少し、うたた寝をしていた。
「主さん!」
声がした矢先、まどろみの中にあった意識が浮上し切るよりも先に、投げ出した足先を何かが掠めていった。まだぼんやりとした脳みそで認識した視界には、薄暗い部屋の中、まっすぐ畳の上に伸ばされた私の足。それから奥の壁にぶつかり止まったサッカーボール。
壁にもたれて座ったまま、首だけを声のした方に向ければ、半分ほど開けっ放しにされた障子の向こうから、ひょっこりと顔を覗かせる乱の姿があった。
「乱さん」
「ごめんね、主さん寝てたんだね。邪魔しちゃった……」
しゅんと項垂れる彼にだいじょうぶと告げてから、私は立ち上がって、部屋の奥で止まってしまったボールを拾いに行った。粟田口の短刀たちにねだられ、万屋でそれを購入したのはつい最近の話だったが、すでにボールの表面の白いところはだいぶ薄茶色に汚れていた。拾い上げたとき、その表面から目に見えないほどの砂粒が落ちていったことには知らぬふりをして、私は律儀にも障子の前で待っている乱のところへそれを持っていってやる。
「どうぞ」
「ありがとう、主さん!」
ちいさな両手で受け取った乱は元気よくそう言って、庭の方へと小走りに駆けていった。飛び跳ねるようにして数歩。しかしまた立ち止まって、くるりと振り返る。
「ねえ、主さんも、さっかー、やろうよ!」
私は思わず息をこぼすように笑った。
「私は大丈夫です。みんなで楽しんで」
「そっかぁ、残念。じゃあ、また今度やろうね!」
私の返答は予想の範疇だったのだろう。大して凹む様子も見せずにそう言った乱は、また軽快に庭へと戻っていった。
起きたついでにと見回せば、庭には乱の他にも数振りかの短刀と脇差の姿があった。秋田藤四郎、厚藤四郎、鯰尾藤四郎。粟田口のものたちは内番がないとよくこうして庭で球遊びをしている。一期一振や鶴丸国永や、もう少し身体のおおきなものらも手伝って先日自作されたサッカーゴールは、近くで見たときは支柱がまっすぐ立っていなかったり、網の所々破けていたりとほほえましい出来に思えたけれど、こうして遠くから見る分にはずいぶん立派なものだった。
しばらくそうして外を見ていた。私を隠さんと薄い影を落とす離れの中からは、白飛びするほどまばゆい庭はまるで別世界のように見える。庭砂の白。低木や植木の緑。ちらつく太陽の残像はひかりである。たった障子一枚が、切り取り線のようにそれを隔てている。
やがて、私に気づいた鯰尾が、大きく手を振っては主と呼んだ。それまであちらこちらへと、ボールに誘われるがままに走っていた身体がぴたりと止まって、先を急いだ紫紺の髪が羽衣のようにふわりと揺らいだ。私はその場で小さく手を振って答えて、ついでにちょんちょんと、彼の守る側のゴールを指し示した。はっとした鯰尾が、自陣のゴールがすぐそこまで攻め入られていることに気がついてはすぐさま慌てふためいて駆け出す。
それから数秒もたたないうちに、私の指さしたゴールは豪快に網を揺らした。シュートを決めた厚が拳を突き上げ、それに対して鯰尾が悔しげな声を上げるのを聞き届けてから、私は音の鳴らないよう、こっそりと障子を閉めた。
日の沈む少し前を見計らって厨房へ行くと、ちょうど食事当番を頼んでいる燭台切が鍋に向かっているところだった。主、と、私の存在に気がついたことを示すように呟いて、それから肩をすくめた彼に、私はぺこりと頭を下げる。
「ご苦労様です、燭台切さん。食事をいただきに来ました」
「主にわざわざ来てもらわなくても、僕らが運びに行くって言ってるのに」
「でも、あの離れは、わざわざ来ていただくには遠いので」
「そっくりそのまま返すけど」燭台切は苦笑する。
燭台切のかき混ぜる鍋からは海鮮の匂いがのぼっていた。何を作っているのかと問えば、アクアパッツァだという。
「もう数分でできるから、ちょっとだけ待っててもらえるかな?」
「わかりました。何か手伝いますか?」
私がただじっと彼らの給仕を待つことが苦手だと知っているのだろう。燭台切は少しだけ困ったようにほほえみながら、「じゃあ、お皿を出してくれる?」と言った。私はうなずき、食器棚から深皿を取り出す。自分用の小さな皿と、それから刀剣男士らが取り分けられるような大皿をふたつ。食堂で一緒に集まって食べる彼らとは違って、私はいつもこうやって自分の分だけ分けてもらい、離れにある自室で食べることにしている。
