1
一週間ほど前から、毎晩本丸のどこかで何かが燃えるようになった。
はじめは庭に植えてあったトマトの苗木である。灰と化した残骸を最初に見つけたのは五虎退で、朝食前に水遣り当番の仕事を全うしようとじょうろを提げて庭へ出た彼は、ずいぶんと怯えた様子で屋敷に戻り、私にそれを報告した。
次の日は空き部屋のひとつに置いてあった古い小さな屏風。また次の日は厨に吊るされていた魚の干物。それから毎夜、何の脈絡もなく。しかし朝目覚めてみればたしかに何かがひとつ、必ず燃えているのだった。
三回目の夜を超えてからは不寝番を置いたけれど、それでも事態は解決しなかった。数刻に一度屋敷を見回って、だけど結局のところ不寝番のものが見つけるのはすでに何かが燃えさかった痕だけであり、実際にそれが燃える瞬間を見つけられたものはなかった。
七日目の朝。
私は夏の寝苦しさに早々布団を蹴り飛ばし、汗ばんだ身体でのそのそと部屋の外へ這い出た。一歩出ればたちまち照り付ける太陽の光に、私はそれこそ自分のからだが燃えていくのではないかとさえ思う。
散歩がてらに屋敷を歩いていると、東の縁側で寝巻きの三日月宗近がのらりくらりと茶を飲んでいるのに出会った。あまりに暑いので私の顔からはしかめ面が取れずにいて、そんな私を彼はさもおかしそうに笑った。
「これは珍しいなぁ、主が早起きとは。この暑さでは流石のおぬしも眠れなんだか」
「からかわないでください……あなたは」
「俺はじじいだからなぁ。この時間にはたいてい起きているぞ」
湯飲みをたずさえ目を細める。あまりにも端正な男の横顔を眺めながら、私はそろそろと彼のそばへ寄った。太陽がのぼったばかりの時刻である、まだ眠っている刀は当然あるだろう。会話の声は抑える気もないくせに、私は不思議と足音だけを隠したがった。
「あなた、昨夜は不寝番ではなかったでしたっけ」
「いや、俺ではないぞ。昨晩はたしか、鶯丸ではなかったか」
ああ、と私はぼんやりうなずく。茶を飲んでばかりで、さぼっていなければいいんですが。そうぼやくと、三日月はまたからりと笑って、それからもう一口茶を飲んだ。自分で淹れたのだろうか、と少しだけ気になって、だけどそれを問うのもあまりに瑣末なことだとわかっていたので、私は結局別のことをたずねる。
「鶯丸、どこにいるかわかりますか」
「俺は見ていないな」
「そうですか……」
「しかし、どうやら昨晩も収穫はなかったようだぞ。主殿」
三日月の声は穏やかだった。私はどういうことかわからずに首をかしげて、
「三日月。あなた、なにを見ているんですか」
三日月はそっと口元をゆるませ、傷ひとつない指先をまっすぐに伸ばして、庭の一角を指し示した。私の視線は自然とそちらへ引き寄せられ、それから私は思わず溜息を吐いてしまった。
ひまわり畑が燃えた。
これがつまり、始まりから七日目の朝のことである。
×
私はその午後に執務を休み、近侍の刀とともに庭のひまわり畑を回った。庭の片隅を占めていたそこは、例の不審火によって今朝方に半分ほどが燃えていて、だけどもう半分はまるで切り離されたかのように火傷ひとつなく生きているままだった。
「よかった。全部が失くならなくて」
と私はつぶやく。輝かしく夏風に揺れる、生きのびたひまわりたちの前に膝を折って、それから斜め後ろに控える一期一振を振り返った。
「知ってますか。このひまわりは、あなたの弟たちが植えてくれたんです」
「聞いております。なんでも、私が顕現する前に」
「ええ」私は頷き、凛と背筋を伸ばすひとつの茎にふれた。植物というもののほねぐみは、私たちが自分勝手に思い描くそれよりもずっと硬く、筋ばっている。
「いつかあなたが来たら、あなたと一緒に写真を撮るんだって。いっつも水を遣りながら、それを楽しみにしていました」
「そうですか……」
「写真、撮れましたか?」
一期一振はばつの悪そうに首をすくめて、いいえ、と言った。私はひまわりの花畑が半分残っていた幸運に、それが偶然であれ必然であれ、心の底から感謝しようと思った。
