ここまで長い道のりをたどり疲弊しきった彼とは打って変わって、その男は大変落ち着いた様子で突然の来客を出迎えた。物々しい器具で磔にされているのに、温和な表情はまるで昼下がりのティータイムのそれである。暗闇にあってもなぜだかはっきりと見えてしまう男の姿に内心では顔をしかめつつ、しかし一応すました顔つきで、彼はようやくたどりついた男の前に立った。男はほほえんでいる。
「誰かと思えば、珍しい来客だ」
男の顔の半分以上を覆い隠した黒帯も、まぎれもない囚人の拘束具である。以前(といっても十年前の話だ)は完全にすべてを覆っていたそれが、今現在に至るまで多少なりとも緩和されているのは、先の戦、それこそ十年前の大戦で、この囚人がどういうわけか彼らに協力したからだ。今や懐かしさすら覚えてしまうほど昔の話である。何せあのとき、一護はまだ子どもだった。
「ここに来るのは初めてかな」
「そりゃそうだろ。俺みたいな部外者がぽんぽん入れる場所じゃねぇよ」
「確かに」
藍染惣右介は目を細め、それから楽しそうにくすくすと笑う。思えば、この男に直接会うのはあの戦以来だ。男は自分と同じ形をしているが、それでも根は違う生き物なので、一護たちのように急速に老いてはいかない。一護の方はきっかり十年分年老いたが、男のほうはまるであのときと変わらない容姿である。変わんねぇなとつぶやくと、独り言のつもりだったのだが、男はおかしそうに肩をすくめて「君もね」と答えた。
「適当言うなよ、十年経ってんだぞ」
「まあ、多少は老けたが」
「うるせえ」
「変わってないと言ってほしいのか変わったと言ってほしいのかどっちなんだ」
呆れた様子で唇をゆがめる、男の端正なほほえみを、十年前のそれと重ねてみようと思うのだがどうにもうまくいかない。人間にとって十年というのは長い月日だ。古いアルバムを開いた先、探し出した写真がとうに色褪せていたときのように、記憶というものも時が経てば自然ぼやけていってしまう。あの当時の男のほほえみはもっと底知れなくて、鳥肌が立つようなおぞましさを孕んでいた気がするけれど、今となってはその感覚ももう思い出せない。
「それで、用事はなんだい」
「別に何も」
「ほう」
「待ち合わせの前に時間が空いたからちょっと寄っただけだ」
この言葉は真実である。待ち合わせの相手も、何の待ち合わせかも言わなかったのはわざとで、それを言わなかったのは、この男ならばどうせ言わずともわかるのだろうと思っていたからだ。無間に十年間投獄されている男が日付の感覚など保持しているはずもないのに、今日が何の日であるかも彼ならばどうせ知っているのだろうと、妙な信頼をしていたからだ。
案の定、藍染は「ああ」とつぶやき、それから少しだけ上を向いた。こんな地下深くでは空など見えやしないのに、さも何かがその瞳に映っているかのように、そっと目を細めて。
「今日か」
いつだか、京楽がこっそりと、一護にだけ伝えてくれたことがある。
それは、あの聡明な少年が京楽にだけ自ら打ち明けた秘密で、だから、ほかの者にはけして言わないでほしいと念を押された上で。それならばなぜ自分には伝えるのかと訊ねると、京楽はなんだか難しい表情で、あの子がそうしてほしいと言ったんだよ、と答えた。
そのとき一護はまだ例の少年とほとんどまともに会話をしたことがなかったので、秘密の共有相手に自分が選ばれた理由が全くもって理解できなかったし、何なら十年経った今でもそれはわかっていないのだけれど、話の内容を聞いたときには、ああ、と思った。ユーハバッハとの戦争が終わったあの夜明け、戦地の丘で少年が自身の父親と対峙したとき、あの言葉たちが何を意味していたのか、やっとわかったような気がした。
少年や、あるいはすべてを知っているのだろう藍染が、真相を知ったときに一体何を思ったのか、一護には到底想像ができない。こんなに救いのない終わり方があっていいのかと思う。
四谷史帆は殺されたのだ。
*
一護を史帆の墓参りに呼んだのは、誰かと言えば乱菊である。しかしそれも酒の席で、盛大に酔っぱらった彼女が悪がらみしながら誘ったという顛末なので、正式に招かれたのかと言われるとよくわからない。もしかしたら一護を誘うつもりはなくて、たまたま口を滑らせたようなものだったのかもしれない。けれど、史帆とずいぶん仲が良かったらしい乱菊が、たとえ酒の席であったとしても彼女の名前や、今度墓参りに行くのだと口に出せるようになったことは良かったと思う。うなずいた一護に、乱菊は上気した顔のまま、だけれど少しだけ悲しそうに笑っていた。
「星降にあるそうだね」
藍染がつぶやき、一護はふと、引っ張られるように意識を目の前に戻す。
