東流魂街第六十一地区、星降。その名前は紛れもなく、いっそ自然の恵みさえ感じさせるほど緑に包まれたこの丘地を評して与えられた名前だった。周囲に光を発するものや背の高い建物はほとんどなく、他の地区とは比べ物にならないほどに夜空が美しいのだという。
草原は鮮やかに、どこまでも雄大に広がっていた。たしかに噂通り、ここで夜空を見上げたら大層きれいだろう。そんなことを思いながら、夕日の差す丘に向けて京楽春水は足を進める。
時折吹き抜けるおだやかな風が、足首をくすぐる草をそっと撫でていく。音は衣擦れのそれのようにささやかだった。一歩一歩踏み出すたびに、呼応した心臓が大きく鳴るのが、身体の内側から響いてくる。
史帆以外の誰かの筆跡によって書かれたあのメモを見たとき、京楽はやっと、すべてを理解した気がした。記録された住所の意味も、それがわざわざあの部屋に残されていた意味も。だからこそ、乱菊には言わずにここへやってきたのかもしれない。後々知ることになろうとも、今は京楽とて、ひとりで受け止めなければ立っていられないかもしれなかった。
やがて、星降に入ってから少し歩いて、メモに書かれていた場所までたどりついて、足を止める。どこまでも続くシロツメクサの草原。
その中に、包まれるようにしてそれはあった。
――ああ、やっと。
「……見つけた、史帆ちゃん」
答えるように風が吹く。年甲斐もなく、目の奥が熱かった。
沈む夕日の赤色と、影差した深い緑に挟まれて、眠るように、ひとつの墓が立っていた。
墓石なんて立派なものはない。ただ、小さな苗木が植えられて、その前に大量の菓子と文庫本が並べられているだけ。名前を示すものは何もないけれど、それでも、墓の前に供えられた品々が、いっそ笑えるくらいに、そこに眠る者を明瞭に示していた。
そして、それらを飾るように、苗木の前には真っ赤な花束が置かれている。
その花に、京楽は見覚えがあった。たしか何十年か前に、それこそ史帆が教えてくれた花だ。現世では暦に応じて様々な行事があって、その中に一つ、親に花を渡す行事があるのだと。
墓の前にしゃがみこんで、京楽は一度唇を噛む。口の中に溜まった唾を飲み込んで、大きく息を吐きだしてから、両手を合わせて目を閉じる。
どうして、死んでしまったのだろうか。京楽にはそれはわからない。この二年間、史帆がどうやって生きてきたのかも、いつ死んでしまったのかもわからない。京楽は本当に、何も知らなかった。
長い時間をかけて、心の痛みに耐えて、やっと藍染を選ぶことを決意したのだろう彼女の心は、今更護廷十三隊には帰れない。彼女がそういう子であることを、京楽は知っている。
それでも、乱菊の言った通りだ。
たとえ護廷十三隊の隊士でなくなったって、会いに来てほしかった。
できることなら、頑張ったねとその頭を撫でて、抱きしめてあげたかった。
それが自分の身勝手な願望だとわかっていても、どうしても、そう願わずにはいられないのだ。京楽にとって、乱菊にとってだって、史帆は誰にも代えがたい、大切な存在だったのだから。
しばらく、黙祷を続けた。やがてゆっくり目を開けたとき、ふと、添えられた文庫本の中に一枚の封筒が挟まれていることに気が付く。上質な羊皮紙で、丁寧にも封蝋を押されたそれには、宛名も差出人も書かれてはいなかった。
そっと取り上げて、なぜか手にしっくりと馴染むその手紙に、京楽は一度息を吐く。また一度目をきつく瞑ってから、ゆっくりと封を開けた。ぱき、と封蝋がかわいた音を立てて剥がれる。中には一枚の便箋があった。
つづられたのは、見慣れた筆跡。
まぎれもない、史帆の筆跡だった。
「それどうしたの、史帆ちゃん。何のお花?」
隊首室にやってきたかと思えば、やおら窓際の花瓶に花を挿していく史帆に、京楽は目を丸くしながら訊ねた。慣れた手つきで茎を切られ、次々花瓶に収まっていく花は鮮やかな赤色で、フリルのように複雑な花びらの形状をしている。
「これ、現世での行事らしいですよ。子どもが親にあげるお花なんですって」
「なるほど、僕は史帆ちゃんのお父さんだったんだねぇ、知らなかったよ」
冗談めかして言うと、史帆も楽しそうに笑う。
「本当は、母親に上げる花みたいですけどね。きれいだからいいかなって」
手先が器用な史帆はあっさりと花束一つ分を活け終えて、どうだと見せびらかすように京楽に花瓶を指し示した。ぱちぱちと拍手すると、嬉しそうにほほえむ。時折見せるこういう幼い態度は、たしかに自らの子どものようにかわいかった。
「で、何ていうお花なの?」
「ジャコウナデシコ」
窓際に置かれ、差し入る太陽の光に照らされた花を眺めては、史帆は尊いものを見るように目を細める。一緒に光に浴びて薄く輝く彼女自身も、どこか神聖なもののように見えて、京楽は一瞬口を噤む。
「現世では、カーネーションっていいます」
そう続けて、史帆はまた京楽を向き、輝くようにはにかんだ。
「――……」
なにかもわからぬまま、ただ震える心を落ち着けるために大きく息を吐いて、便箋を閉じる。折れないようにそっと封筒にしまって、京楽はそれを握りしめたまま、後ろを振り向いた。
史帆は手紙を残していったけれど、この墓にそれを置いていったのは別の誰かであるはずだった。この墓を立てたのも、花や菓子を供えたのも、花枯のあの古びた小屋にメモを隠していったのも、その誰かに違いなかった。それが果たして誰なのか、京楽はやっとわかった気がした。
藍染惣右介の霊圧を見たと言う隊士の震えた声や、史帆の身体にあった霊圧が本当に藍染のものであったかと問いかけた卯ノ花の声が、京楽にその答えを教えるかのように蘇る。胸の中にすとんと何かが落ちたように理解して、京楽は目の熱さを堪えようと眉根を寄せた。
京楽が振り向いたことで、隠れるのをやめたのだろうか。いつからか、ずっと京楽の後をつけていたらしいその気配は、もう隠されてはいなかった。まるで、見つけてくれと言っているみたいに。
――君なんだね。
心の中で泣くようにひとりごちて、ただ気配だけを滲ませる空間に、そっと声をかける。
「……出ておいでよ。顔を見せとくれ」
紡いだ声は、思ったよりもずっとやわらかく響いた。ためらうような少しの逡巡の後、おそるおそるといったように、目の前の夕暮れの空気が虹色に輝き、水平に割ける。
目を伏せるようにそっとほほえめば、もう、涙がこらえられそうになかった。