「夏の特権ですよ。撮ってあげてください。季節はすぐに変わってしまうから」
「はい」
精悍な返事が返ってくる。私は少しおかしくなって、彼の不快を誘わない程度にほほえんだ。それから続けた。
「一期一振。あなた、ひまわりの花については知っていますか?」
唐突な問いかけに、彼は明らかに困惑した様子で眉尻を下げた。私は膝に手を置き、のんびりと立ち上がる。
隣り合った灰の敷地からは、まだ炎の残り香がかすかにただよっている。一期一振も私も、どこかそれらからわざと目を背けているふしがあった。
「ひまわりは、漢字で書くときは、向日葵、と書くのが一般的ですけど、」
指先で空に漢字を描く。一期一振はずいぶん真剣な目で、見えない黒板をまっすぐに見つめている。
「ときおり、日廻り、と表記されることもあります」
それから私は描き終えた指を下ろし、天頂を通り越した太陽のあるあたりを見上げた。途端に視界がちかちかとくらみ、明滅する真白が斑点のように現れて、私の眼孔を焼こうとする。
「花が咲くまでの間、東から登って西に沈むのを追いかけるように、蕾が太陽を見続けるんです。そうして、やがて花が開く」
「太陽に向かって?」
「はい」
一期一振はじっと考え込む。それからつぶやいた。
「花が咲いた後はどうなるのですか」
2
夏の日差しはあまりにも容赦がなく、ひ弱な身体ではそう長く持たない。ひまわり畑を一通り眺めたら、私と一期一振はそれからすぐに屋敷へ引き上げ、食堂で向かい合って冷たい麦茶をすすった。透明なグラスの中、からころと氷のぶつかる音は大変すずやかで心地よい。
「今晩燃えるのはなんでしょうね」
ひややかさは指先まですうと染み渡るようだった。冷たい飲み物が喉を潤し、私は良い気分になってそうつぶやく。
私の台詞に、一期一振は呆れた様子でわずかに眉根を寄せた。こっそり、隠すように吐かれた息のおとは、私の聞き違いではないだろう。
「もう少し危機感を持たれてはどうです、主」
忠臣は諭すようにつぶやく。
「このまま放っておくおつもりですか」
「不寝番は頼んでいます。なにも無策というわけではないですよ」
「しかし」
「焦っても仕方ないです。こればかりは」
一期一振は何かを言おうとする様子だったが、やがて唇を結び、今度は隠すことなく肩をすくめた。
連日のぼや騒ぎに警戒を高めている刀たちとは違い、私はどうしても呑気だった。この態度に、私の刀たちの中には不満を持っているものがあることも知っている。だけど私はこうでしかいられなかった。理解できないと大きく顔に書いた大包平が、どうしてそんなに冷静なのかと私に尋ねてきたことがあって、しかし私はそのときでさえ、なんとなくです、と答えたのだ。不平を買って当然である。
だけど、それ以外に答えようがなかった。
見たこともない。なにも知らない。それなのに、その炎は私たちを傷つけないだろうと、私はどういうわけか知っている。そんな気がする。
「ねえ、ひまわり、植え直しましょうか」
一期一振はきょとんとして目をまばたかせた。うすい琥珀のような瞳。それから浅瀬の色の髪。彼の色彩はまさしく夏の色合いをしている。
「まだ植えてない種があったはずです。たしか、薬研がどこかにまとめておいてくれてて」
「はあ。あの、主」
「今度は一緒に植えるといいですよ。育てるところから、一緒に」
私はそう提言して、自分の麦茶の残りを一気に飲み干した。なだれこむように、溶け残った氷のかけらが歯にぶつかって軽い音を立てる。ふれた唇がすばらしく冷たくなる。
一期一振は黙って私を見ていた。その表情には何もない。喜ぶ様子も、あるいは呆れる様子もない。
「主」
「うん」
「もし犯人がわかったら、どうされますか」
その声ははりつめていた。
彼の言葉を聞きながら私は、一期一振が、自分の麦茶に手をつけようとしないことが妙に気にかかった。手つかずのまま氷だけが溶け、コップの中身は体積を増す。外気温にふれ汗をかいたガラスの足元は、すっかり水たまりのようになっている。
私は少し考えてから、
「わからないです」
と答えた。
「どうしてそうなったのか、わからないことには、なんとも」
