです。あなたは?」
山姥切は少し黙り、考えるような間を取ったが、ついぞ答えてはくれなかった。口を閉じたまま、小さな歩幅で私の後ろまでやってきて、また、立ち止まる。彼の方からやってきたくせに、この場に腰を下ろすべきか、すぐに身を翻して部屋から立ち去るべきか、考えあぐねているような様子だった。
やがて、少ししてから、彼は借りてきた猫のように、おそるおそるその場へ正座した。膝の上に拳を握っては、それをにらみつけるかのように俯く。私は座ったまま体ごと向きを変えて、彼と正面から向き合った。そしてもう一度、彼の名前を呼ぶ。
山姥切国広。
私の初期刀。私を審神者にした刀。
ずっと一緒にいたはずなのに、私は、彼の心をほんの少しだってわかったと思えたことがない。
「どうしたんです」
私と彼以外、まだ誰もいなかった本丸で、向かい合ってふたり、質素な食事を食べたときのことを憶えている。単騎出陣を命じて、ひどい怪我を負って帰ってきたのを半泣きになりながら手入れしたことを憶えている。
たとえたったの一部でも、同じ時間を生きてきた。それなのに、神の声を聴く審神者がこのざまなのだから聞いて呆れる。今日も食事を食べないで、お腹がすいてはいないか。私が目ざめるときには必ずそばにいてくれて、あなた自身はきちんと眠れているのか。こんなささいな心配の言葉さえ、彼に伝えることができないで、愛想を尽かされても文句は言えまい。
「私は、なるべくあなたに、つらい思いをさせたくありません」
私は私が無力であることを知っていた。彼にこんな表情をさせているのは自分だ。そして、毎夜彼に刀を握らせ、私の心臓をつらぬかせているのもまた、きっと私自身なのだと思う。
「あなたは私をどうしたいですか」
私は問いかける。いつのまにか、ゆるく拳にした手の内側が、汗でじとりと濡れていた。
「俺はただ、」
山姥切は絞り出すように声を紡ぐ。
「あんたに、かえってきてほしいだけだ」
彼は当然のごとく、その腰に刀を携えている。唸るように、噛み締めた歯の隙間から押し出すように紡がれる声が重たく、私は、心臓がぎゅっと握り締められたような錯覚をおぼえる。
「また、殺すの?」
知らないふりをしていた。もしかしたら、全て気づいていると打ち明けるよりもよほど残酷なことをしていたのかもしれないと思う。
山姥切はまだ俯いていたが、やがて、ゆっくりと顔を上げた。金色の前髪の隙間から、二つの宝石が再びかがやきを覗かせる。彼の目に映る自分が彼ほどには美しくあれないことを思っては、私はいつだって自分の醜さがいやになる。
ああ、と。まっすぐにうなずく、彼は。
「殺す」
何度だって繰り返す。太陽がのぼり、しずみ、月が出て、星が光る。
裏返した先にあるのは何色だろうかと思う。それは表なのか裏なのか。誰も知らないのだろうとも。
いいですよ、と私は言う。ほほえみながら、答えを出す。
「あなたを信じているから」
自分の痛みはどうでもいいのだと思った。彼の声がかすかに震えていることや、あおい瞳に影のさしていることの方が、私には苦しい。今の私には。
山姥切国広は私を見つめている。その顔つきが、今まで見てきたどんな表情よりもうつくしくて、私は彼と、いまここではじめて出会ったのかもしれないと思う。
「私をかえして。山姥切国広」
瞬間、視界にひらめくように、銀色の太刀筋がひかった。
左胸のあたりが燃えるようにあつく、私は思わず喉の奥で唸る。もっと聞くに耐えないような酷い声がせりあがりそうになって、だけどそれだけは必死に押し留めた。みっともない私を見せたくはなかった。彼の主と呼ばれるにふさわしい者になりたかった。
山姥切国広の刃は私の心臓をまっすぐにつらぬいている。
唇の端から、つうと何かが一筋こぼれていく。口の中に鉄錆のような渋さが広がり、顔を顰めずにはいられない。どうしようもなく、もう一度低くうめいたとき、奥へと容赦なくねじ込まれていた鋒が身を引こうとした。私は慌て、縋るようにその刃を掴み、私の方へ、ぐっと引っ張る。刃の冷たさと血のあつさが、じんわりと、にじむように混ざり合う気配がからだの中にあった。
だめ、と私は言う。山姥切は固唾を飲み、喘ぐ私をじっと見つめている。
「ぬかない、で……」
彼の手に押され、私の手に引かれ、夜の中に燦然とかがやく刀身は、ゆっくり、ゆっくりと私の命を抉っていく。やがて、それは私のからだを通り抜け、心臓を通り抜け、裏側へとたどりつく。そんなことわかるはずもないのに、わかるのは、きっと、その刃が彼自身で、私が彼の主だからだ。
「主」
山姥切が言う。もはや、彼の刃がなければ呆気なく崩れ落ちるだろう私のからだを、そっと自分の方へ引き。私の頭の後ろへと手をやり、彼の肩口へ押し付けるように抱き寄せて。
「かえろう」
海の底へと沈んでいく。そんなふたしかさの中で、私は、つらぬかれた私の心臓が、ずくりと重さを増していくのを感じる。意識と一緒に身体中が重くなり、だけど、それをまるでどこか遠くから、もう一人の自分が見つめているような。
「やまんばぎり、」
つうと血の伝うくちびるから、私は最後、掠れた声で紡ぐ。もう身体は動かない。彼の肩にあてられたままで、何よりもうつくしい彼の顔を見て死ねないことが、途方もなく惜しかった。
「またあした」
○
ぱちん、と駒の音。
鶴丸ははっとして、ぼんやりと盤上をさまよっていた視線を対戦相手の顔へと戻した。彼は相変わらず真意の読めないおだやかな笑顔で、「きみの番だよ」と、鶴丸に促すように手のひらを向ける。
「どうしたの。そんな驚いた顔して」
「いやあ、きみは話がうまいもんだと思ってな。すっかり聞き入っちまったぜ」
「そう? どうもありがとう」
鶴丸は仕切り直しがてらにふうと一息吐いて、それから盤上を眺めた。なにせ相手は強かった。最初はこちら側が優勢だったはずが、いつの間にかすっかり逆転されている。こいつは旗色が悪い、と頭を抱えながらも、ひとまず最善と思われる守りの一手を取り、それから先程を真似て、「きみの番だ」と相手に渡す。
彼は顎に手を当てて、ううんと考えるように声をこぼした。その無邪気な表情を眺めながら、鶴丸はふと思い立って声をかける。
「それで、きみ」
「うん?」
彼は盤上から視線を上げない。鶴丸はあぐらの上に頬杖をつき、彼の端正な顔立ちを見つめる。その裏に隠された本意を。
鶴丸の主は、もうずっと前から深い眠りについたまま、今日も目をさまさない。
「結局、その審神者はどうなったんだい」
ぱちん。
彼は指先にはさんだ駒を、まるで棋士のように颯爽と盤上に置いた。天井を向いた白い面はつるりと反射し、彼の顔立ちを鏡のように映し出している。
彼は顔を上げ、鶴丸を見つめる。無邪気にやわらかくほほえんで。
「角取った」
オセロ
2021.9.25
書き出しの一文「死んで、毎朝、生き返る。」は四畳半さまよりいただいております。
四畳半さま、一緒に素敵な企画をさせていただき、本当にありがとうございました。心より感謝申し上げます。