邪魔にならないよう燭台切の手元に皿を並べたところで、ふと思い出したように燭台切が、「そういえば」とつぶやいた。
「明日演練だったよね。第一部隊だっけ?」
「はい。何かありましたか?」
私はおそるおそるたずねた。燭台切はいま第三部隊だ。
「ううん。ただ久々だったから、誰が行くのかなと思ったんだ。相手方は知り合い?」
「はい。先輩で……」
明日演練を予定している相手方は、私がまだ新人審神者だった頃に面倒を見てくれた熟練の審神者である。事前に聞いた限りでは、最近顕現したての刀のいくつかを経験のためにも一度演練に出したいということだった。
私の返答を聞いた燭台切はにっこりと笑って、それなら安心だね、と言った。私は首を傾げる。
「安心、ですか?」
「うん。演練で審神者同士がトラブルになる事例も結構あるみたいだから」
湯気の立つ鍋から私の用意した皿へゆっくりスープを移しながら、燭台切はなんてことない世間話のように続けた。審神者同士のトラブル。あまりぴんとは来なかったが、基本一人孤立する身分であるからこそ、同じ立場の相手と出会うと揉め事が起こることもあるのかもしれない。
よそい終えた燭台切がお玉を置いて、小さい皿の方を私に差し出す。六分目ほどまでしか注がれていないのは、私が少食で今までに散々食事を残してしまってきたからだろう。その気遣いを知ったのは、私が出された食事を残さず食べきれるようになったと気づいた少し後のことだった。
「まあ、第一部隊の隊長は三日月さんだし、心配いらないとは思うけど。何かあったら、ちゃんと守ってもらってね」
私は受け取った皿の中で、きらきらと光る透明なスープを眺める。身をふかされた魚が一匹、ある程度の骨格を残して器用によそられ、その中心から真っ黒い目がひとつ、こちらを覗き込んでいた。
×
夢を見た。
私は縁側に座って、庭に駆け回る刀たちを見ている。離れから眺めるような遠さではない、手を伸ばせば触れられるほどの距離だ。時折私のもとへやってきた子らは、なにかと声をあげては私に頭を撫でるようにねだった。私はおそるおそる手のひらを伸ばして、彼らのふわふわとした頭を、はじめて子犬にふれる赤子のような気持ちで撫でた。彼らはうれしそうに目を細めて、
「ありがとう、主!」
と笑う。
刀たちはとめどなく私のもとへやってくる。菓子や茶、書物、様々なものをたずさえて、ときには穏やかに、ときには溌剌と、ときには苦笑とともに。
「主、今日のおやつは生八つ橋だよ。前好きって言ってただろう」
「主、もう書類の確認を済まされたのですか? 仕事が早いのは大変結構ですが、あまりご無理のないようにしてくださいね」
「見てくれよ主! 今朝採れた大根なんだが、驚きの形だろ!」
「主も茶を飲むか。今日は新しい茶葉があるぞ。どれ、俺が淹れよう」
本丸は今日もにぎにぎしくて。
「主」
「主」
「主」
みなが、私を、したってくれる。
×
演練の会場には先方が先着していた。見覚えのある先輩を囲み、すでに戦装束に着替えた刀剣男士たちが何やら気楽な様子で談笑している。最近顕現したての刀をと言っていた割には、あまり練度の低そうな刀は見当たらなかった。先輩は優秀な審神者だから、すでにうまく鍛錬を積ませているのかもしれない。ただ編成を組むだけと思われがちな審神者業にもやはり巧拙はあって、最小限の負担で最大の経験を積ませるということについて、彼女はつまり抜群に秀でていた。
演練場へやってきた私らを見つけると、彼女はそれまで話していた刀に一言二言何か告げてから、私のところへと小走りに駆け寄ってきた。「ひさしぶり」とほほえむ彼女に頭を下げて、私は「ご無沙汰しています」と返す。
「今日は演練にお付き合いいただいてありがとう。そちらが?」
「はい。これが編成ですが、」
私はええとと呟きながら、着物の袂に忍ばせていた半紙を取り出す。小さく折り畳んだまま先輩へ手渡せば、彼女はありがとうと言って、白魚のような手でそれを受け取った。(こういうとき、後輩相手でも謝辞をけして忘れないのは彼女の美徳に違いなかった。)
