隊舎に戻り、早々に無間の記録を確認しに一番隊へと向かった七緒を見送ってから、京楽は隊首室の椅子に腰掛けて大きく身体を伸ばした。想定外のことがあったからか、思ったよりも肩が凝っていた。浮竹あたりは、それを言えばまたからりと笑って、お前の肩が凝るのなんて見たことないとからかうのだろうけれど。
さすがに今日の一件は報告書を書かなければいけないだろう。先の面倒を見据えて、京楽は溜息を吐く。藍染惣右介らしき霊圧を確認しに行ったはずだったのに、なぜだかそれだけでは足らず、指名手配中の史帆の霊圧まで見つけてしまった。握りつぶせば隊長職剥奪もありうる。
それでも、京楽の私情は複雑に絡まっていた。たとえそれが捕縛という形であったとしても、史帆にもう一度会いたいという思いはある。しかしもしも捕まれば罪人としてどんな罰を受けるのかわからない以上、その先が怖いのも確かだった。
史帆が逃げたのは、彼女が護廷十三隊を捨て、藍染惣右介を選んだからだ。四番隊の隊舎牢から何一つ残さずに史帆が消えたとき、空っぽになった牢屋を見た瞬間、自分たちは選ばれなかったのだと理解した。偽物の空座町の上空で、決戦の合間に聞こえた藍染の言葉に希望を抱いていた京楽には、その現実はしばらく受け入れがたかったのだけれど。
――どうやら彼女は、君たちを信じることにしたらしい。
肌を突き刺す緊張感の中で対峙しながら、しかし藍染惣右介はあのとき、肩をすくめてほほえんだ。隊長羽織すらもどこかに投げ捨てて、抜いた二刀を両手に構え、斬りかかる一瞬をはかっていた京楽は、その言葉に目を見開いた。
史帆は決戦の場には来なかった。その意味が、自分の望むものであってほしいと思っていた最中に、藍染がそれを読んだかのように、言ったのだ。
――まったく、彼女にはしてやられた。
そうつぶやいて笑う藍染はしかしどこか楽しそうで、思えばあの表情だけが、京楽が知る中で唯一たしかに触れた、藍染の本心だったのかもしれない
あのときの藍染の言葉が嘘だったとは思わない。しかし藍染が言った言葉の意味を京楽がすべて理解したのは、史帆が消えた後だった。彼女は護廷十三隊を捨てて藍染を選んだけれど、それでもなお、護廷十三隊を信じたのだ。
護廷十三隊が、藍染惣右介を止めると信じていたのだ。
その先にある未来が、自分がひとりになる未来だとわかっていても、それでも護廷十三隊を信じ、すべてを捨てて藍染惣右介を選んだのだ。
だから、やっとすべてを理解したそのとき、京楽は、藍染惣右介を憎まずにはいられなかった。それがほとんど八つ当たりに近い感情だとわかっていても、彼を赦すことなど到底できそうになかった。
「――京楽隊長、」
茫洋と漂っていた思考が、ふと響いた軽いノックの音と呼びかけに覚醒する。考え込みすぎて、部屋の外に誰かが近づいてきたことにも気付かなかった。七緒が帰ってくるには少し早い。そう思った瞬間、疑問に答えるように「卯ノ花です」と相手が名乗る。
「卯ノ花隊長? どうぞ」
慌てて返事をすれば、京楽が立ち上がるのと同時に扉が空いて、いつも通り穏やかな表情を浮かべた卯ノ花がゆるりと部屋に入ってくる。
「こんにちは、京楽隊長。流魂街への出張、ご苦労さまでした」
「こりゃどうも。それは?」
「皐月堂のみたらし団子です。勇音が買ってきてくれたのですが、食べきれそうにないので、差し入れに」
「これはこれは、お気遣い頂いて申し訳ない。よければ座っていきなよ。お茶を淹れよう」
