いやな静けさがずっと漂っている。
縁側で一人頬杖をついて、鶴丸国永は、もうどこからも聞こえてこない刀たちの声をどこか遠くに思い出していた。以前ならば庭を駆け回っていた短刀たちも、ここ数日はそれぞれの部屋にこもって何やらすっかり大人しくしているらしかった。顔を合わせるのは食事のときくらいで、その折さえも彼らはどこか口を開くことをためらっている様子がある。
鶴丸はその理由を知っていたし、彼自身守らねばならない道理というものは弁えているつもりだったので、いつもお得意の好奇心と行動力でもって彼らを驚かしにかかることも最近は控えていた。何より、彼自身がそんな気になれなかったから、控えているというよりは単純にすることができなかったと言った方が正しいかもしれないけれど。
しかし、声のしない本丸というのは案外広く、案外つまらないものだ。
「鶴丸」
ものぐさに首だけを動かして、鶴丸は振り返る。縁側にはいつの間にか、彼を見下ろすようにして加州が立っていた。足音さえ聞こえなかったが、彼がわざと押し殺して歩いたのか、それとも自分があまりに間抜けていたのか、どちらだろうか。
「どうした、加州」
久しぶりに喋る気がするな、と思う。朝食の際に広間で顔を合わせれば挨拶くらいはするけれど、ここ数日はそれ以上の他愛ない会話すらなかったのだ。加州だけではなく、どの刀剣に対してもそうだった。
自分から声をかけてきたくせに、加州はずいぶんと言い淀んでいた。明後日の方向を見遣り、合間を埋めるように後頭部をかいてから、やっと鶴丸へと視線を戻す。そうして紡がれた言葉はやはり、以前よりもずっと硬かった。
「悪いんだけど、主の様子見てきてくれない?」
「……俺がか?」
鶴丸は驚いて、加州の顔をまじまじと見つめた。しかし彼の表情は変わらずの仏頂面で、ただ薄い唇が淡々と、「お前が」と答えるだけだった。それきり、何も言わない。
鶴丸は主が大好きなので、こうした正当な理由をもって主に会いに行けるならばそれは大変嬉しいことではあるのだけれど、とはいえやはり、加州清光がその依頼を持ってきたというのはいささか奇怪なことではあった。今の本丸の状況を鑑みても、主に必要とされ、かわいがってもらうことを何より幸福に思う彼が、主と接する機会をみすみす他の刀に寄越すというのは。
だけど、それを問い詰めるのはなんとなく気が進まなくて、鶴丸は少々黙って見つめあったあとで、結局「わかった」と頷いた。沈黙の間まるで素知らぬふりをしていた加州が、鶴丸の了承には即座に頷き返す。
「加州は今近侍だったよな。昨日一昨日は、主と話したか?」
「うん、話したよ」
「様子、どうだった」
「……まあ、……」
そして加州清光はまた黙り込んだ。
鶴丸国永はまるで軽薄で、おちゃらけているかのように平素から振る舞っているけれど、馬鹿ではない。だから今相対する加州の様子が明らかに異様であると察していたし、その原因が彼ではなく主にあることだって、当然のごとく理解していた。今の本丸の状況を考えれば、その理由もわかる。
「わかったよ」
もう一度告げた。加州の目はもう俯いて、鶴丸の姿を写さない。
「俺が主の様子見てるから、心配すんな。お疲れさん」
加州は小さな声で、ありがと、と呟き、踵を返した。彼の背が曲がり角を超えて見えなくなるまで見送ってから、鶴丸はまた無人の庭へと視線を戻す。必死に化粧で隠された、わずかに隈らしき影の浮かんだ加州の目元が、目前の風景に重なっていつまでもちらついた。
かたわらに置いてあった湯飲みへと無意識に手を伸ばしたら、持ち上げたそれがすっかり軽かったので、鶴丸は溜息を吐いて湯飲みを元の場所へ戻した。いつの間にか飲み切っていたらしい。いっそちょうどいいと思い直して、立ち上がる。
二階にある主の部屋へと向かおうとして歩き始めたそのとき、視界の端を一匹の蝶が飛んでいって、思わず彼は足を止めた。小さくて、けしてきれいとは言い難い、不思議な色合いをした蝶。それでも引っ張られるように、目は蝶の羽ばたく道を追う。そうしてふと、広い庭の前を横切るようにして飛んでいった蝶の後ろ、庭の片隅に彼岸花が咲いているのを見つけて、ああ、とこぼした。
今日から四日前の晩、三日月宗近が折れた。
×
三日月宗近が折れた。
本丸から見渡せる中に彼岸花の咲き始めた頃である。厚樫山へ出陣していた第一部隊は、真ん中からふたつに割れてしまった刀身を携え、隊長を除いた五振りで帰還した。すなわち、破壊されたその刀剣は部隊長を務めていた三日月宗近であるのだと、帰還した彼らを出迎えた他の刀剣男士らも、誰もがひとことすら介さずに理解をした。