その場で編成表を開いた先輩は、数秒黙って半紙の上に並べられた刀たちの名前を確認し、それから私へと再び顔を上げた。
「変わった編成ね」
「そう、ですか?」
「ええ。太刀が四振り、それから大太刀と薙刀……ずいぶん偏っている気がするけれど。この編成で最近は出陣を?」
「屋内戦か、夜戦でなければ」
「そう」
と先輩は頷く。自分から問いかけてきたにもかかわらず、すでにそこに興味関心を失ってしまったような淡白な声音だった。代わりに、口元を袂で隠すようにして、
「ところで、そちらの隊長さんはいいの」
私は何事かと振り向いた。そして、私のすぐ後ろにいたはずの第一部隊隊長が、敷地の入り口あたりに咲いた楠木の下にたたずんでいるのを見つけてあっと言った。彼はどうやら風流を楽しむ目つきで枝葉を見上げている。先輩が口元を隠したのは笑いを隠すためだったのだと、のろまな私はそこでようやく気が付き、ほんの少しだけ恥ずかしくなった。
「三日月さん」
気持ち声を張り上げて呼べば、彼は存外あっさりとこちらを見た。しかし足はその場にとどまったまま、こちらへと戻ってくるそぶりを見せない。私は他の刀剣男士たちに先に演練場の中へ入っているように告げて、それから三日月の元へと駆け寄った。
「どうかしましたか」
「なに、すばらしい楠木だと思ってな。俺も長いこと生きているが、ここまで立派に育った樹は初めて見たぞ」
「はあ……」
「眺めているだけでも快いなぁ。おぬしもそう思わぬか」
「立派な樹だとは、思いますが。……えっと、三日月さん、他の皆さんはもう先に中に入ってもらったので」
三日月はそこで、む、と唇を結びながら一音つぶやいた。たった一文字だけでも、彼のゆったりと喋る癖がその中に聞いて取れるのだから不思議なものである。
「ははは、これはすまぬ。では、俺も準備をするとするか」
「よろしくお願いします」
穏やかにうなずき、のんびりと演練場の中へ向かっていった背中を私はその場でしばらく見送って、その背が完全に室内へと消えてから入り口へ歩いて戻った。先輩はまだそこに立っていて、一人遅れて行った三日月の背を見つめていた。
「すみません。失礼しました」
「ふふ、大丈夫。三日月宗近ってとってもマイペースよね」
「先輩のところにもいらっしゃいますか」
「ええ。今日は連れてきてないけど、でも、連れてくればよかったかも。同位体同士が出会ったらどういう会話をするのかしら、彼らって」
くすくすと笑う先輩はすこしだけいじわるな類の空気をまとっていた。容姿も端麗、頭脳は明晰、その上審神者としても優秀な彼女が、時折こうして見せる底の暗さというものが私は正直苦手であった。
黙っている私にひらりと手を振って、先輩も演練場へと戻ろうとする。ふうと一息つこうとしたそのとき、彼女が「そういえば」と、踏み出した一歩目を中心に踊るように私を振り返ったので、私はもう一度背筋をたださねばならなかった。
「こちらの編成は事前に送ったものから変更ないけれど、大丈夫そうかしら」
「はい、問題ないです。よろしくお願いします」
「こちらこそ。……ああ、そうだ、それから」
「何でしょうか」
「あなた、とっても字が上手なのね」
演練中、審神者はその場に同席してもしなくてもいいことになっている。私は基本的に部屋の隅で刀たちの戦いを見守ることが多いけれど、先輩はよく審神者同士の情報交換のために抜け出すようで、今日も今日とて、場所を変えお茶でも飲みながら話をしようと、気兼ねない友人を誘うようなていで私を誘った。私は自陣の刀剣男士たちに断りを入れてからその誘いを受け入れ、演練場からすぐ近くにある休憩室で茶を沸かし、先輩と向かい合った。
最初はほんとうに瑣末なことから言葉を交わした。最近の出撃命令や、互いが知らない戦場の情報。時の政府から下されるここ最近の任務内容の変遷や、それに対する取り留めない愚痴なども含めて。基本的にこういう場でもなければ関わる機会のない審神者同士、まして初対面でもなく、積もる話は山ほどあった。
やがて会話もひとおりついたころ、すっかりぬるまった茶をまだちびちびと飲みながら、彼女がつぶやいた。「それにしてもあなた」。
