薄暗い部屋を、小さな行燈だけが仄かに照らしている。
自分を押し倒す男から逃げるように視線を反らして、ふと部屋の隅にかけられた五の羽織を見つけては、脳が揺さぶられるような鈍い頭痛がした。心臓の近くで、あるはずのない臓器が傷付けられたようにじくじくと痛む。
どうした、と、頭上で男がつぶやく。湯浴みからまだ間もないのか、茶色い癖毛はわずかに湿っていて、雑に乾かされた髪からひとしずく水滴が落ちては、史帆の頬を濡らした。
泣いているみたいだ。そう思うのは、自分が泣きたいからだろうか。
「つらそうな顔をしているね」
「……あなたほどじゃないよ」
こぼれ落ちた声は、自分のものとは思えないほどに乾いていた。最後の抵抗とばかりの皮肉を受け取って、藍染はゆるりと口元を緩ませる。彼の笑みは、彼の真を知らぬ多くの者に対しては、突如、敬愛する隊長を失った悲劇の副官の強がりとして映らねばならない。しかしたった今史帆に向けられたそれは、いっそどこか愉しげでさえあった。
「君は変わらず聡明だな」
片手で眼鏡を外し、そのまま枕元へ捨てるように放り投げる。細められた鳶色はおぞましいほどに底知れず、澄んでいた。
「史帆。僕は、どちらだって構わないよ」
「……」
「君が望む方を選びなさい」
藍染は史帆に嘘を吐くことを好まない。だから、今の言葉だって、きっと本心から告げられた言葉だと、史帆はわかっている。
そして、藍染だってわかっているのだ。史帆が、藍染を選ばずにはいられないことを。わかったうえで、あくまでも史帆自身が選んだことだと言うために、こんな選択のまねごとをさせている。
「うそつき」
紡いだ言葉はかすかに震えた。糾弾の四文字に中身はない。藍染はただ黙って目を細め、史帆の浴衣の合わせに手をかけた。
沼から這い上がるように、緩慢と意識が戻ってくる。ゆっくりと目を開けた先、障子から見える薄い色はまだ夜闇であった。背中に感じる人の温度に、起こさないようにつとめて静かに身体を起こす。
最後の記憶はおぼろげだが、それでも身なりは最低限整えられていた。同じ布団の中には、史帆に背を向け、死んだように眠る男の身体がある。史帆が起き上がってもぴくりとも動かない。呼吸によってその肩が上下する様子すらも、目を凝らさなければ気付けないほどだった。
事後特有の気だるさに小さく息を吐きながら、部屋をぐるりと見回して、そうして史帆はふと、棚に置かれた一本の刀を見つける。鏡花水月。藍染惣右介の魂を写し取ってできた、うつくしい斬魄刀。
何度も目にしたそれから、史帆は不思議と、視線を外すことができなかった。
這うように布団から抜け出して、そのまま彷徨う旅人のようにふらふらと、鏡花水月の前に膝をつく。誘われるように伸ばした手のひらは震え、吐き出した息は白くもやがかった。男の寝息はまだ聞こえない。
――殺すべきだ。
誰に言われるまでもなく、史帆はそれを知っている。
今そこで、手を伸ばせば触れられるそこで、深く眠っている男の首を、この刀を使って掻き切るべきなのだ。すべてが手遅れになる前に。
持ち上げた刀は思ったよりもずっと重かった。自分だって、いつも剣を握っているのに、どうして。そう思って、鞘の中、刃の音が小さく聞こえたその瞬間、何かが壊れたみたいに堰を切って涙があふれた。
震える嗚咽をなんとか止めようと、口を手で覆い隠す。けれどそれだけでは足りなくて、こみあげる濁流のような感情を噛み殺すために俯いた。呼吸が逸り、次々とこぼれるしずくが袖の色を変えていく。声を殺さなければと思うのに、口からは掠れた喘ぎがひゅうひゅうと、頼りなく鳴り続いていた。
殺さなくてはいけない。殺さなくては、いけない。
でも、ころしたくないのだ。
「史帆」
夜の空気に冷え切った史帆の身体を癒やすように、後ろから、ぬるい体温が彼女を抱きしめる。
「苦しいんだね。かわいそうに」
無感情な男の声に、史帆はもう何も答えることができなかった。口を開けば泣き叫んでしまいそうで、それをせき止めるのに必死だった。口を覆う手のひらさえも涙にまみれ、薄汚く光っている。
もう片方の手から、鏡花水月がするりと滑り落ち、音を立てて畳にぶつかった。目を閉じれば、視界は塗りつぶされたように真っ黒になる。
回された男の腕は檻だった。耳元で託宣のように言葉を紡ぐ男が、笑っているのかどうか、史帆にはわからない。
わからない。
「愛しているよ、史帆」