「遊びに行かない?」
そんな女の一声に、藍染惣右介の意識はゆっくりと呼び戻された。途方もない時間をこの暗い牢獄で過ごす定めである彼にとっては、玉響にも過ぎない些細なまどろみ。陽だまりの午睡にも似たそこから、ゆるりと這い上がって目を開けた彼の前には今、ひとりの女が立っている。
肩まで下された黒髪はゆるくうねり、形の良い唇は特にほほえむでもなくまっすぐに結ばれている。無限の闇を興味深そうにきょろきょろと見回すその様子はどこか子どものようなあどけなさで、藍染は思わず肩をすくめた。
「何をしているんだ」
「何って、退屈だから遊びに来たんだけど……もしかして暇じゃなかった?」
眠ってるのを邪魔したのは悪いと思ってるよ、と、さして悪びれもせずに言い放って、女は藍染の前にしゃがみ込む。膝の上に頬杖をつき首を傾けるその振る舞いもまた、やはり幼い。女のこれにはもう慣れたものであるし、今更溜息も出ないけれど、とはいえ相手をするのに少々厄介であるのは事実だった。一度この女がやってくると、つまり、大抵の場合において面倒を被るのは藍染の方なのである。
「一人で散歩でもしてきたらどうだい」
「できれば一緒がいいんだけど……」
両手で顎を支え、上目遣いに藍染を見遣る。故意にやっているのかどうか彼にはわからないが、もしそうならばやはり良い性格をしていると思う。藍染のことをよく知る者であれば、彼らのことをよく似ていると評したかもしれない。仮に自分が性格が悪いと貶されたとして、それでも今目の前で小首を傾げているこの女とは、また性質の異なるそれであるような気がするのだけれど。
「私もあなたも、ずっとこんなところにいたら気が滅入るじゃない」
「どうだか」
「たまには外の空気を吸いに行こうよ。ね、ちょっとだけ」
両手を合わせて、お願い、と安くも口にしてから、女はまたちらりと覗き見るように藍染を見上げた。
女が藍染に絡んでくるのは存外よくあることで(無間では他のことが何も起こらないからそう思えるだけかもしれない)、その度に藍染は今と同じように憂鬱な気分にさせられるのだった。どこまでも続く深い闇の中で、一人静かにいられるこの場所のことを藍染は案外気に入っていて、しかも女はそれをわかった上でこうして絡んでくるのだからたちが悪い。
ユーハバッハとの一件も終わって、しばらくゆっくりできると思ったのだが。藍染はまた肩をすくめ、突然降ってきた明らかな面倒事に重い気持ちで立ち上がる。藍染がひとたびその気になれば、拘束具など何も意味も持たない。
無間の同居人である彼女は、それを見て数回まばたきをしてから、心底嬉しそうに顔を綻ばせた。
今が夏であることを初めて知った。あの仰々しい黒の囚人服を脱ぎ捨て濃紺の着物に着替えたはいいが、肌にまとわりつくような湿気はいくら久方ぶりとて情緒を感じる隙もなく鬱陶しい。
女は白緑色の着物に蘇芳の帯をつけていた。高らかに下駄を鳴らして夜道を闊歩する彼女は随分上機嫌で、いっそ鼻歌でも歌い出しそうな勢いである。今この状況を護廷十三隊が見つけたら卒倒するだろうな、と想像しては愉快な気分に浸りながら、藍染惣右介はゆったりとした足取りで女の背中を追う。
「そういえば、夏は夜、って言った人いたよね」
「清少納言か」
「そう。月のころはさらなり、ってね」
踏み出した一歩を軸足にくるりと振り返って、女は空を指さした。示されるがままに見上げた先には、塗りつぶしたような黒い夜空の中、ひとつだけ浮かぶ満月がある。
「京楽隊長に昔はじめて教わったんだけど」
「それは嘘だろう。霊術院でも一般教養として学んだはずだ」
女は何度かまばたきをして、それから視線を明後日の方向に逸らし、んん、と小さく唸った。
「……私たちが院生だった頃からそうだったっけ?」
「そうだよ」
