五番隊舎の庭には猫が住んでいる。いつからいるのかは誰も知らず、最も古くから五番隊にいる隊士ですら、気付いたらそこに住みついていたのだと言う。勿論誰かが飼っているわけではない、本当にただの野良猫なのだが、いつの時代も必ず存在していた猫好きの隊士が餌をあげていたせいで、五番隊隊舎をどうやら一つの餌場として覚えているらしかった。
そしてこの時代における猫好きの隊士とは、専ら史帆をおいて他にはいない。
「おいで、ソウスケ」
小さな皿に餌を盛り付けて縁側に置くと、猫は躊躇なくぴょんと飛び乗り、皿に口をつけた。膝を抱えてしゃがみこみ、瞳を輝かせてその様子を眺める史帆は誰がどう見ても満面の笑みだ。猫を眺めているだけで幸せになれるのは猫好きの特権だと、史帆はつくづく思っている。
そっと手を伸ばし、嫌がられない程度に首筋を撫でる。猫は特に気にする様子もなく、一度餌から顔を上げて史帆を見たものの、すぐにまた食事を再開した。
「本物の惣右介もこれくらいかわいければいいのにね?」
ソウスケと名を呼ばれた猫は、不思議そうに首を傾げる。あなたじゃないよ、と笑うと、にゃう、と小さく鳴いた。
猫が餌を食べ終え、史帆の膝の上へと飛び乗る。死覇装が毛だらけになるから、最初は注意していたのだが、最近では可愛さの方が勝って、受け入れるようになってしまった。お腹もふくれて眠いのだろう。丸まったソウスケの毛並みを手のひらで撫でてやる。
瞬間、その声は聞こえた。
「かわいいっすねえ、あなたの猫ですか?」
呑気でやわらかな声。しかし聞いたことのない声だ。
史帆が顔を上げた先には、一人の男が立っていた。黒い死覇装は史帆と全く同じ。盛大に外にはねた金髪は、平子のそれよりはだいぶ色素が薄かった。
「いえ、この子はこの隊舎に住み着いてる野良猫です」
「あ、そうなんすねえ。ソウスケっていうんですか」
「私がそう呼んでるだけですけどね。秘密にしておいてください、藍染副隊長に怒られるから」
「藍染副隊長……あ、ここ、五番隊っすか」
「そうですけど」
そこで初めて、史帆は訝しげに眉根を寄せた。五番隊の隊士ではなかったのか。そういえばたしかに、史帆のことを初対面のようにあなたと呼んでいた。不審がられたことに男も気付いたようで、はは、と焦ったように頭をかく。
「スイマセン。僕、二番隊の浦原喜助っていいます。ぼーっと瞬歩してたらちょっと迷っちゃって……」
「そうでしたか。私は五番隊第三席の四谷史帆といいます。はじめまして、浦原さん」
「ああ、あなたが噂の四谷サンでしたか! お会いできて光栄です。よろしくお願いします」
へらりと笑って手を差し出す男に応え、座ったまま握手する。ソウスケは変わらず史帆の膝の上だ。初めて見る知らない男に少し警戒しているようだが、史帆が一緒にいるおかげか、逃げようとはしなかった。
「あの、噂って?」
「あれ? ご存じないですか、次期隊長の話」
「次期隊長?」
昨日の藍染との話がふと頭をよぎった。各隊とも人事異動の時期だと言っていたが、そうか、隊長格が交代するのか。
「四谷サンが次期隊長筆頭候補だって、お聞きしましたけど?」
「え!?」
ぎょっとして思わず立ち上がりかけて、バランスを崩したソウスケがひらりと膝から飛び降りる。そして史帆を見上げていらだったように低い声で鳴くので、史帆は申し訳ない気分になり、「ごめんソウスケ」とその頭を撫でた。もう一度正座をしてみたものの、ソウスケは怒ったのか膝の上には戻ろうとせず、史帆の隣で毛づくろいを始めた。
浦原がソウスケを挟んで史帆の隣を指さし、座っていいですか、と問うので、頷いた。根拠のない噂話は早めに火消ししておかないとことだ。本当に昔から、そんなことばかりしていると、溜息を吐く。どうもと礼を言って、浦原は空を見上げながら、説明を始めた。
「十二番隊の曳舟隊長、ご存じですよね」
「それは、勿論」
「なんでも彼女が隊長職を離れるみたいで、その後任を今他隊から出すことを検討してるらしいんすよ」
「それがどうして、私が筆頭候補という話に?」
「えっとですね」
浦原は一度顎に手をあてて、考えるような間をとった。
「他隊から新隊長を選出するときって、現隊長の推薦が必要じゃないですか。それで、誰かわかんないスけど、平子隊長に藍染副隊長を推薦したらどうかって声があったらしいんですよね」
史帆は頷いた。特に驚くこともない。藍染は遅かれ早かれ隊長になる人材だろう。その優秀ぶりは他隊からも認識されているし、ポストが空くのであればすぐにでも、という気持ちはわからなくもない。癪な話だが。
「それに対して平子隊長が、藍染副隊長だけは推薦しない、ってがっつり否定したらしいんス」
「んん……?」
「だから、ほかに推薦したい人がいるんじゃないかって話が持ち上がって」
「それが私だと」
「そういうことッス」
史帆は眉を寄せた。つまり自分が次期隊長筆頭候補だというのは、根拠のない噂話に尾ひれがついただけということだから、そこはいい。噂話というのは人から人に伝わるたびに大仰になっていくものだから、自然の摂理といえばそうだ。
ただ彼女が違和感を感じたのはその前の部分である。平子が藍染だけは推薦しないという言葉の意味が、よく理解できなかった。優秀な副官を手放したくないからだろうか。本当に?