これが果たして、主と呼ばれる立場として正当な解であったかは、やはり自信がない。
やがて一期一振は、あいも変わらず真面目に唇を引き結んだまま、「そうですか」とだけ言った。
その晩、果たして本丸のものは何も燃えなかった。
代わりに翌朝見つかったのは、ひとの姿を解き、一本の刀剣へと戻った一期一振である。
3
真昼間にもかかわらず、万屋街は賑わっていた。行き交う人に押し潰されそうになりながらも、私はなんとか合間を縫って目当ての店を回る。今年になって顕現した刀剣男士のための秋冬の軽装を購入するのが目的だったが、いざ数え上げてみれば今年に入ってからもうそれなりの数の刀たちが私の本丸に新しくやってきていて、その分の着物を探し求めるのは思いの外骨が折れた。
あるところで、付き添ってくれていた鶯丸が私の肩に手を置いて、少し休憩をしていかないかと言った。荷物はすべて彼が持ってくれていたけれど、すっかり城に引きこもってばかりいた私の足は、半刻にも満たない街巡りですでに棒のようである。私はばつの悪くも、鼻頭をかきながらこくりとうなずいた。鶯丸はそっとほほえんで私の手を引き、彼のよく来るのだという茶屋へと案内してくれた。
空いていた席について、すぐさまやってきた店の娘に茶を二杯頼んだところで、鶯丸は待っていたかのように喋り始める。
「随分と人手が多いな」
「最近涼しくなったからかもしれませんね」と私は言う。
「少し前までは、嫌になるような暑さだったでしょう」
「たしかに。主、疲れたか」
「少し。だけど、まあ、大丈夫です」
「ふふ、そう意地をはるな。君の体力のなさはみな知っているさ」
事実ではあるのだけれど、それでも少々むっとして、言い返そうとしたところに茶屋の娘が盆に乗せた茶を運んでくる。私と鶯丸と、それぞれの前に丁寧に置いてくれるのを見届けてから、私はありがとうございますと言う。娘は愛想良く笑ってまた店の奥へと戻っていく。
「しかし君も気が早いな。もう秋の準備とは」
鶯丸は早速自分の分の湯飲みを手に取り、口をつける。私は湯呑みにふれることもなく、そこから湯気の立つのをただじっと眺めた。あついのは苦手だ。
「まだまだ夏も半ばだぞ」
「季節はすぐに過ぎてしまいますから」
どこかで口にしたような台詞を私は繰り返す。はて、誰に言ったんだったか、と思う。
鶯丸は特に気に留めた様子もなく、ちいさく肩を揺らすことで私に反応を返した。
「さて、君、いくつ買った」
「十一着です」
「なんだ。もう終わりじゃないか」
「いえ、まだ。あと一振り残っています」
「誰の分だ」
「一期一振の」
その名前を呼ぶのが久々で、私は、ああ最近彼に会っていないのだなと、今更思い出すように気が付いた。店の外からこぼれいるにぎにぎしさ。時折店の戸が開いて、先程の娘がいらっしゃいませと朗らかに叫ぶのが聞こえる。
鶯丸はそっと目を細めて、そうか、と言った。
それだけだった。
本丸へと戻る道すがら、私は、道端の空き地に花が咲いているのを見つけて足を止めた。ふいの動作に、後ろをついていた鶯丸も一拍遅れて立ち止まる。
「ひまわり畑だったんです」
黄色い大輪に目を向けたまま、鶯丸の顔を見ないで言った。彼に向けたのか、それともひとりごとだったのか、本当は私にもわからなかった。
「最後に燃えたのは。……ねえ、鶯丸。あなたはあの夜、不寝番でしたよね」
「ああ、そうだな」
それは一期一振がひとであった最後の日である。
私の刀たちの多くは、もの言わぬ刀へと戻った一期一振を、刀解するように私にすすめた。
「あなた、本当に、あの夜になにも見なかったの」
凛と咲きほこる花を見つめて、私はふいに、それがもはや枯れ始めていることに気が付いた。橙色をしたこまかな花びらは侵食されるように少しずつしわがれ、種を宿したおもてはうつむき、もう太陽を仰がない。
頭をもたげたその花のありさまが、ふと、何かに似ているような気がした。
「なにも」
と、鶯丸が言う。
4