庭は静かだった。一振りでも刀装が剥がれ落ちたら即時帰還せよという方針を掲げるこの本丸にて、それでも時折、ほんとうに時折、重症になって帰還する刀剣はある。そのときは皆が額に汗を浮かべ、その刀剣をすぐさま治癒しようと忙しなく動き、途端にそこら中がいやな騒がしさになるのだけれど、こと今においてはほとんどそれと反対と言ってもいいほどの重たい静寂が場を呑んでいた。
「何があったんだ」
鶴丸国永はつぶやく。返答を期待したのか、それとも独り言だったのか、最早彼自身にさえわからない。彼はこの本丸でも古株であったけど、他の刀剣男士と何ら変わらず困惑していた。かの三日月宗近が折れたという事実はどうにもうまく飲み込めず、目の前にある、副隊長の加州が手に抱えた三日月のしかばねを呆然と見つめることしかできない。
帰還した刀剣たちはみな黙っている。よくよく見れば彼らも身体中が傷ついていて、無傷で済んだ者はいないようだった。加州の顔にも引っかいたような切傷が走っていて、彼の爪紅にも似た血が頬の上をつうと流れていた。
「他の奴ら、はやく手入れしてやって」
加州は鶴丸と視線を合わせず、俯いたまま小さな声で告げる。
「しかし、加州、お前も……」
沈痛な面持ちの彼になんと言葉をかけるのが正解かわからなくて、鶴丸は箸にも棒にもかからない問いかけをすることしかできなかった。俺はあとでいい、と加州が答える。
「俺は、主に報告に行ってくる」
それ以上の会話を拒むように、加州は足早に鶴丸の横を通り過ぎ歩いていく。はっと振り向いて、庭砂の上を歩く黒装束の背中をすこし見つめてから、鶴丸は視線を上へ向けた。もう夜も更けている頃だったけれど、屋敷の二階、主の部屋はまだ灯りがついていて、障子の半紙からはやわらかな薄明がにじんでいた。
×
この本丸の主は出不精のきらいがあり、滅多なことでは部屋の外へと出てこない。その上私生活も執務も切り分けることなく同じ部屋で済ませてしまうので、結果として主が三日四日部屋から出てこなかろうが、それはさして一大事というわけでもないのだった。主の用命を他の刀剣男士たちへと運ぶ役割を担う近侍は毎日のように部屋に参じて直接顔を見ているし、今更主が部屋にこもっていることを心配するほど、鶴丸はここに来て日が浅いわけではない。
「主」
部屋の前で仁王立ちし、一度咳払いをしてから声をかける。襖の横にはいくつかの段ボールが積み重ねられていた。数日前まではなかったから、この四日の間に加州が部屋の整理をしてやったのかもしれない。
「主。俺だ。……起きてるか?」
灯りがついているのだから起きていることなんて百も承知だったけど、なんとなく居心地が悪くって、無理やり言葉をつなげた。庭に面する主の部屋の前で誰のはしゃぎ声も聞こえてこないことが、どうにも落ち着かない。
返事はいつまでもやってこない。
あるじ。と、もう一度繰り返す。
そうして、どうぞ、と、やっと帰ってきた返事は、なぜだかずいぶんと喉を渇かせた。
「どうしたの、鶴丸」
戸を開ければそこには当たり前だけれど主がいて、彼女は奥の机に向かって、どうやら何か書き物をしているようだった。戸に手をかけたまま立つ鶴丸に、彼女は背を向けたままそんな当たりさわりのない言葉をかける。
「加州がちょっと調子悪そうでな。今日は代わりに俺が」
「あら、そうなの。清光、大丈夫かしら」
「最近季節の変わり目だし、疲れが溜まってたんだろう。俺たちも気をつけねぇと」
「ええ、そうね」主の手はとまらない。
そこで会話は一度途切れて、鶴丸は部屋の中へ足を踏み入ろうとする。主はおそらく執務中なので、あんまり邪魔するのもよくないだろうから、きりがつくまで部屋で待たせてもらおうと思った。
鶴丸も過去には近侍を務めたことが何度だってあるから、主の部屋そのものは全く珍しいことではない。だからこそ、一歩めが畳を踏みしめた瞬間に、妙な違和感を感じたのはほとんど反射だった。本能がひとりでに警鐘を鳴らし、彼のそれ以上の歩みを引き止めた。
部屋にたちこめる、空気が。これは――。
「鶴丸?」
主の声は平然としている。平素と何ら変わりなく。
ごくりと唾を飲めば、その音さえも自分の身体の中に大きく響いていった。
「どうしたの」
「主、」
彼女が未だ振り向かないでいることがおそろしい。おそろしくて、だけど、それはきっと救いでもあった。まだ引き返せた。何も知らぬふりをして、馬鹿のふりをして、この場から立ち去ることもできただろう。だけどそれをしなかったのは、鶴丸国永が馬鹿でも臆病でも間抜けでも腰抜けでもない、勇敢なひとりの刀剣男士であり、今目の前に、彼を振り向かないでいる主のことを鶴丸が、心から、心から大切に思っていたからだ。
