胸に穴を開けられ、左腕を亡くし、それでも一切の支障なく平然と立ち上がっているのだから、最早一護には彼がどういう生命体であるのか想像もつかなかった。先ほどユーハバッハの黒くまがまがしい霊圧に飲み込まれたかと思ったのだが、いざ戦争が終わってみれば、まるで傍観者のような様子で、少し離れたところに立っていた。一瞬心配して損した、と心の中で吐き捨てるように呟く。
息を切らす一護と恋次を一瞥してから、藍染惣右介は何一つ口を開かず、黙って空を見上げた。時刻はまだ夜明けと呼べるかどうかの頃合いで、白みつつある空にはまだ点々と星粒らしき影がある。
あの戦争以来藍染はずっと地下に収容されていたから、空を仰ぐのはこれが数年ぶりのはずだ。細められた目には感情は読み取れないが、久方ぶりに見上げた空には思うところがあるのかもしれない。藍染惣右介といえど、心がないわけではないことを一護は知っている。
「――星が出ているな」
やがて、静謐な空気をつとめて壊さないようにひそめられた声が、そっと一護の鼓膜を揺らした。
「明けの明星。一番星とも言うね。知っているかい」
「……名前くらいは」
「そうか」
大けがを負っているはずなのに藍染の声はずいぶんと穏やかだ。一護の答えを聞くと、またすぐに空を見上げ、何かを思い出すようにじっと黙っている。
その横顔を見ながら、一護がどうするべきかと考え込んでいたとき、ふいに前触れもなく、藍染が溜息を吐いて一護を見遣った。
「……京楽春水といい、君といい、いささか様子がおかしいな」
「は、」
「何か私に言いたいことがあるのか?」
まだ心の準備ができていない状態でいきなり水を向けられて、心臓が大きく跳ねた。藍染は、知らないのだ。
京楽によって少し前に護廷十三隊に共有されたある事実を、彼は知らない。
言うべきか言わないべきか、言うとしても何をどう切り出せば正解なのかわからず、一護は一瞬口をつぐんだが、相手は藍染だ。何を取り繕ったって無駄だと気付き、一護は半ば諦めたような気持ちで口を開く。
「藍染、あのさ、……」
――瞬間、しびれるような霊圧が二人の肌を刺した。
藍染も一護も同時に目を見開いて、急速に近づいてくるそれの方向に視線を遣る。護廷の本部がある方向。そこに、ぼんやりと宙を駆ける小さな影があった。
遠い人影は徐々にその大きさを増して、やがて、顔が、服装が認識できるまでにはっきりと鮮明になる。それが誰であるのかを理解した瞬間、一護ははっと息を呑んだ。だから、藍染がそのときどんな表情をしていたのか、一護は知らない。
それは一人の少年だった。
見とれてしまうほどに巧みな瞬歩で駆け、そうして軽やかに着地してみせた少年は、わずかに肩を上下させながら、ゆっくりと顔を上げた。やわらかな茶髪に端正な顔立ちは、今の今まで一護と言葉を交わしていた男によく似ている。
ただ、同じ鳶色の瞳だけは、どこか史帆の面影を強く感じさせた。
「……君は、」
ぽつり、藍染の口から言葉がこぼれる。穏やかな声音の影に、確かな驚愕が滲んでいるように、一護には聞こえた。
少年は何も言わない。黙って、父とよく似た色をした瞳で、まっすぐに藍染を見つめ続ける。一瞬、ほんの少しだけ、その唇が何かをかたどったような気がしたけれど、音は聞こえなかった。
何かを続けようと、わずかに開いたままだった口を閉じて、藍染が目を伏せる。そして何かを悟ったかのように、そうか、と呟いた。
ずいぶんと長い間、そうして誰もが黙っていたと思う。沈黙を破ったのは、ひどく無感情な声だった。「どうした」と。石のように冷たく、無機質な声。
「私に何か話があって来たんだろう」
突然目の前に降り立った少年が誰であるかなどわかっているのだろうに、彼の声は信じられないほどに冷ややかだった。その声音に眉をひそめて、しかし次の瞬間、一護は弾かれるように、それがわざとつくられた偽りの冷たさであることに気付く。
「恨み言でも言いに来たのかい」