「あなたが講師になってから授業課程に加わったとかじゃなくて?」
言葉の代わりに、肩をすくめることで返答とした。霊術院時代、彼女が然程真面目な院生でなかったことは藍染も知っている。
「……まあ、ね、昔のことはやっぱり忘れちゃうものだし」
「相変わらずだね、君は」
苦笑のこもった藍染の言葉に、女は薄く笑ってまた前を向いた。後ろに手を組んで、また楽しげに月明かりの下を歩き出す。
その、白く細い女の手のひらを見つめながら、藍染はふと彼女の名前を呼んだ。ぴたりと止まった身体が、半分だけ振り返って藍染を向く。
「何?」
「帯が崩れてるよ」
「えっ、うそ」
女は途端に慌てふためいて、ぺたぺたと自分の背を触ろうとする。首をあちらこちらと捻って何とか帯の状態を見ようとするが、できるわけもない。
「おいで」
溜息混じりに手招きすると、女は一拍きょとんとしてから、おそるおそる藍染のそばへと戻ってきた。先程までの威勢はどこへやら、たかだか着崩れ程度ですっかりしおらしくなるものだ。
「あっち向いて」
「うん」
女は至って従順に背中を向ける。鮮やかに赤い帯は結び目が少しだけ乱れていた。放っておいても問題はない程度だが、なにせこれでは見栄えが悪い。
和服の扱いなど藍染にとっては当然慣れたものだ。藍染はさっさと女の帯を元の整然とした文庫結びに整え直してやった。出来上がったそれを軽く叩いて「はい」と完了を知らせると、女は見えないくせにまた必死に肩の上から自分の背中を覗き込もうとする。それを数回挑戦してから、まっすぐに藍染を見据えてほほえんだ。
「ありがとう」
女の笑みはあまりにも美しく、愛らしい。汗ひとつ流さない端正な顔立ちを見つめながら、藍染惣右介は小さく溜息を吐いた。
一体自分は何をしているのだろう。
静まり返った川沿いをどれほど歩いた頃か。軽い足取りで跳ねるように歩いていた目の前の女が、不意にぴたりと足を止めて川の方を向いた。土手道の下に広がった河川敷を見下ろす横顔は、まるで何か珍しいものを見つけたように輝いている。
「どうかしたかい」
「見て」
短くそう言って、女はまた指で指し示す。次はなんだと視線をそちらへ遣った矢先、女が勢いよく河川敷へ飛び降りていった。傾斜がかった土手を器用に駆け降りて、再び藍染の視界の真ん中へ。
「これ、花火じゃない?」
大小さまざまな砂れきの上に膝を折り、女は何やら色とりどりの袋を取り上げる。遠目ではただのごみにしか見えないが、それを拾い上げた女の目があまりにも喜びにきらきらとしているので、藍染は何も言わないでおいた。袂に両手を入れたままゆっくりと土手を降り、女のそばへと近づく。
女の手にあるそれは確かに手持ち花火の詰め合わせで、しかし中身は半分が空だった。周囲を見回してもここで花火が行われた形跡は残っていないのだが、どうもこれだけ忘れていったらしい。ぎらぎらと鮮やかな色が差し込まれた包装はどう考えたって一番目立つものだろうに、随分と間抜けなものだ。
そこまで考えて、藍染の思考に突然一つの予感が訪れた。
つまりそれは、第六勘だとか虫の知らせだとかそういう類のものである。こんなにつまらない直感は初めてだ、と半ば感嘆の念を抱きながら彼女の名前を呼ぶと、花火の袋に書かれた説明に目を凝らしていた女はあっさりと顔を上げた。
「そろそろ帰らないか」
「どうして?」
「今から君が言いそうなことを考えたら、どうもまた憂鬱な気分になってきてね」
「ふうん。ちなみに、何を言うと思ったの?」
「……どうせ花火がしたいとか言い出すんだろう」
「惜しい。花火をしようって言おうとした」
女はひどく楽しそうにからからと笑う。そうして袋の中から一本新しい花火を取り出して、藍染に差し出す。なるほど、女一人ではなくて女と藍染の二人でやりたいというわけだから、完全な正答ではないという言い分らしい。