「ずいぶんとあの三日月宗近に気に入られているのね」
私はたっぷり三秒固まって、さらに二秒ほどまばたきをしきりに繰り返して、それからやっと「はい?」と言った。途端に人形のようにぎこちなくなった私を、先輩は面白おかしく目を細めて眺めている。
「あら。まさか、気が付いてなかった?」
「気が付いて……というか、そもそもそんなことは……」
「ほんとう? 私の見間違いだったのかしら。確かにあなたを見る目が、普通とは違うような気がしたのだけれど」
普通、と私は繰り返す。先輩はまたすぐ興味をなくしたかのように目を伏せ、黙って茶を啜っていた。
私の本丸に三日月宗近が顕現したのは数ヶ月前の話である。鍛刀のおり、彼が顕現すると同時に私はどうやら気絶したそうだ。目を覚ましたのは三日後である。当時近侍を務めてくれていた薬研藤四郎のいうところによると、三日月宗近の神格があまりに高く、顕現させるためとはいえいささか霊力を使い過ぎたのだろうということであった。
私の目が覚めた後、気を利かせた薬研が挨拶のためにと三日月を私の部屋へ呼んでくれた。そうして私は初めて、かの三日月宗近が顕現した姿というものを目の当たりにしたのだ。
そのときの私が、審神者としてすくなくとも最低限のことをわかった気になっていた私が何を思ったかということを、私は今日まで一日たりとも忘れられたことがない。
「先輩は、」
「うん?」
私は思い立って口をひらく。
「先輩は、刀剣男士のことをどう思っているんですか」
先輩の端正な顔におどろきが浮かぶ。踏み込みすぎただろうか、と、いやな後悔が一瞬頭をよぎったけれど、すぐに首を傾げて視線を明後日の方向へ流した彼女は、どうやら単純に予想外の質問に虚をつかれただけのようだ。
「どの刀も良い子たちだと思っているけれど」
やがて寄越された返答は、ずいぶんと簡素なものだった。私は珍しくも勢いづいて続ける。
「彼らを、こわいと思ったことはないですか?」
先輩はまた目を丸くして、それからそっと唇を歪めた。
「もしかしてあなた、彼らがいつか自分に反旗を翻すとでも思っているの?」
私は黙っている。先輩の言葉はけして的外れではない。しかし的の中央を射たわけでもない。おそらく。
先輩は美しく溜息を吐き、それから空になった湯飲みをそっと横へ押し除けた。
「私たちの力で彼らは人の体を得ているのよ」
あたかも講義のように彼女は言う。
「私たちがいなくなれば、彼らも物言わぬ刀へと戻ってしまう」
「はい」
「彼らを部下だとか、自分の道具だとか、そういうふうに下に見たことはないけれど。でも、彼らを顕現させているのが私たち審神者であることは事実でしょう。間違ったって、彼ら刀剣男士が審神者を傷つけるなんてないわよ。審神者の命や霊力は、つまり彼らの命のみなもとなんだから」
彼女の言葉はしっとりと重く、しかし奇妙な引力をもっていた。私が審神者に就任したときから、あまりにも疑いなくその立場を冠し、優秀な戦績を収め続けている先輩は、いつだってこうして世の中の真理を説く教祖のように、私に審神者のなんたるかを教えようとする。
私は口のなかに溜まった唾をこっそりと嚥下した。妙に不快なねばつきがそこにはあった。
「もう一つ、お聞きしてもいいですか」
「なんでもどうぞ」
「私たちは人間ですよね」
「勿論」
「それも、こわいと思ったことはないですか?」
彼女はもう驚く様子もなく、ただ退屈したこどものように編んだ黒髪の毛先を指先でいじっては、「あなたって不思議だわ」とおかしそうに笑った。
×
初めてこの本丸に来たとき、主の部屋は二階の大きな部屋にしたらどうかとこんのすけに言われたけれど、私はそれを断って、母屋の一室ではなく離れをひとつもらえないかと頼んだ。こんのすけは怪訝な顔をしながらも、本丸の責任者はあなたなので自由にすればいいと言って、私はそのとき、自分が女であることを心からありがたいと思った。
離れの夜は隙間風が吹きこみ、布団をしっかりとかけておかなければ凍えてしまうほど肌寒い。私は使い込んだ毛布の中でくるりと寝返りを打って、虫のように背を丸めた。時折ごうごうと唸る夜風が、離れの壁を低く打ち鳴らしていた。