「なにをしてるんだ」
はじめから、彼女の手には筆など握られていなかった。
ゆっくりと、小さな頭が振り返る。薄い唇は乾きひび割れ、いつだってきらきらと輝いていた瞳を重たく濁らせて、主は、それでもうっすらとほほえんでいる。
「彼を、」と。
「かれを、なおしてるの」
頭の動きに合わせてわずかに振り向いた身体の奥に、机の上が見える。
広げられた赤い敷布の上に、真っ二つに折れた灰色の刀身が寝かせられていた。
ああ、と、庭の彼岸花を見つけたときのように小さな声で鶴丸はつぶやいて、それから、自分に主の様子を見に行ってくれと頼んできた、加州清光の疲れ果てた顔を思い出した。
×
茹だるような夏の暑さが少しずつ落ち着いて、気がつけば庭中にうるさく鳴いていた蝉の代わりに蜻蛉が飛び始めていた。夕暮れ時、本丸を囲う塀の下へと半身を隠した太陽を、鶴丸国永はひとり屋根の上から眺めている。
あのあと、加州の代わりに主の元へ参じたあと、彼は結局主になにを言うでもなく部屋を辞した。三日月宗近が破壊されてから四日間、部屋から出てこなかった主をいつも通りだと思い込んでいた自分がたいそうな間抜けだったのだと知った。毎朝毎晩、なにも知らない面でのうのうと飯をかきこんでいた自分のことを、加州清光はいったいどんな思いで見ていたのだろうか。白粉で塗らなくてはいけなくなるくらい、ああも目の下が真っ黒になるまで。
だけど、そんなになっても、鶴丸に同じ苦しみを与えてしまうだろうことを彼はずいぶんと葛藤したのだろう。ありがと、と、蚊の鳴くような声で礼を告げた加州は、何かを耐え忍ぶような表情をしていた。
燃える炎のようにあざやかな色の空に、薄暗い灰色の雲がぽつりぽつりとちぎれて漂っている。日が沈めば、夕飯ができたと、四日前から変わらない食事当番が知らせに来る。今朝までの自分のように、なにも知らぬ仲間らとともに、食卓を囲む時間がやってくる。そう思うと、自然と溜息がこぼれた。
「あ、いた」
ふいにそんなつぶやきが聞こえて、鶴丸は声のした方に首を向けた。屋根の頂辺を伝うように、こちらへ向かって歩いてくるのは髭切である。
「さがしたよ。どうしたの、こんなところで」
「ちょっとな。それより、何か用か?」
「なんかね、さっき……誰だっけ、あの、いま近侍してる」
「加州か?」
「そう、確かそんな名前の。それがさっき倒れちゃってさ」
髭切はまるで天気の話でもするような呆気なさで言う。一瞬だけ瞠目して、だけど鶴丸はすぐに腑に落ちてしまって、取り繕うように「そうなのか」とだけ言った。
「それで、しばらくきみに近侍を代わってほしいんだって」
「ああ……」
鶴丸は頷かざるを得ない。加州の心労はもう限界だ。それに、これ以上いたずらに誰かに広めることも望ましくない。何せ、近侍であり初期刀でもある加州が、他の刀たちに広めないことを選んだのだ。事の共有はなるべく最小限の刀だけに留め、主がどうにか正気に戻るのを待とうというつもりだったのだろう。
わかった、と答えて、鶴丸は立ち上がる。悪いが仲良く世間話を交わす心境でもないので、髭切とは目を合わせることなく、彼の横を通り過ぎ、屋敷の中へ戻ろうとした。髭切も止めはしなかった。
だけれど、そうして通りすがって数歩歩いたところで、なんとなく胸がざわめいて、鶴丸は結局足を止めた。徐々に夜の温度を孕みはじめた風が、そよめくように袂をさらっていく。自身の首元をくすぐるように、後毛が音もなくなびく。
振り向いた。髭切はこちらを見ている。
色素の薄い唇がにんまりとわらって。
「ねえ」
「なんだ」
「主、どうかしたのかい?」
ひときわ、風が強くなった。
吹き飛ばされないように、羽織った上着の前を握って、髭切はたのしそうに鶴丸を見ている。
「気になるなぁ。その、近侍のなんとかって刀も、僕が代わりに行くよって言ったら、すっかり青ざめた顔するんだからさ。何もないっていう方がおかしな話だよね」
少しずつ屋敷がざわついていく気配があった。夕食どきが近づいて、刀たちが広間に集まり始めているのかもしれない。
悪いことをしているわけでもないのに、心臓がばくばくと激しく鼓動していた。罪を暴かれたような咎人は、こういう気持ちになるのだろうか。
「まあ、どうしても秘密っていうんなら仕方ないかぁ。でも、それなら代わりに、一つ教えてほしいことがあるんだけど」
「……なんだ」
「折れた三日月宗近って、今どこにあるのかな?」