屋敷に戻った頃にはすでに陽が沈んでいた。自室で一休みすればもう夕食の時間になっていて、私は食事を終えてから、新しい軽装を直接それぞれに渡すために屋敷中をめぐり歩いた。各自の部屋の前にでも置いておけばいいのかもしれないけれど、なんとなく、疲弊した足で歩き回ってでも彼らの顔を見たい気持ちがまさっていた。
最後の一振りへ渡し終えたところで、私は廊下の壁にもたれてふうと息を吐いた。何せ本丸は広く、目当ての十一振りを探し出すのは思ったよりもずっと労力が要った。そこへ白衣姿の薬研藤四郎がやってきて、すっかり疲れ切った様子の私を見ては肩をすくめた。
「おいおい、大将、一体どうした」
「がんばったら疲れてしまいました」
「がんばった?」
「今日万屋街で、新しい刀たちの軽装を買ってきたんです。それを配ってまわっていたら、もうこんな時間で」
なるほど、と薬研は笑う。白衣のポケットに両手を突っ込んで、だけどそれがちっとも不遜に見えないのがうらやましいと思う。
「あんたにしちゃあずいぶんと活動的な一日だったわけだ」
「なんですか、鶯丸といいあなたといい、人のことをとんでもない出不精みたいに」
「そのきらいはあると思うがね」
薬研はあっさりと笑った。私は唇を尖らせ、しかし反論しようにも根拠がない。これ以上何か言っても、自分がまるで駄々っ子のようにあやされる未来しか見えない。私は肩をすくめ、彼の横を通り過ぎていそいそと自室への道を進んだ。
しかし、それから数歩歩んだところで、ふと思い出して立ち止まる。振り向けばまだ薬研はそこに立っていて、突如振り返った私を少し驚いたまなざしで見ているのだった。
「薬研」
「なんだい」
「ひまわりの種、余ってましたよね」
薬研は一瞬だけ目を細めた。しかしすぐに、元の落ち着いた笑みに戻って、「ああ。あるよ」と言う。
「必要なら取ってこようか」
「いえ。あるなら、それでいいんです」
「なんだ。おかしなこと言うなぁ」
「そうかもしれないですね。何せ出不精のくせに頑張りすぎて、疲れてしまったから」
「はは、拗ねるなって。ゆっくり休めよ。最近は涼しいが、またいつ暑くなるかわからねぇ」
「うん。ありがとう、薬研。それじゃあ、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
5
潮の満ちるように、ゆっくりと意識が戻る。あたりを見回せば真っ暗で、だけどどうやら眠りについた自室の様子ではなく、私はここが夢なのだろうと思う。
灯りひとつない空間は、はじめは本当になにも浮かばぬ暗闇であったが、ゆっくりと時間をかけて目が順応していくにしたがい、その端々の輪郭が見えていった。畳の上。襖。金箔の散った。
城の中だ。それはどこか私の屋敷と似ているようで、しかしやはり、何もかもが決定的に違っている。
どこだろうか。ここは……
そのとき、私の後方からちりちりと、何かちいさなものが爆ぜる音を聞いた。はっと振り向いて、すっかり暗かった部屋の中に、まばゆいほど赤いひかりを見つける。
「火が、……」
声は自然とこぼれ落ちた。私は私の目を焼く赤から目が離せず、呆然とその場に立ち尽くしていた。部屋の隅にぽつりと浮かんでいた火の玉が、みるみるうちに巨大な炎となって燃え上がり、私を取り囲むように部屋を埋め尽くす。私は、それを、ただ黙って見つめている。
その色に、叩きつけられるように、私は、彼のことをおもった。
炎の中へむかって、何かに縋るように。
「そこにいるの?」
部屋の空気が熱されていく。私は少しずつ、目玉や唇、肌や、からだの中にあるすべての臓腑が、ひりついていくのを感じる。だけど、動くことができなかった。火の粉の弾ける。それだけが聞こえる。燃える誰かの城の夢、私は静かに耳を澄ませ続ける。
やがて、燃えさかるほのおの中に、ひとつの影が立った。まぶしい火の色の中から、あまりにもみずみずしい色彩をまとった男が、まるで何事でもないようにやってきて、私の前へと進み出る。
それは笑んでいた。
「一期一振」
水分を失い、錆びていく喉からなんとか紡いだ。鼻の奥がつんと痛んで、私は、彼の名前を呼べることが心底うれしいのだと思う。