普段から寝付きの悪い方だが、今日ばかりはどういうわけか、ほんとうに一向に眠気がやってこない。演練に出て、部屋に篭りきりの毎日よりは多少なりとも肉体的疲労があるはずなのに、妙に冴えてしまった脳はいつまでもまわってやまない。私はひとつ溜息をつき、それからのろのろと、自分の体温によってようやくぬるまってきていた蛹から這い出した。
寝巻きのまま離れを出ると、すぐさまどこか遠くから、鈴虫の鳴いているのが聞こえてきた。こんな夜更けにまで。私はそっと嘆息する。そうして母屋へと歩いていく。
審神者になってから、今の今まで、ずっと疑問に思っていたことがある。私はほんとうに審神者になるべきだったのだろうか。
たとえば、今日も演練で顔を合わせた先輩。彼女は審神者になるべくしてなった人間だろう。私の知る限り、審神者に必要とされる力を全て不足なく備えているひとだ。彼女自身もこの仕事をしっかり楽しんでいるようで、以前顔を合わせたときも、自分にとってこれは天職だったと笑っていたことを覚えている。
だけど、彼女は、自分にとって審神者が天職である理由を理解していない。審神者であるために必要とされる力。彼女が持っていて、私が持っていないもの。きっとそれこそが、審神者であり続けるために最も必要なものなのに。
雲の切れ目からは月のひかりが淡くこぼれて、夜中であるにもかかわらず、外は存外明るかった。やがて少し歩いた先、母屋の縁側に、まるで昼下がりと変わらぬ様子で座っている男がいた。
「やあ」
視線を阻むものなどない。私が彼に気付いたなら、当然彼もすぐに私に気が付いて、いつも通りのおだやかさでほほえんだ。
「俺の言うことではないが。いささか夜更かしが過ぎるのではないか?」
そう言って肩を揺らす、三日月宗近である。
少し寝付けなくて、と説明しながら、私の目だけは彼の戦装束の派手やかさに奪われていた。紺地にあちこち金色の飾りが入った装束は、月夜を形にしたようなしつらえをしている。どうして戦装束のままなのか、聞く言葉はあがってこなかった。
どうしようか、迷いの生まれたその瞬間、私の心中を見抜いたように、三日月が私を手招く。私は結局小鳥の雛のようにおそるおそる彼に近寄り、その隣へ、半身ほど距離を開けて腰を下ろした。
「そんな格好では寒かろう。また近侍殿が怒るぞ」
「軽い散歩のつもりだったんです。すぐ戻りますから」
吐き出す息が白く染まるのを隠しながら私は答える。晩夏のころ、鈴虫の鳴く暗闇にあって、夜になれば空気はいささか冷たく変わる。
三日月はそうかとだけ言って空を見上げた。私はちらりと彼の横顔を覗き見る。水に浮かぶ金色の弧状。空を鏡うつしにした瞳。彼の顔はいつだって、この世のものとは思えぬほどにうつくしい。
「今日の演練はどうでした」
私は問いかける。三日月は視線を逸らさぬままうんと頷く。
「悪くなかったぞ。俺もなかなか楽しめた」
「そうですか」
「相手方の審神者はずいぶんおぬしと違った性格のようだったなぁ」
「彼女は、ああいう人なので。私とは違います」
私は膝の上で拳を握りしめた。どうも喉が渇いた。会話の合間にあらわれる沈黙を埋めるために、何かを手慰みにもてあそぶこともできない。吹き付ける夜風に身体は冷えて、私はここに座ってしまったことを後悔し始めていた。
「しかし、親睦の深い間柄なのだろう」
「……そう、ですね」
「なんだ、微妙な返事だな。俺たちが戦っている間も二人で話していたのではないか?」
「話は、しましたけど」
ふむ、と三日月。私は続ける。
「でもそんな、大層なことは話していません。最近の政府からの指令についてとか、お互い行ったことのある戦場の情報を交換したりとか……」
私はそこで言葉を止めた。二人で向かい合ったあのわずかな時間、忘れてはならない基礎を復習させるかのように説いてみせた声が、耳の奥にじりじりとよみがえる。
私は顔を俯けて、少しの間押し黙った。隣で三日月が私の横顔を見ているのがわかる。
「……三日月さんは……」
――あなたって不思議だわ。
本当は彼女が、私を理解できないと思っていることだって知っている。
だからこそあの人は、自分がどうしてああも完璧な審神者たりえているのか、一番大事なところに気が付けないのだ。いつまでも。