鶴丸の目の前で、髭切はうつくしく笑いつづける。鶴丸のそれよりもわずかに黄みがかった髪が、少しずつ夜へ近づいていく虹色の空を背景に、不思議とうすくかがやいている。
髭切が、すべてをわかっていてその名前を呼んだのだと、鶴丸にはすぐにわかった。そうでもなければ、彼が他の刀の名前を口にできるはずがないのだ。
「ただの興味本位だよ」
と、髭切。
「この本丸で刀が折れるのって初めてらしいんだけどさ。処分、どうするのかなと思って」
「俺は知らねぇよ」
「ふうん」
髭切はつまらなさそうに肩をすくめた。そうして一度、燃え盛る太陽の方を向いてから、再び鶴丸に視線を戻した。「ねえ」。
「三日月宗近と主って、恋仲だったのかい?」
×
「三日月と主ってさぁ、なんかあやしくない?」
あるとき、加州清光がそんなことを言っていた。
三日月宗近が来てからどれくらい経った頃だったか。鶴丸が加州とともに畑当番を任ぜられていたある日のことだ。
「あやしい?」
照りつける太陽の下、次から次へと米神に滴り落ちる汗を捲り上げた二の腕で拭いながら、鶴丸は聞き返す。少し離れたところで気怠げに畝に種を撒いていた加州は、いつの間にか手を止めて、しゃがみ込んだまま休憩しているようだった。
「俺、こないだ夜中に厠に起きたんだけど」
「ああ」
「三日月って今一人部屋でしょ。その部屋の戸がちょっとだけ開いてて、あれ、と思って中覗いたんだけど、」
「いや、しれっと覗くなよ」
「仕方ないじゃん、気になっちゃったんだから。で、中見たら、誰もいないの」
「お前だって厠に起きたんだから、そういうこともあんじゃねぇのか」
「それで俺、もしかして、と思って、階段の前までこっそり行ってみたんだけど」
鶴丸の挟む言葉などまるで無視して、加州は遊ぶように土いじりしながら続ける。どうやら今は黙って聞けということらしい。鶴丸はこっそり溜息を吐いて、また耳をかたむける。
「そしたら、上から声が聞こえたの。主の部屋から、三日月と主の声が」
「……そいつぁ……驚きだな」
農具を地面については寄り掛かるように顎を乗せ、鶴丸はもう一度息を吐いた。なるほど、それであやしいというわけだ。あやしいもなにもそれは最早答えではないのかと思いつつ、主からの寵愛を最も気にする加州からしたら、断定できない限りは認めたくないのだろう。たしかに、余程誤解される行動ではあるが、必ずしも恋びとの仲睦まじい逢瀬であるともかぎらない。三日月は当本丸の第一部隊長なので、主とはそれなりに話さねばならないこともあるはずだ。
「別段三日月を特別扱いしてる風には見えねぇけどな」
「そりゃ、主だって審神者としての本分があるし、明らかに贔屓はできないでしょ。主、真面目だし」
加州の言葉はどこか投げやりだった。認めたくないのに、彼自身の中で冷静な部分がすっかり認めてしまっているようにも聞こえた。
「主はやさしいし、いまは、俺たちのこと一振り一振り大切にしてくれてるけど」
「ああ」
「どうする? いつか、主が三日月ばっかりになって、俺たちのこと見捨てたら」
加州の目線は鶴丸ではなく上を向いていて、その先には主の部屋があった。釣られるように鶴丸もそちらを向いて、その部屋の中の様子を思い出す。
夜更け、月明かりのあわく射しこむなかに、三日月と主は何を話したのだろうか。
「……考えすぎだろう」
×
「考えすぎってこともないよね。主のあの様子を見たらさ」
「……なんだ、やっぱり知ってんじゃねぇか」
「あはは、見ちゃった」
結論からすると、あれ以来ちらりちらりと様子を伺ってみてもあやしいところはひとつとしてなく、いつの間にか、加州からそんな話を聞いていたことさえ鶴丸は忘れていたのだった。主と三日月がどういう関係だったのかは、三日月の消えた今、もう主以外誰も知らない。
「実際のところどうだったのかはしらねぇが」
「うんうん。でも、多分そうだったんじゃないかな。なにせあの憔悴ぶりだからね。で、主は今部屋にこもって何をしているんだい」
「……三日月宗近をなおそうとしてる」
はは!と髭切は笑った。打ち明けた鶴丸の重苦しい声とは対照的に、軽く、高らかな笑声。
「そういうことね。それでその、近侍のなんたらって刀も、主のありさまに疲れちゃったわけだ」
「……」
「だれか教えてやらなかったの。折れた刀は戻らないんだよって」
教えてやらなかったの、と髭切がいうのはきっと、単なる知識の話ではない。だってそんなこと、審神者ならば誰だって知っている。就任時に、刀剣男士のいのちの形や、それの扱い方を学ぶのだ。鶴丸と髭切の主だって、三日月宗近をなおそうと灰色のかけらに向かい続ける主だって、わかっている。