藍染の声に、少年はわずかに委縮するように首をすくめた。眉を寄せ、行き先を見失った迷子のような顔で、それでも目だけはまっすぐと、藍染から逸らさないでいた。
やがて、決意するように一度唇を噛んでから、少年が口を開く。
「……恨まれてるって思ってるの」
まだ声変わりのしていない、幼い声。戦争の跡地にはどうも似つかない。しかしなぜか、乾いた空気に乗せられて、その声はずいぶんはっきりとその場にいた者の鼓膜を揺らす。
藍染と同じだ。彼の声は特徴的で、厳しさも怖さもないのに、耳を傾けずにはいられない、不思議な力を持っている。そして、音色は全く異なれど、少年の声にもそれと似た響きがあった。
「彼女が死んだ理由を、君は知っているだろう」
「……」
「まさか、私がこの場にいることで恨む気持ちが薄れたとでも?」
藍染が肩をすくめ、嘲笑するように空笑いする。
「……そんなこと、思ってない。あなただって、あの人のために戦ったわけじゃないでしょ」
少年は呆れたように小さく息を吐く。藍染は答えなかったけれど、その口元は少年の聡明さに感心するようにわずかに歪んでいた。
「あなたを、少しも憎んでないかって言われたら、……多分、頷くことはできないけど」
「うん」
「でも、その理由は、あなたが思ってるようなものじゃない」
少年の声は滴る雨粒みたいにぽつりぽつりとこぼれおちる。藍染惣右介を前にして、必死に、心から言葉を紡いでいるのだ。ひとつずつ。
「あなたが、あの人を泣かせたから」
丁寧な言葉遣いは史帆にそっくりだった。最後に言葉を交わしたあの姿を思い出しながら、一護は少年の喋り方に、その面影をたしかに重ねる。
少年の言葉に、藍染が瞠目する。それを見て、揃いの鳶色の目を細めて、少年は続ける。
「あの人は、何も後悔はないって言った。幸せだって言ってた。それは嘘じゃなかったと思うけど、……でも、そう言うたびに、必ず泣くんだ」
藍染の顔がはっきりと歪む。眉を寄せ、顎を引き、何かの苦痛に耐えるような表情。それはほんの些細な変化だったけれど、それでもそこには確かに、痛みがあるようだった。
「あなたは、あの人がひとりにならなかったから、それでいいって思ってるんでしょ。でも、あの人が本当にそばにいてほしかったのは、やっぱりあなただったはずなんだ」
史帆が死んだこと。そしてその最期まで、きっとこの少年がそばにいたであろうことは、もう護廷十三隊の皆が知っている。おそらくは藍染もそれをわかっていて、だからこそ、史帆は不幸ではなかったのだと言うのだろう。死ぬ瞬間まで、大切な誰かとともにあれたなら。
しかし、その言い分を理解し受け止めたうえで、少年は、藍染の間違いを正すのだ。
「――あなたが、あの人を泣かせたんだよ」
それは、藍染惣右介にとって、最も苦しい断罪だっただろう。
喉の奥から、震えながら断罪の言葉を告げた少年に、藍染は何かを答えるより先に、わずかに顔を俯ける。目をつむり、小さく息を吐き出すように、肩がかすかに揺れた。
しばらく、また皆が黙っていた。時折思い出したように吹き付ける風が、音を立てて彼らの着物の裾をさらっていく。それがやんだあるとき、「そうだね」と、穏やかな声が風に代わって空気を揺らした。
「……なるほど。たしかに、痛いものだな」
続いた言葉はきっとただのひとりごとだった。あるいは、それが届けられるべきだったかもしれない者も、もうこの場にはいないのだ。
少年が少しだけ表情をゆるめる。きびしく硬く張り詰めていた心に、少しだけ安堵が与えられたように。
「……あの人のこと、大切だったんだね」
「大切だったさ」
ためらいなく返される真摯な言葉に、少年が目を細める。その目が先ほどよりも輝いているように見えて、ふいに一護は、それが水滴の反射なのだと気付く。
「愛していた。心から」
そして、その言葉が響いた瞬間、待っていたかのように少年の目から涙があふれた。まだ薄い太陽に照らされて、それでも頬を滑る透明なしずくは色鮮やかに光り輝く。
静かに涙を流し、嗚咽に肩を上下させる子どもに、藍染が穏やかに目を伏せた。いつの間にか、張り付いた仮面のような笑みは消えていた。