史帆の墓の話をしているのだろう。今更この男が何を知っていたところで驚かないので、一護は大した感心もなく、よく知ってんな、とだけ答えたのだが、藍染は一護の返答に笑みを深めて、やはりそうか、と言った。
瞬間、かまをかけられたのだと気が付いてはっとした。相変わらず、この男を前にしての問答は気を抜くと痛い目を見る。
「……勘にしちゃ冴えてんな、くそ」
「彼女の考えそうなことくらいわかるさ」
「はあ? 墓の場所は史帆さんが決めたんじゃねぇだろ」
藍染の意図が何となく理解しきれず、その先の説明を待ったが、藍染はもうこの話題には興味がないのか、首を横に向けて、また何もない空間をぼんやりと眺めるばかりだ。あの大戦のときにも感じたが、案外自由人なきらいがあるらしい。厄介な性質である。
「彼女もあれでいて、存外感傷的なところがある」
ひとりごち、それから一護に目を戻して、
「星降に行ったことはあるかい」
と。
「ねぇよ。今日が初めてだ」
「名前の通り、星が美しい場所だ。よく眺めてくるといい」
遠い昔を懐かしむような声音でそう言って、藍染は目を閉じた。
よくわからないが、もしかしてこれは、惚気られているのだろうか、と思う。どこに惚気の要素があったのかと言われると窮するけれど、なんとなくそんな気がする。
藍染は目を閉じ、何も言わない。そうしてしばらく静寂が続く。
*
「なあ」
「うん」
「あんた、本当は何のために戦ったんだ」
どれくらい経ったかわからない。もはや少し眠っていた気さえする。ふと切り出した問いかけに、藍染はさもおかしそうに首をかしげた。
「おかしなことを聞くね」
その表情には明瞭な嘲笑がある。
「彼女のためだったと言ってほしいのか」
「そうじゃねぇけど……」
「あの子どもでさえそうではないと理解していたぞ」
ひどくあっさりとその存在を口にのせ、それから呆れた様子で小さくため息を吐く。
「君たちよりよほど私のことをわかっている」
そのとき一護がしばらく次の言葉に窮したのは、何を言うべきかわからなかったからではない。藍染惣右介が、あの少年の存在を自分から口にしたことに驚いたからだ。あの少年は藍染のことをけして父とは呼ばなかったし、藍染はあの少年のことを史帆によく似ているとだけ言って、だけど自身の子どもだとは最後まで言わなかった。
一護はこっそりと息を吐き出す。それから続ける。
「恨む気持ちは少しもなかったのか」
藍染惣右介は黙っている。太陽の動きが見えるはずもないのに、どういうわけか男の顔には先ほどよりも影がさし、そうして一護は、藍染の顔からいつの間にかほほえみが消えていることに気が付く。
史帆の死の理由を知ったとき、一護はどうしたって、自分だったらと考えずにはいられなかった。たとえば、もしも織姫が誰かの手によって殺され、そのうえその理由が自分にあるのだと知れば、無理だ。耐えられないと思う。
藍染はまっすぐに一護の目を見ていたが、やがては目を伏せ、小さく息を吐き、
「どうだろうね」
と言った。
要するに、と、藍染は少し間を置いてから続けた。教鞭を取る講師のような発声だった。
「ユーハバッハは、私に市丸ギンの真似事をさせたかったわけだ」
一護は唇を結び、藍染の言葉を黙って聞いている。彼の言葉が自分に向けられたものなのか、それとも誰宛でもないただの独白に過ぎないのかわからないが、いずれにせよ自分が言葉を返せる話ではないのだと思う。
「まあ、少しなら試してみてもよかった。殺したい相手のすぐ下につくというのもなかなかできない経験だからね」
淡々と喋り続ける藍染の声から感情は読めない。常人ならば地獄のような経験だろうに、さも新しいレシピを試す程度の気軽さでもって口にするのだからぞっとしない。それが藍染惣右介であるといわれればそれもそうなのだが。
「じゃあ、なんでそうしなかったんだ」
なんとなく喉が渇いていくのを感じながら、一護は問いかける。答えは返ってこなくてもいいと思う。
藍染の瞳が、そっと細んで一護を見遣る。おだやかに。
「史帆は、あの子どもを守って死んだのだろう」
――そのとき、彼の顔に浮かんだほほえみがあまりにうつくしくて。
あの丘で、少年と言葉を交わしたときの彼の姿を一護は思い出す。朝の光を背負い立った少年を見つめる、父親の瞳のおだやかだったこと。やさしかったこと。
「それならば、彼女は悔いなく死んだだろうと思うからだ」
なあ、藍染、やっぱりおかしいよ。
眉根を寄せ、心の中にひとり思う。こんなのはおかしい。藍染の言葉はきっと正しいし、愛する子を守って死ねたなら本望だと、史帆がこの場にいたとしても確かにそう言うのだろう。迷いなくうなずくのだろう。だけど。
史帆も藍染も、どうして、一緒に幸せになろうとしないのだろうか。
どうして、どうして。彼ら二人が、せめてもう少しでも長く隣に立ち、笑える時間があればよかった。自分だったらきっとそう願った。