加州は、言えなかったのだろう。
責めるつもりはない。あの主を見たら、自分だって、言える気がしない。
「僕が言ってきてあげようか」
「やめろやめろ。どうせ碌な言い方しないだろ」
「酷いなぁ、僕ってそんなに信用ない?」
鶴丸は肩をすくめて答え、髭切はもう一度ひどいなあと笑った。
「でも、どうにかしなきゃいけないんじゃない?」
「加州は多分、待つつもりだったんだ」
「待つ?」
「主の心が落ち着くまで」
「それっていつまでなの?」
「そりゃわからんが……」
「ふうん……」
数秒顎に手を当てて黙考した髭切は、それから妙案を思いついたようにぽんと手の上で拳を叩いて。「じゃあさ」。
「燃やそうか。三日月宗近」
「……は?」
「だから、燃やしちゃえば? 主が寝てる間にでもこっそり」
大きくまばたきした瞬間に、鶴丸は、髭切の後ろを彩っていた夕空がすっかり夜の色へ変貌しているのに気が付いた。薄い金色の髪が、まるで月や星のように、夜の中に揺れてかがやいている。
「本気で言ってんのか」
「あれ? 良い案だと思ったんだけど」
「良いわけないだろ……そんなことして、もし主が自殺でもしたらどうする」
自殺、という単語に、髭切は一転虚をつかれたような表情をした。刀剣男士はなにせ元が刀の付喪神なので、こうしたときに、人間との埋められない違いというものがふいに目に見えてわかるときがある。
「それくらいのことで?」
「主は人間だ。俺たちとは違う」
髭切がその可能性を顧みられず、鶴丸だけがその可能性に思い至れる理由は、単純に主のそばで過ごした時間の差に過ぎない。偉そうに髭切に説いている鶴丸とて、人間のこころというものをすべて理解しているわけではない。
ただ、知っているのだ。審神者は刀剣男士のように何百年何千年と生きてきたいのちではないと。命というものの重たさも、それを失うことの意味も、審神者と刀剣男士では大きく違うのだと。
人間といういきものは神たる彼らよりもずっと繊細だ。よわくもろい。ふとしたことでたやすくこわれてしまう。人間のからだを借り物にしてから、その肉体の脆さだけは体感したけれど、その中身まではどうしても知れない。人間のこころまで借りることはできない。
ふうん、と、納得したのかしていないのかわからない声音でつぶやいたきり、髭切はしばらく黙っていた。この後に雨でも降るのか、吹き付ける風は徐々に湿気を含んで重たくねばっていった。
やがて、その風音の隙間に、ひっそりとさしこむように髭切が肩をすくめてわらう。
「でも今のままじゃ、どっちみち僕らおしまいじゃないの」
嘲笑だった。
×
本丸に朝を知らせる小鳥が生き急ぐように忙しくさえずる。どうするわけでもなくのうのうと無為なときを過ごす自分をあざ笑うように。
流石にうまく眠れなくて、いつもならば眠りに浸ったまま聞き流す朝告げのうたも、今日ばかりは聞く前から目が覚めていた。乾燥したまぶたをこすりながらのろりと上体を起こして、部屋に射しこむ朝日を呆然と眺める。床に就く前よりも、疲労感はむしろ強まっているように感じられた。こんなのを三日四日も繰り返せば、たしかに体調を崩すだろう。加州の過労も当然の帰結である。
横になったって眠れやしないのに、もうしばらくなにも考えずに寝ていたい気もして、寝癖に乱れた頭をかきながら鶴丸はぬるいため息を吐いた。また憂鬱な一日が始まる。
そのとき、廊下の方でわずかに床の軋む音がして、
「鶴丸殿」
だれかが呼んだ。
「起きていらっしゃいますか?」
襖を挟んで呼びかける声は気遣いにあふれた静かさだった。もしもまだ鶴丸が眠っていたとき、けして起こすことのないように。
ああ、と鶴丸は答える。自分の口から音となって出ていった声が、思った以上に掠れていたことに驚きながら。
「すみません、朝早くから」
「別に構わねぇさ。どうした、一期一振」
そっと襖を引いて姿を見せた一期一振は、いつも通りの精悍な顔つきではあったものの、そのどこかにかすかな緊張を滲ませていた。
普段ならば、彼の腰ほどまでの背丈しかない粟田口の弟たちが必ず一振りや二振りは彼についていて、会話の隙間を見つけては一兄一兄とうれしそうに彼の愛称呼ぶものなのだけれど、最近はそれもない。だから、一期一振が言葉を探している間、妙にいたたまれないその沈黙を、鶴丸は、まだ得意げに歌い続ける鳥たちの歌を聞きながら待つほかなかった。
難しい顔をして、一期一振は立っている。形の良い唇は引き結ばれ、浅瀬の色をしたまなこは硬く光っていた。「実は」。
「薬研が、刀に戻りました」