黙りこんでしまった史帆に、浦原が手を後頭部にあてて、ごまかすように苦笑した。
「スイマセン、初対面なのになんか色々としゃべっちゃって、不躾でしたね。忘れてください」
「いえ、聞いたのは私ですから! こちらこそ、お茶も出さずにすみません。よければ上がっていかれますか」
史帆の言葉に、浦原は笑いながら立ち上がった。
「お気遣いありがとうございます。でもそろそろ戻らないとなんで、またの機会にぜひ」
そういえば瞬歩で移動中に迷ったのだと言っていた。頷いて、念のために二番隊隊舎の方向を教えてやると、浦原は助かりますと言って頭を下げる。
「じゃあ、また。今度ゆっくりお話しさせてください、四谷サン」
「はい、また」
ソウスケの手を握って、自分の手と一緒にひらひらと振ると、浦原は嬉しそうに笑ってから、瞬歩で姿を消した。
それをしっかり数秒見送ってから、ひらりと身を返す。縁側が続く廊下の方向へ、ソウスケを抱いたまま身体を向けて、史帆は苦笑した。
「盗み聞きは良くないな、惣右介」
名前を呼ばれたと勘違いして猫が鳴く。
それを合図にしたかのように、史帆の前の空間が虹色に輝き裂けて、中から一人の男が出てきた。いつもと変わらぬ穏健な副隊長は、自らの術が見破られたことをむしろ喜ばしく感じているかのように、怪しく微笑んでいた。
「さすが。よくわかったね」
「わざと手抜いた癖に、よく言うよ」
史帆の言葉に、藍染はただ笑うだけで何も言わなかった。沈黙は肯定とはこういうことなのだろう。
「わざわざ曲光まで使って、どうしたの。浦原さんが何かあるの?」
「何も」
「……惣右介って、実は嘘が下手だよね」
「それより、その猫は?」
「この庭に住んでる子だけど」
「僕の勘違いでなければ、ソウスケと呼んでいなかったかな」
聞き間違いだ、というより先に、史帆の腕の中でソウスケが返事をするかのように鳴く。じとりと自分を見る藍染の視線に、史帆は逃げるように目線をそらした。
まあいいけど、と、藍染がつぶやいて話題を打ち切ったので、史帆はちょうどいいと、一番気になっていたところに話題を変えた。
「さっきの話、あなたも知ってたの?」
「噂ならね」
ふうん、とつぶやいた自分の声が思った以上に不満げだった。藍染もそう感じたのだろう、苦笑する。
「僕を差し置いて隊長候補になれたんだ。少しは喜んだらどうだい?」
「何、その言い方……隊長位にも興味ないって言ったじゃない」
ふてくされている様子ではないが、わざと煽るような言い方をする。息をするように他人を挑発したがるのは史帆が知るこの男の悪い本性の一つだが、まったくこういうときばかりは難儀なものだと思う。
藍染は黙って肩をすくめ、史帆の抱く猫の頭を一度撫でてから、踵を返した。執務室へ戻るのだろう彼に何かを聞きたかった気がするのだけれど、なぜか口を開くことはできず、史帆はしばらく、遠ざかる背中をただ茫然と見つめていた。