「……君は、史帆によく似ているな」
「……」
「そのままでいなさい。僕のようにはなるな」
少年は答えることなく、ただ顔をうつむけ、時折鼻をすすっては顔を手でぬぐう。誰もがその少年に手を差し出すことなどできぬまま、少しずつ、空が明るんでいく。夜が明けようとしているのだと、対峙する親子を見ながら一護はぼんやり思った。
やがて、しばらく少年の泣く音がおさまった頃、藍染が静かに口を開いた。
「名を聞いても?」
壊れ物に手を触れるときのように、静謐で、やわらかな声だった。偽のそれが消えた後も、彼のほほえみは絶えない。たしかな感情をたたえた笑みは、一瞬、泣くのをこらえているようにも見えた。
「おさむ。四谷惣です」
なぜか敬語で名乗る少年が面白かったのか、藍染が目を丸くして、直後小さく吹き出すように笑った。
「本当に、よく似ているな」
「……どういうこと?」
「いや、いい。気にするな」
肩をすくめ、しかし至極楽しそうに笑いながら、藍染がまっすぐに少年を見つめる。尊いものを見つけたときのように、まぶしげに目を細めて。
ゆるやかに吹き付ける風の中で、対峙する親子はまたしばらく黙っていた。そうしてどこか遠くから喧騒が聞こえ始めたとき、藍染が落ち着いた声で、子どもの名を呼ぶ。
「行きなさい、おさむ。もう、さよならだ」
はっとしたように目を開いて、直後、少年の顔が少しだけ歪んだ。明確な不安を浮かべたその表情に、藍染がそっと声をかける。
「何も心配はいらないよ。一歩ずつ前に進みなさい」
別れはもうすぐそこだ。それをわかって、最後の言葉を、ひとつずつ大切に手渡すように、言い聞かせるようにゆっくりと紡ぐ。
「未来など誰も見えやしない。それでも皆、恐怖と戦いながら先へと歩むんだ。恐ろしくても、苦しくても、自ら選んで歩いていくんだ。君の母親がそうだったように」
少年が何かをこらえるようにぎゅっと目をつむる。目じりに溜まっていた涙が、押し出されたようにあふれてはまた頬を流れていく。登り始めた朝日に照らされ、水滴は虹のようにきらめいた。
喧騒は少しずつ近づいてくる。これが最後だと、誰もがわかっていた。
少年はしばらく黙っていたが、やがて、うん、と頷いた。
「……僕からも、一つ伝えたいことがあるんだけど、聞いてくれる?」
その言葉に、藍染は黙って、優しく細めた目だけで先を促す。涙で輝く瞳をまっすぐに藍染に向けて、少年ははっきりと語る。
「僕、死神になるよ」
――紡がれた声はりりしく精悍で、朝を知らせる鐘のように世界に鳴り響く。
少年の言葉に、藍染は一瞬たしかに目を見開いたけれど、すぐにまた優しいほほえみを取り戻して、頷いた。それだけだ。もう、彼は言葉を紡ごうとはしない。前へ歩き出そうとする少年を、ただ静かに見送ろうとする。
大きく息を吸い込み、涙を最後乱暴にぬぐって、少年がにっこりと笑う。その表情は、強くうつくしい、この場にいる全員が知っている、ひとりの女に似ていた。
「さよなら、藍染惣右介」
戦火に傷つき荒れ果てた大地に、地平線からのぼった太陽が癒すように光を注ぐ。
白んだ空はいつの間にか透き通るような青色に澄み渡り、世界の端から端までを余すことなく包み込む。
肌を撫でる朝の風があまりにも穏やかで、男はひとり、まどろみを誘うほどの心地よさに息を吐いた。心臓のあたりがずいぶんとあたたかくて、これが幸福だろうかと、他人事のようにぼんやり思う。
さようなら。つぶやくように、その言葉を繰り返して、目を閉じる。朝の光に消えていった少年の背中を思い出して。それをただひとり、心から愛した女の姿と重ねて、もう一度。
――さようなら、史帆。
誰かが小さく笑ったみたいに、一瞬ゆるやかに空気が揺らいだ。夢から醒めるようにゆっくりとまぶたを持ち上げた先、遥か遠くまで広がる世界が、やわらかな光を迎えている。
夜はとうに明けていた。星は眠り、青に浮かんだ月をも包んで、新しい朝がやってくる。
(永訣 終)