緊張が解けたみたいに、ずるずるとその場にへたり込んでしまった私を見て、一期一振はわずかに眉根を寄せた。それから私の前に片膝をついて、目線を合わせてくれる。そうだ。彼はいつだって、そういう刀だった。
「主」と、一期一振が呼ぶ。尊い何かにふれるように。
「申し訳ありません」
「なに、が……?」
「あなたを巻き込んでしまった」
彼の手がそっと伸ばされて、私の髪をゆるく撫でる。彼の手のひらは手袋越しでも驚くほどにあたたかくて、私は、今自分たちが火に囲まれていることさえ忘れそうになった。
「一期一振、」
どうしていいのかわからなくて、ただ、彼の名前を繰り返す。一期一振は、なんども、なんども、飽きることなく私の髪を撫で、やがて口を開いた。
「主。私は最近、夢を見るのです」
男の瞳には炎のゆらめきが宿っている。
「燃えていく。崩れていく。何もかもが。私の身体が、ただれ、溶け落ち、壊れていく。――そんな夢ばかりを見る」
どこかで何かが崩れ落ちる音がして、私はふいに、あつい、と思った。
さらけ出された素肌が飛び交う火の粒とぶつかって、小針で刺されるような些細な痛みが、少しずつ、少しずつ数を増して迫ってくる。熱された空気は喉を焼き、私は声を失った錯覚におちいる。
「主。私はやっと気が付きました。あれらはひとりでに燃えたのではない。燃やしたのは私です。私がほのおだったのです」
「違う。あなたは、私の刀だ」
私ははねつけるように言う。一期一振は一瞬だけ手を止めて、困ったように笑った。だけど、うなずいてはくれない。それが私にはあまりにもくるしい。
灰や煙や、火の粉のかけらといったものが、うすい酸素を取りこもうとするたびに息に乗って肺の中へと入りこんでくる。何か告げようとするたびに、邪魔をするようにげほげほとしわがれた咳がのぼってくる。一期一振の手はいつのまにか背中へまわり、咳きこむ私をいたわるように、丸まった背筋をやわらかくさすった。
「怖い思いをさせてしまいましたね。大丈夫。目がさめれば、何もかもが元通りですから」
「あなたは、」
私の声はもうまともな音になっていないのだろうと思う。
「あなたは……?」
一期一振は遠いまなざしで、私ではない何かを見ている。
「主。お願いがあります」
「やめて」
「ああ、申し訳もたちませんな。こんな、まったくみっともない……しかし、主、これがさいごの望みなのです。私を――」
「やめなさい!」
喉が斬りつけられるように激しく痛んだ。聞くに堪えない、無惨にひび割れた、あまりにも醜い絶叫。しかし彼は優しい笑みを崩さない。
喉の奥で何かが裏返るようにひゅうと鳴って、途端に私は意識が遠のいていくのを感じた。呼吸がくるしい。まぶたが重たい。狭まり、ぼやけていく視界の中で、一期一振がやわらかく私を抱きしめたのを、私は肌に触れるあつさで知った。そうして耳元で、誰かのささやく声がする。
主、と。
「どうか忘れないでください。私は、いつだってあなたを見ています」
ああ、と私は思う。闇に飲まれていく意識の中で、最後。手繰り寄せるように。
「あなたは私の――」
×
「花が咲いた後は、」
彼の目が驚くほどまっすぐなので、私は虚をつかれた気持ちになる。なにがそんなに気になるのだろうと思う。
「動かないです。東を向いたまま、もうそれから動かなくなる」
男はほほえみ、そうですかと言った。私よりもずっと背の高い、大人の男のからだ。それなのにどういうわけか、たたずむ彼の姿はずいぶんとちいさく見えた。
やがて彼が、だらりと下がっていた私の手首をゆるく掴んで、それからゆっくりと、私の身体を抱きしめた。私はされるがままに、彼の頭が私の首筋にうずむのをじっと見ていた。
「一期一振?」
私は呼ぶ。彼は答えない。彼がどんな表情をしているのかが見えなくて、だけど、私はそれが無性に知りたいと思った。彼の脇の下に手を差し入れ、おそるおそる抱きしめ返しては彼の背を叩いてみるのだけれど、彼はやっぱり顔を上げない。彼のからだは炎のようにあつく、私にはそれが、ただそれだけが不思議だった。