先輩へ。
これは私の、貧相な審神者たるひとりの小娘の、徒然たる手記に過ぎません。ですが、誰にも宛てずに、自分のためだけに言葉にすることが、ご存知の通り私はたいへん苦手なので、どうか、私の唯一の友人であるあなたへ、これを宛てさせてください。
先日、やんごとない事情があって、現世へ行ってきたのです。
審神者になってからはじめてのことでした。ごく限られた時間でしたし、近侍の刀は連れて行く必要がありましたが、それでも、膝のあたりをくすぐる洋装の身軽さや、踏みしめるアスファルトの硬さといったものは本当に久方ぶりの心地で、私の胸をたかく躍らせました。私はいっそ鼻歌でも歌い始めそうないきおいでらんらんと道を駆け抜けて、見咎めた近侍がため息を吐いてしまうほどのはしゃぎようでした。
今思えば、結局のところ私はどこまでも人の子で、私の住まうべきはあの時空のはざまにある結界の中ではなく、どこまでも前衛的で、退廃的で、きらびやかで、殺風景な、人間の世界であったということなのでしょう。私はそれに心のどこかで気がついていて、だけど知らないふりをしていたのです。近侍の呆れはほんとうに私の幼さに向けられたものだったのか、今となってはそれさえもあやういけれど、彼がそのときどんな表情をしていたのか、私はもう思い出すことができません。
現世を訪ねたそのおりに、私は、ざらついた灰色の道路の上にゆらめく透明な何かを見て、それからあなたを思い出したのです。ああ、ですから、よくよく考えれば、これはやはりあなたへ向けた手紙なのかもしれない。どちらでも構わないと思います。どちらにせよ、あなたはもう私のことばを見てはくれないから。
それまで、はじめて海をみた幼なごのようによろこび飛び回っていた私が、突然何もないそこを見つめて足を止めたのだから、近侍はさぞかし驚いたのでしょう。ひどく訝しげな様子で私を主と呼び、だけど私は振り向くことをしませんでした。
あれから季節がひとつ回ったのだと、私は、ゆらめく翳を見て知ったのです。
夏。
うだるような暑さの下で、私はあなたの訃報を聞きました。
先輩。
あなたが我々審神者のことを、まるで陽炎のようなものだとおっしゃっていたことを憶えています。
私たちが死んだとき、私たちがそこにあったことを、はたして誰が憶えていてくれるのか。
そうつぶやいたあなたの顔はあわく翳っていて、だから私は、あなたはきっとさみしいのだろうと思いました。そう思って……それが、正解だったのかはどうだってよくて、だけど、そう思ったくせに、あなたの手を握ったり、あなたの頭を撫でたり、そういったことを何もせず、ただ呆然とあなたの隣に突っ立っていた私を、私は、現世にゆらめくかげらふを見、ようやく心底うとんだのです。
二年前の夏、私を審神者にしたあなたに、ずっと伝えたかったことがあります。あのとき、まだ一振りとして顕現させていない、正真正銘たったひとりだったころの私に、あなたは問いました。
なぜ、歴史を変えてはいけないのか。
今、私はやっと、あのときの問いかけの答えをあなた自身もまた追い求めていたことを知っています。いわば、審神者の使命、私たちがまもろうとする歴史それさえもが、不安定に揺らぎ続けるかげらふのようなものであって、あなたは、もう、なにがほんものなのかもわからなくなっていたのかもしれない。
だからこそ、私は、あのときの無知な私がどうしようもなく、どうしようもなく憎らしいです。
そして、いつかの私を強くうとみながら、だけど私は、あなたへやっと答えることができるのだとも思いました。
先輩。
私は、私のために、今私をここに至らせた歴史をまもりたいと思うのです。
あなたが私を審神者にしたこと。翳らふあなたの横顔を見つめたこと。炎天下にあなたの死を知ったこと。近侍とともにゆらめくかげらふをながめたこと。
そこにあった感情がどういう類いのものであれ、私は、私の記憶が、なににも代えがたいほど尊いものであるのだと信じてやみません。
ふと、目の前に回りこんだ近侍が、なにやら焦ったような困ったような奇妙な表情をしているので、何かと思えば、私が泣いているのでした。いつの間にか、アスファルトの上に揺らいでいたまぼろしはどこかへ消えさり、私は、ただまばゆいほどの青空が、遠くまで、遠くまで続いているのを見ていました。
近侍に手を引かれて私は私の本丸へと帰り、それから自室にこもって、またひとしきり泣きました。不思議と嗚咽はどこにもなくて、ただ、目の奥から、ずっと堰きとめられていたなにかが壊れたかのように、あふれてくるのでした。ときおり肌を撫でていった隙間風が思い出したようにすこしだけひややかで、私は、もう秋が近づいてきているのだと思います。
あなたの嫌いだった夏も、もうすぐ終るのです。
先輩。私を審神者にした、私の唯一の友人。どうか、使命を終えたあなたが、すこやかに眠られていることを、心から、心から、願っております。
2021.9.10