急に日の出が見たいだなんていうから、よくわからないままについてきたけれど、結局到着したところで彼の目論見は理解できそうになかった。生い茂る草原の上に服が汚れるのも気にせずに座り込んで、まだ薄暗い空を見上げているだけの彼は、先ほどから何ひとつ喋らない。
男の隣に並んで座りながら、彼女は寒さに何度か身を震わせ、そのたびに肩から身体を巻くように羽織っていたストールをぎゅっと手繰り寄せた。季節は春の終わり、夏のはじまりの頃合いである。とはいえ朝方は、日によってはまだ肌寒い。試しに小さく息を吐き出してみると、気持ち一瞬だけ白く色づいたようにも見えた。
その行動に気付いたらしい男が、彼女の肩に腕を回し、軽く自分の方へ抱き寄せる。彼女も彼女で、それならばと遠慮なく男の肩に頭をもたれると、その上から小さな苦笑の声が聞こえた。
「君、眠たいんだろう」
「仕方ないじゃない」
「もう少しだから、ほら、頑張って」
「あと何分?」
男は空いた片手でポケットからスマートフォンを取り出すと、そのまま慣れた手つきで画面を操作し、「あと七分」と答えた。最近のスマホは便利なものだ。その端末が予測した日の出の時刻がどの程度正確なのかはさておきとして。
「日の出が見たいなんて、急におじいちゃんみたいなこと言ってどうしたの」
「君、まさか本当に忘れてるのか?」
「何を?」
「……いや、覚えてないならいいよ」
小さく溜息を吐いて、男はまた空を見上げる。斜め下から覗き込んだ表情はいつも通りの真顔だったが、しかし彼女にはどこかふてくされているようにも見えた。付き合いの長い彼女だから読み取れるその感情に、彼女ははたと気が付いて、あ、と思わず声をこぼす。
「……もしかして、誕生日だからってこと?」
「なんだ、覚えてるじゃないか」
男はそう言って肩をすくめた。
つい先ほどまでは不服そうな顔をしていたくせに、誕生日という言葉が彼女の口から出た瞬間、満足したようにわずか表情がゆるむ。この男は存外子どもっぽいところがある。しかし、それを口に出してはまた藪をつつくようなものなので、彼女はこっそり心の中でからかうにとどめておいた。
「でも、誕生日っていっても、日の出を見たい理由は結局よくわからないんだけど」
「だろうね。僕にもさっぱりだ」
「……どういうこと?」
「さあ」
男の声音は楽しそうに低い。戸惑う彼女を煙に巻くためではなく、どうやら彼自身にも本当に真意がわかっていないようだった。
「とにかく、君はあと五分、僕の隣で起きていればいいよ」
「誕生日プレゼント?」
「かもしれない」
男は喉の奥で隠すようにくすくすと笑う。
少しずつ、新しい一日の光を迎えようとする世界の静謐を壊さぬように、それから数分の間、二人は身を寄せて黙っていた。あたりには誰もおらず、時折風が草原を揺らす音だけが、波のさざめきに混じって鳴っていた。白んだ空は彼方までひとしく淡く伸び、夜の残光はどこにもいない。
海に面したこの草原はそういえば、天体観測のための観光地として有名な丘であった。ちぎれた雲のかけらも見当たらない暁の空を見上げながら、彼女はふとそれを思い出す。
「ここ、星が綺麗なんだっけ」
「そうだよ」
「夜のうちから来れば良かったかな」
男がわずかに肩を揺らした。何かと思って彼を見遣れば、やはりその唇は穏やかに、だけどどこかからかうように、ゆるやかな弧を描いていた。
「どうせ起きられないくせに」
「どうせって何よ」
口を尖らせた彼女に、はいはいと言ってあしらいながら、男は肩に回した腕に力を込める。先ほどまでは彼の方がふてくされる子どもだったのに、いつの間にか立場が逆転している。文句の一つでも言ってやろうかと彼女が口を開きかけたとき、まるでそれを制するように、男が静かに、空いていた片腕を持ち上げた。