――今のままじゃ、どっちみち僕らおしまいじゃないの。
ああ、と鶴丸は腹の底でうめいた。
「朝起きたら、弟たちが慌てふためいていて……何事かと聞いたら、薬研藤四郎が刀に戻ってしまったのだと、私に、差し出してきたのです」
そう言って、一期一振は左の手のひらを胸の前に持ち上げる。そこには一本の短刀があった。
薬研藤四郎吉光。
この本丸でも数少ない、鶴丸国永が顕現する前からいた刀剣男士だった。
「鶴丸殿。いまはあなたが、倒れた加州清光の代わりに近侍を務めていると聞きました」
「……ああ。そうだ」
「教えてください」
苦しげに眉根を寄せて、一期一振は、それでもたしかにはっきりと、そのことばを口にした。
「主は、私たちを見限ったのでしょうか」
――だれか教えてやらなかったの。
一期一振に見えないように、鶴丸は、投げ出していた手のひらを握りしめる。夕闇が夜へと変わっていくあのひととき、屋根の上であざけるように言葉を紡いだ髭切の声が、耳の奥によみがえってくる。
なにが、正解なのだろうか。
主のこころが癒えるまで待ちたかった。あのひとをこれ以上傷つけたくなかった。それが間違いなのだろうか。
三日月宗近はもう戻ってこない。たったそのひとことを、主に言えずにいる自分がいけないのだろうか。臆病なのだろうか。
自分がどんな顔をしていたのか、鶴丸にはわからない。ただ、すみません、と、一期一振が小さくつぶやいた声があまりに悲痛だったので、きっと自分はたいそうひどい顔をしていたのだろうと思う。
「言葉選びが、よくありませんでしたね。つまり、その……」
「……いや、いいんだ。一期一振」
鶴丸は一期一振を遮り、彼の顔から自分の膝元へ視線を戻した。なるべく鶴丸を傷つけないようにと、一期一振がほんとうにあたたかな優しさをもって言葉を選ぼうとしていることなんて、最初からわかっている。
「見限られたわけじゃない。お前だって、主が俺たちを大切にしてくれていたこと、よくわかっているだろう」
「……はい」
「今は、だめでも、いつか、……」
その先を続けようとして、だけど鶴丸は言葉を見つけることができなかった。
待ち続ければ、ほんとうに、やってくるのだろうか?
主がみずからの力で心を癒やし、もういのちをなくした灰の塊から顔を上げ、もう一度自分たちを必要としてくれるときが、ほんとうに、やってくるだろうか。
鶴丸の沈黙を少しの間見届けてから、わかりました、と一期一振はつぶやく。
「私たちは刀だ。たとえこの肉体がなくなっても、いつかまた主に必要としてもらえるときが来るのならば、いくらだって待てます」
「……」
「いま、主が私たちを望まないのであれば、主がいつか、私たちをもう一度望んでくださるときまで待ちましょう。……私たちは、主の刀ですから」
あるじ。
心の中で、鶴丸国永は震えながら、その名を呼ぶ。
本当に、これでいいのか。
三日月宗近のために、この本丸が一度無にかえって。あなただけが、誰もいないこの場所にただひとり取り残されて。
ほんとうに、それでいいのか?
×
その日から、短刀たちが少しずつ姿を消していって、それから脇差、打刀、太刀と、順番に後を追うように彼らの顕現は解かれていった。多少順番に前後はあれど、主からの霊力が絶たれた今、要は神格の低いものからだんだんと人型を保てなくなるらしい。
日に日に姿を消していく仲間たちを見て、当然ながら状況を知らぬものはなにが起きているんだと騒いだけれど、それをなだめたのは一期一振である。主のこころの問題なのだと、騒ぎ立ててどうこうなる話ではないと、納得のいかない刀たちが納得できるまで、一振り一振りに丁寧に話して聞かせた。この本丸にいる刀たちは当然誰もが三日月宗近の破壊を知っていたので、はじめて自分の刀が折れたことによる喪失感に主が立ち直れないでいるのだろうという建前の仮説が、最後にはどうやら彼らをある程度納得させたようだった。
そうして誰もが、事態の奥底までを知らぬままにいちど刀に戻ることを受け入れて、数日が経った頃。
数十振りが集っていた本丸はいつの間にか忽然と静まり返り、一期一振までもが姿を消した朝に、残されたのは二振りである。
「やっぱりこうなっちゃったねぇ」
粟田口の部屋にひとつ、短刀たちに囲まれてかがやく太刀を部屋の外から眺めながら、髭切は大してこともなげにそう言った。
「ま、残るのはきみだろうなと思ってたけど」
「……俺は正直意外なんだが」
「あはは、最後に一緒に残ったのが一期一振じゃなくて僕だったこと?」
無礼を承知で本音を言えば、髭切はそれさえもあっさりと笑い飛ばした。