「生憎、君たちと僕たちとでは時間の感覚が違うからね」
一護の心を読んだかのように、藍染は苦笑しながら続ける。
「君が思う以上に、長い間一緒にいたさ」
「……だから、もういいってのかよ」
「僕はもう十分もらった。」
同じだけ彼女にあげられたかはわからないけどね。
そうつぶやいてから、藍染は一度視線をそむけた。窓もない暗闇の奥に光を探すように目を向けて、音まで吸い込みそうなほどの漆黒をじっと眺める。その端正な横顔がかなしくて、一護は、どうしようもなく泣きたくなる。
「君が何を気にしているのかわからないが」
藍染がまた口を開いた。顔は横に向けたまま、いつのまにか目だけがじっと一護を見つめている。
「何事もいつか終わりがくる。問題は終わりが来ることそのものではなく、その終わりを後悔なく受け入れられるかどうかだ。ひとつひとつの選択を考え抜いた先、自らの意志で決断してこれたかどうかだ」
この世の道理を説くように。
「少なくとも彼女は最後までそうやって生きた。それ以上、彼女に何を望めと言うんだい」
「……あんたがいいなら、いい」
単純に生きた年月だけを比べるのなら、藍染に対して一護はまだ圧倒的に子どもだ。死神の世界に生きる彼らのそれを諦観として納得するべきなのか、一護にはわからない。駄々をこね続けるのもそれはそれで癪なので、絞り出すように答えたけれど、声は思いのほか低く唸るような音になり、結局は無理矢理うなずいた子どものそれだった。どうやら藍染は少しだけ笑っているようだった。
*
「その花は?」
ふと問われ、一護は藍染の視線の先を辿り、彼が自分の手に提げた紙袋を見ていることに気がつく。持ち手の隙間からは、ここに来る前に花屋で買ってきた、橙色のカーネーションの頭が飛び出ている。
「カーネーションだろ? 史帆さんこれが好きだったって聞いたんだけど」
「へえ、そうなのか」
「知らねぇの?」
「花の話はしなかったな」
「ふうん。気の利かねえ男だな」
目を丸くした藍染が、とたんに吹き出すようにけらけらと笑う。それから「確かにね。反省しよう」と、笑い混じりに告げた。この男がこんなに無邪気に笑うことがあるのかと、少々面喰らいながらも一護は続ける。
「これは俺の分だけど、どうしてもっつーならあんたの分も代わりに供えてやってもいいぜ」
すると藍染は楽しそうに小さく笑い、それなら、と、案外あっさり口にした。
「白いカーネーションでも一緒に渡しておいてくれ」
「白? え、ねえよ。俺の分ちょっと分けるからそれでいいだろ」
「どこかに売ってるだろう。買ってきなさい」
「なんでだよ」
「大戦では御膳立てしてあげただろう」
一護はため息を吐く。あのとき鏡花水月を使い、一護の代わりに胸を貫かれる役割を演じてみせた、その見返りがお遣いひとつで済むのならば安いと思うべきだろうか。
結局のところ、ここでまあいいかと思ってしまうのが一護である。はいはいとうなずいて、一護はくるりと踵を返す。そうと決まれば、さっさと花屋にむかわなければ。乱菊や京楽たちと合流する前に――
そこでふと思い出す。なんでも知っていそうなこの男が、たしかに知らないであろうひとつの事実を。
この男にだって知らないことの一つや二つあればいいのだと思うけれど、そこにあるのは一護の思いではなく、史帆の思いだった。史帆がこの場にいたとしても、もしかしたら彼女はそれを藍染に教えなかったかもしれないけれど、それは意地悪でもなんでもなく、ただあの人が優しいからだ。
一護は足をとめ、もう一度藍染の方を振り返る。藍染はおだやかな顔で整然とその場にたたずみ、じっと一護を見つめている。
「なあ、藍染」
「何だい」
「俺、こないだ知ったんだけどよ。あんたの……名前の一文字目」
「うん」
「あれ、一文字でおさむって読むんだな」
そのとき、藍染の目がほんの少しだけ細められた気が、たしかにしたのだ。それは一護の願望かもしれないけれど、でも、きっとそうだ。そうであればいいと思う。
藍染は何も言わなかった。ただ唇をゆるくほほえませるだけで。一護も彼の言葉は待たずに、今度こそ踵を返し、無間の出口へ歩いていく。どこまでも続くうつろな暗闇には足音さえ鳴らない。
途中、後ろで誰かが何かを言ったような気がしたけど、振り向くことはしなかった。気のせいでなかったとしても、けしてそれは一護に向けられた言葉ではなかっただろう。それは藍染の声かもしれないし、この場にいてほしかった誰かの声かもしれない。わからない。わからなくても、だけど、振り向いて確かめようとは思わないのだ。お遣いは引き受けてやる、あとはお前が自分でやれよ。心の中でそう毒づきながら、後ろで笑う誰かの気配に気づかないふりをして、一護はひとり地上への道を歩き出した。
2021.12.14