弱々しい色紙に巻かれた細い一筋。子どもが作ったおもちゃのようなそれを指先に摘んだ、女の手首が、夜闇の中ではまるで灯りのように、ほんのりと白い。
受け取らず、ただ黙ってその手先を見ている藍染に、女はやがて首を傾げて苦笑した。
「ねえ。線香花火って、最後まで火の玉が落ちなかったら、願いが一つ叶うんだって」
「くだらない迷信だね」
「あなた、無間に入ってからノリ悪くなってない?」
女は肩をすくめ、花火を受け取らない藍染にやがてしびれを切らして手を下げた。またしゃがみ込んで、花火の先を地面に向け、もう片手で包み込むようにそっと触れる。破道の三十一、赤火砲、という小さなつぶやきの後、手のひらの中に立ち上がった小さな炎が瞬く間に花火に命を移す。
「まだあるから、あなたも羨ましくなったら言ってね」
ぱちぱち、と。
線香花火は即座に色づいて、小さく鳴きながらまばゆい火花を散らしていく。四方八方へ、泣き喚くように、火は線となって散っていく。
藍染はその場に立ったまま、じっと女の花火を眺めていた。夜に浮かぶ火の飛沫は鮮やかに彼らの視線を縫いとめて離さず、静寂の中に鳴る弾けの音色は彼らに口を開くことを許さなかった。
パチパチ。
安っぽい鳴き声を聞きながら、藍染はふと、この音は果たして彼女の耳にはどう聞こえただろうかということを考えた。
藍染にとってしてみれば、それらは命短い花火の断末魔のようにも思えるけれど、彼女が同じ感想を抱くことはきっとなかっただろう。
だけど、別に共有したかったとは思わない。彼女と藍染はいつだって違ういきものだった。一緒であってくれたなら、だなんて、そんな馬鹿げた妄言を願ったことなど、一度としてありはしない。
やがてゆっくり、膨らんだ火の玉を取り囲んで火花は静まり、最後の一つまでを地面に降らせ、そのまま動かなくなった。孤立した火球だけが取り残され、それから数秒遅れてぽとりとこぼれ落ちた。
花火が燃え尽きた後も、女はしばらくそのまま動かなかった。膝を折り、指先に花火の残骸を抱え、細めた目でじっと火花の残像を探している。
その姿があんまりにさみしいので、藍染は仕方なく声をかけてやった。仕方がなかったのだ。何度も何度も呼んできた彼女の名前をもう一度呼んで、しかしそれでも女は虚空から視線を逸らさない。
「何を願ったんだ」
答えが返ってこなくてもいいと思って訪ねた。しかし女はその問いかけに振り返って、そっと、眉を寄せてほほえんだ。
「あなたの願いが叶いますように、って」
女の声はひどく遠く、ともすれば誰にも届かぬまま、夜の空気へ溶け入り消えてしまいそうだった。
月だけが浮かぶ夜空の下で、女はゆっくりと立ち上がる。
「惣右介、」
そして、藍染が何度も彼女の名を口にしてきたように、女もまた、何度だって口にしてきたその名前を、当たり前のように呼ぶのだ。
「あなたの願いが叶って、良かったね」
――そのときの彼女の表情を、そこに滲んだ感情を、言い表す術を知らない。
女の言葉に瞠目したその瞬間、藍染惣右介の視界は断ち切られるようにぶつりと暗転した。
ゆっくりと、目を覚ます。
重たいまぶたを持ち上げ、目を開ければ、周囲は眠っていたときと変わらぬ底なしの黒に塗り潰されている。
彼は拘束の解かれた首だけを軽く俯けて、深く息を吐いた。淀み、停滞した薄暗い空気。汗を流さずにはいられない熱帯夜の暑さも、肌を這い寄る鬱陶しい湿度もそこにはない。火花の弾ける安っぽい音も、目を焼く火球の赤橙色も、何もない。
自分の溜息の音さえ聞こえない無限の闇に浸かって一人。女の姿など、とうに彼の前にはない。
「相変わらず君は、良い性格をしているよ」
誰にともなくそう呟いて、藍染惣右介は再び目を閉じる。
どこまでも終わらない暗闇も、あの満月の夜空に比べれば幾分ましなような気がした。