「弟がね、気づかないうちに神気を分けてくれてたみたい。おかげでちょっとだけ長生きしちゃった。あんまり意味もないだろうけど」
言われて鶴丸は、髭切の弟である膝丸が、ずいぶんと早くに刀の姿に戻っていたことを思い出した。当初はどういうことかと不思議に思ったが、成程、あれは髭切に自らの力を分けていたということらしい。
「相変わらず兄思いのやつだな」
「そうなんだ。弟はね」
それから二振りは粟田口の部屋を後にして、誰もいない廊下を並んで歩いた。行くあてはなかった。もう畑も馬も手が回らず、屋敷の中だってあちこち埃が溜まり始めている。皆で広間に集まり、食事をとることもなくなった。
「結局みんなには言わなかったんだね。三日月のこと」
「全員知ってるじゃねぇか」
「そうじゃなくて、主と三日月のことだよ」
わかってるくせに、と肩をすくめる。
「案外打ち明けてた方が、君も他の刀たちも幸せだったかもよ? 好きな一振りのために他の刀のこと忘れちゃうような、そんなひどい主は見限ってさ。刀に戻されてむしろ万々歳だったかも」
口元に手を寄せて、くつくつと。一体なにが面白いのか鶴丸にはよくわからないけど、彼ら以外のすべての者が刀に戻ってしまった今でも、髭切はあの日、夕闇を背負って嘲った彼と何ひとつ変わっていない。それがどうしてか、救いでもあるような気がしていた。
「そうすればみんな、終わりのない"いつか"を待つ必要もなかった」
多くの者が消えた本丸はうす暗く、だけど彼らはみな待っている。ひかりをなくしたこの本丸で、いつか主が、もう一度自分を呼び戻してくれることを。
いつの間にか、どこかの部屋の前まで来ていた。立ち止まった髭切に、一拍遅れて鶴丸も立ち止まる。開けっ放しの部屋の中には、見覚えのあるひとつの太刀が置いてある。
なにも喋らない鶴丸を一瞥することもなく、髭切はふと、苦笑するように、「まあいいさ」と言った。
「あとはきみの好きにしなよ。鶴丸国永」
――きみが最後の一振りだ。
そう言って髭切は部屋へと踏み入り、襖を閉める。数秒、時間に置いて行かれたようにその場に呆然と立ち尽くしていた鶴丸は、やがてはっと気付いて、襖の向こう側へ声をかけた。
「髭切、」
返事はない。
「髭切?」
もう一度。
返事はない。
襖に手をかけて、ゆっくりと引き開ける。薄暗い部屋の中に、くらべると少しだけ明るい廊下から、すうと一筋光の帯が通っていった。
髭切の姿はそこにはない。
ただ、まっすぐ引かれた光線の上に、隣り合うようにして二つの太刀があるだけだ。
×
縁側に座り片膝を立て、鶴丸国永は一人太陽の光にさらされる。誰もいなくなった本丸で、まるで調子づいたように意気揚々と熱気をばらまく太陽は無邪気で、残酷だった。もう夏も、終わりだというのに。
畑に植えて育てていた西瓜は、もう収穫しきってしまったのだろうか。あれはうまかった。まだ余っているのならば、だめになってしまわないうちに食べておきたい。何せ、夏は一年に一度しかやってこない。暑い日差しの中で、切り分けた西瓜の早食いや、種をどこまで飛ばせるか競うことは楽しかった。鶴丸は獅子王や燭台切とどうやったら種が遠くまで飛ぶのか熱心に探究して、それを横から眺めた加州や大和守が呆れたように苦笑しながらため息を吐いて。それから。
それから、縁側に、あいつがいた。
奥歯を噛み締めて、無理やり口の中の唾を飲み下す。引き結んだ唇が、わなわなと震えているような気がした。
――あとは、きみの好きにしなよ。
これでいいのだろうか、と、何度だって考えている。めぐる日々は彼らを顧みてはくれない。時間はどこまでもひとしくすすみ続ける。その中で、ひとの姿を失い刀へと戻っていく仲間たちを横目に、何度も何度も考えた。
きっと、自分が刀に戻るその瞬間まで。あるいは、刀に戻った後も、もう一度主に呼び起こしてもらえるまで、考え続けるのだろう。
だって、彼らにはわからないのだ。彼らはひとではなく、故にひとの心がわからない。
こういうとき、三日月ならば、ぐちゃぐちゃに絡まってしまった主のこころを、傷つけることなく解きほぐす術を知っているのだろう。主と三日月の関係性がどうであれ、つまるところ三日月宗近というのはそういう男だった。
――鶴丸国永。きみが最後の一振りだ。
噛み締めていた唇をゆっくりとはなして、その隙間から小さく息を吐き、立ち上がる。もう誰も、鶴丸を見ない。それでいい。
縁側から見回せる庭の端に、集って咲き揺れる彼岸花だけが、色のくすんだこの本丸の中でただひとつ、色あざやかだった。
×