「三日月さんは、私たちのこと、傲慢だと思いませんか」
拳をつくった手のひらの内側は、いつの間にかしっとりと濡れていた。鼓動を急がせる、よくない類の汗だった。三日月の視線はいつまでも私の横顔をねめつけ、私はそれを直視するのがおそろしくて顔を上げられずにいる。
やがて、そっと笑いを忍ばせた夜が。
「何をいまさら」
私は時折ひどくおそろしい。彼らは神だ。いくら職務とはいえ、審神者の力があるとはいえ、自分ごときが従えていい存在だろうか。
神にひとのまねごとをさせ、自分らの都合のために戦わせる。自分ひとりでは己の身すら守れないのに。そんな矛盾に見て見ぬふりをして、だけどそれを忘れるような愚か者にだけは成り下がらぬよう、いつだって取ってつけたように、彼らを呼び捨てることだけはないようにしていた。
審神者と刀剣男士。人間と付喪神。主人と従者。なんとあやうい関係だろう。私たちは。
日々笑いながら私を主と呼ぶ彼らが、その腹の底で、ほんとうに泥沼のような感情をつゆほども抱えていないのか、私にはどうしても信じることができない。
「そんなにもおそろしかったか、」
三日月がわらう。
「俺がおぬしを主と呼ばないことが」
私ははっと顔を上げた。彼の名前を呼ぼうとして、だけど、三日月と目が合った瞬間、急に酸素が失われてしまったみたいに、私の喉はそれきり動かなくなってしまった。
三日月宗近のひとみが、それ自体が発光する宝石のようにあわくかがやいて、私を見下ろす。それは、私がひとの形に無理やり押しこんだ、神のたましいのひとかけらだった。
「おぬしは主と呼ばれるのが嫌いなのだろう」
「そ、んな、こと」
硬直した喉から引き摺り出すように、つぶやいた。音になったのかは定かでない。三日月は変わらずほほえんでいる。
「主と呼ばれるもおそろしい。呼ばれぬもおそろしい。難儀なものだな、ひとというのは」
三日月の声はどこまでもなごやかだ。演練場の庭に咲いた楠木を立派な樹だと笑っていた、数時間前の彼とさえ何ひとつ変わらない。それなのに私は、背筋をそっと撫でていく冷たいなにかに身をすくめている。何より私の心臓を掴むのは、目の前の神に対しての、おそれであった。
「おぬしのそういうところはこれでも評価しておるのだが、気の毒だとも思っているぞ。おぬしのような人間にとって、審神者であり続けるというのは酷なことだろう」
できることなら、今すぐこの場から逃げ出したかった。逃げて、あの小さな離れの中で、ぼろぼろの布団をかぶり、きつく目を閉じてしまいたかった。しかし手足はほんの少しも動かない。私のからだは指先まで凍りつき、もう身じろぎひとつ叶わない。
「だが、いまさら後戻りはできんよ」
やがて三日月の、陶器のように冷たくすべらかな手のひらが、私の頬を撫でて。呆然と彼を見つめたまま、動けないでいる私の、耳元へ、わらうようにささやく。
「かわいそうに、主」
――間違ったって、彼ら刀剣男士が審神者を傷つけるなんてないわよ。審神者の命や霊力は、つまり彼らの命のみなもとなんだから。
嘘だ。
それは奢りだ。私たちの命だなんて、彼らにとってはほんとうに、取るに足りないものでしかない。
千年を生きる神々が、たかだかこんな小娘一人の霊力によって、数ある同位体のひとつとして顕現した。それにどれほどの意味があるというのか。
たとえば私一人が、この本丸の同位体ひとつと心中したとして、彼らにとってそれがどれほどの意味を持つというのか。
「そうおそろしい顔をするな。ほれ」
そう言って、あっけらかんと笑う。いつの間にか隙間なく寄せられた身体が、するりと私を抱きしめた。背に回った彼の手のひらにはたしかな温度がある。私たちが彼らに与えたそれは、ひとの傲慢さの証明であり、罪だった。
「まったく、おぬしは本当に、かわいらしいなぁ」
私をやわらかく抱く腕が、からだが、私はただただおそろしかった。はやく夜が明けないのならば、いっそこのまま、月の光に焼き殺されてしまいたかった。自然と震える身体はどうあがいても恐怖が引かず、私は彼の腕の中でちいさくなって、ちっぽけな呼吸を必死に必死に繰り返す。三日月は時折しずかに笑いながら、なぐさめるように、私の背をいつまでもさすっていた。