ひとつだけ、まっすぐに伸びた人差し指が空をさす。釣られるように視線を空へ戻せば、ほら、と、男がやわらかくつぶやいた。
ささやくように。そうして、遠い昔を思い返すように。
「夜が明けるよ」
ぼんやり浮かぶ水平線から、淡い光が幾重にも織りかさなってはあふれ出して、二人の世界を呑んでいく。
薄い灰色だった海さえ揺り起こすように、踊る波間のひとつひとつをきらめかせる。
ちいさな衣擦れのように草原が鳴り、海が鳴り、そうして世界はうつくしく、新しい朝を迎えるのだ。
あんまりにまぶしいので、彼女は思わず男を真似て目を細めた。身体だけは新たな光を浴び、深く深く、呼吸していた。
夜明けの瞬間はほんの一瞬に過ぎない。光に浸食された世界は気付けばもう夜の薄暗さなど忘れてしまい、ゆるりと起き上がった太陽の下で光にほころんでいるばかりだ。きれいだね、と彼女が独り言のようにつぶやくと、そうだね、と隣で男もつぶやき返す。
返事があるのが幸せだった。
すっかり朝の色に染まった空から隣の男に視線を戻し、彼女は小さく首をかしげる。男はまだ前を見ていた。やってきた朝をただじっと見つめていた。
「……これが、誕生日プレゼント?」
「ああ」
「これで良かったの」
「これが良かったんだよ」
何の躊躇もなく男は即答する。数ある中のどれかひとつではない、これが、これこそが唯一だったのだと、いともたやすく言いきってみせる。その迷いのなさに、彼女はむしろ面食らって目をまばたかせた。
ゆっくりと男が振り向き、まだ理解しきれずに眉を寄せている彼女を見ては苦笑する。その顔に、穏やかで優しい鳶色の瞳が朝日を受けて輝いているのを見つけて、彼女ははっと息を呑んだ。
「君と一緒に朝を迎えたかったんだ」
いつだか、彼女はひとつの夢を見たことがある。長く苦しい夢だった。内容はもうとうに色褪せ、ほとんど思い出すことはできない。けれど、それでも一つだけ、たった一つだけ、目に焼き付いている光景があったのだ。
何かのかけらが心にぴたりとはまるように、弾かれるように、彼女はやっと理解する。
――このかがやきを、きっと、ずっと知っていた。
そんなの、と言いかけて、彼女は口をつぐむ。震える吐息が喉の奥から押し出されるように上がってきて、そのまま嗚咽に変わって今にもあふれていきそうだった。
なぜだかわからない。わからないけれど、どうしようもなく嬉しくて、だから彼女は、いっそ声を上げて泣いてしまいたかった。
男はやわらかくほほえんだまま、今すぐにでも泣き出しそうな彼女を見ては、少しだけばつの悪そうに眉を下げる。壊れ物を包むような丁寧さで彼女の体を抱き寄せるから、彼女はそのやさしい手に甘えて、男の胸板に額をぶつけた。また視界が真っ暗になっても、それで構わなかった。ふたりはもう朝の下にいて、光はどこにだって逃げたりしない。
「そんなの、……」
「うん」
「……そんなの、何回だって……」
「……うん」
喋る声は徐々に震え、とうとう堪えきれずに、彼女は言葉を切って唇を噛んだ。頬の上をあたたかい涙が流れ落ちていった。
一緒に朝を迎えること。何回も何回も繰り返された、そしてこれからも繰り返されていくであろう、たったそれだけのことが、彼女には今この瞬間、信じられないほど尊い。
はるばるとふたりで旅をした。そうして今やっと、ここにいる。
ありがとう、と彼女は言う。こちらこそ、と男がささやく。
「……しあわせ、だな」
「これからだよ」
何かを思い出したように遠い声でつぶやく彼女に、男は肩を揺らしながら言い返す。震えるように静かに泣き始めた彼女の背を、男の手のひらがそっと撫でる。その体温があたたかくて、うれしくて、愛しかった。このぬくもりが、ずっとほしかった。そんな気がする。
2021.5.29