ぴしりと閉じられた襖は強烈なまでの拒絶をかもしていた。あのときのように、急速に喉が渇いていくような気がした。いつからか、直接渡すのではなく部屋の前に置くようになった食事は、昨日のものがまだ手付かずに残っている。
「主」
呼びかける。少しの間を置いて、どうぞと、穏やかな声が返ってくる。何度だって聞いてきたその声が、ずいぶんと懐かしかった。
ゆっくりと襖を開ける。中の光景も、ここだけが世界から切り取られたような閉塞感も、数日前に見たあのときとなんら変わらない。
「鶴丸。どうしたの」
主は奥の文机に向かい、鶴丸に背を向けたまま問いかける。手元から赤い敷布がちらりと覗いて見える。灰のかけらと。
「食事のことなら、ごめんね。ちょっと手が離せなくて、食べられていないの」
「……ああ」
「また、後で食べるから、置いておいてくれる」
うん、と鶴丸はつぶやいて、それから、振り向かないでいる主の、以前よりもずっと小さくなってしまった背中を眺めた。
この背中が好きだった。
自分たちにいのちをくれた。ひととして、からだをもって、食事や睡眠、畑当番、仲間たちと話し笑い合うこと。炎天下に季節の果物を食べあい、くだらない競い合いをすること。
驚きに満ちあふれた日々のすべてが、このちいさな主が、自分たちにくれたものだった。
「主」
「なあに、鶴丸」
一期一振の言った通りだ。彼らは主の刀だ。主が望まないのであれば、肉体を維持する必要はない。刀に戻されて構わない。そうしていつまでだって、主の心がもう一度自分たちに向いてくれるときを、待っていられる。
だからこれは、この本丸の、主の刀たちの総意なんかじゃない。鶴丸国永の、彼が彼のためだけに口にする、ただの身勝手なわがままだ。
「主。俺たちは、だめなんだ」
「だめ?」
「俺たちは、一度折れたら、二度と戻らない」
灰色の空気に亀裂が入るように、窓の外で太陽がゆっくりとうごめいて、くぐもった牢獄の中に光を刺していく。
「三日月宗近は、もう帰ってこない」
ごめん。主。うまくできなくて。
俺はあんたを傷つける。三日月のようにやさしくはなれない。ただ、誰も声さえかけられない、ひとりきりの本丸で、灰を編み続けるようなかなしい日々に、あんた一人だけを残していきたくない。
「折れてしまったら、もう終わりなんだ」
いくら膝を抱えて泣こうが、痛みは雲の晴れるように消えてはゆかない。涙はかなしみを増幅させるだろう。やわい心に容赦なく爪を立て、血を流させていくだろう。だけど、そうするしかない。それ以外のやり方が、鶴丸国永にはわからない。
姿も声も、何もかもが同じかたちをした二振り目や三振り目の三日月宗近が、いずれやってくるのかもしれない。だけど、彼らの三日月宗近はもう二度とは戻ってこない。痛みなくしてそれを受け入れる方法があるのならば、きっとこの本丸の日々はあんなにもすばらしいものにはなり得なかった。
「主。どうして他のみんなが、あんたになにも言わずに黙って刀に戻っていったか、わかるか」
ちいさな背中は丸まって、どうやら小さく震えているように見えた。だけど鶴丸は言葉を止めない。胸のあたりがぎゅっと握りつぶされるように苦しくて、だけど言葉だけは止めない。
「なあ、主。おれたちをみてくれ」
おれたちは、あんたが何より大事だ。
とうとう、主の首ががくりと折れて、鼻を啜る音が聞こえてきた。机の上にあった手のひらが、灰にまみれてぼろぼろに汚れた手のひらが、隠すように顔を覆う。主の泣き声は鋭くとがれた刃のようで、押し殺された嗚咽がやがて耐えきれずに吐き出されるようになるまで、鶴丸は長い間、斬りつけられるような痛みを黙って受け入れた。
埃の積もった畳の上をそっと歩く。舞い上がった塵芥は降りそそぐ光線の中にあって、まるで星屑のようにきらきらとひかる。
主のすぐ後ろに膝をついて、引き攣るように泣き続ける主のからだに腕を回す。久々に触れた主の体温は涙の出るほどあたたかかった。喉の奥から絞り出すように、懸命に紡いだ声が、少しだけ震えて。
「みんな、ここにいるよ」
主の涙が鶴丸の腕に落ちる。涙までもがあたたかいのだ。ひとというものは。それとも、主だからだろうか。
抱きしめた中に泣き続ける主の声を、鶴丸はいつまでもいつまでも聞いた。目を閉じ、主の唇からこぼれ落ちるすべての音を聞き逃すまいと、耳を澄ませていた。主のからだに触れたところのひとつひとつがあたたかく、主の体温が少しずつ自分に熱を与えていく中で、ただひとつ、触れ合ってもいない目の奥だけが、燃えるようにあつかった。
灰を編む
2021.8.22
企画「remedy」様へご提出