京楽がソファに促すと、卯ノ花はたおやかに目を細めて、こくりと頷いた。彼女がソファに座る合間、京楽は受け取ったみたらしを小皿に移して、ついでに手早く緑茶も淹れておく。いつも七緒に任せていたが、自分にも平隊士、あるいは席官、副隊長職だった時代はあるので、急須を傾けながら、この一連の流れに少しだけ懐かしさを覚えた。
湯気の立つ湯呑みと団子を差し出すと、卯ノ花はありがとうございますと軽く頭を下げる。
「おもたせで悪いけど」
「いえ。いただきます」
片手で底を支え、もう片手を側面に添えて、ゆっくりと湯呑みに口をつける仕草はみやびやかだ。護廷十三隊でも数少ない、京楽の先輩と呼べる卯ノ花の優雅な手つきをぼんやりと眺めながら、京楽も自身の湯呑みに口を付けた。
「それで、卯ノ花隊長、どうしたの」
少しだけ渋みの出てしまったお茶に自分ながら内心眉をひそめつつ、卯ノ花に問いかける。あまり上手には淹れられなかったようだが、卯ノ花の表情は微塵も変わっていなかった。
「何かお話があったのかい」
「お話、というほどのものではありませんが」
そこで卯ノ花は一度言葉を切った。穏やかながらも鋭い視線が、そっと問い詰めるように京楽を見る。
「花枯に藍染惣右介の霊圧があったことは、私も気になっていたので。どうでしたかと」
糾弾するような口調でも、追及するような口調でもなかったけれど、その目線一つで嘘は吐けないと直感した。まさか何があったか知っているはずもないのに、タイミングが良いというのか勘が良いというのか、よくわからない。もはや卯ノ花なら何を知っていようが驚かないが。
みたらし団子に手を伸ばしながら、京楽はばつが悪く肩をすくめる。
「あったよ。市丸ギンの墓に、藍染惣右介らしき霊圧が残ってた」
三つ並んで刺された団子を噛んでちぎる。聞いたことのない菓匠だったが、もちもちとした弾力のある白玉も、それに絡んだ濃厚なたれも絶品だった。もし史帆がここにいたら食べさせてあげたかった。
京楽の言葉に、卯ノ花はそうですか、と小さく相槌を打っただけで、それ以上は言葉を紡がない。自分の言葉を待っているのかどうか京楽にはわからなかったけれど、それでもなぜか隠す気にはならなくて、京楽は半ば観念した気持ちで言葉を続けた。
「同じ場所から、史帆ちゃんの霊圧も出たよ」
「……」
卯ノ花は黙っている。口を閉ざしたまま、目だけをわずかに細めた。
「それを報告しないわけにはいかないよなって、今気が滅入ってたところ」
「……そうですか」
湯呑みを持ったまま、卯ノ花は一度目を閉じる。瞑想するような沈黙は静謐で、彼女が再び目を開けるまでの数秒、京楽はじっと待っていることしかできなかった。
「京楽隊長。あなたは二年前、藍染惣右介の出廷依頼を提出されていましたね」
「……史帆ちゃんについて証言させろってね。うん、言った。却下されたけど」
卯ノ花が頷く。二年前、藍染の離反が終結したのち四谷史帆が行方をくらませた際に、彼女の離反の意思の有無について藍染惣右介に証言を求めようとした一件である。陳情の筆頭に声を上げたのは京楽と乱菊で、他にも史帆と関りのあった隊長格複数名が陳情に名を連ねた。
「私も浮竹隊長にお話を聞きましたが、連名についてはお断りさせていただきました」
頷く。声をかけたものの、卯ノ花が参加を表明しなかったことは、当時すでに浮竹から聞いていた。だから何がというわけでもないし、強制する気も、それに後ろ指を刺すつもりもないが、ただ、どうしてだろうとは思った記憶がある。
そしてやはり京楽の思考を読んだように、卯ノ花は「なぜなら」と続けた。
「なぜなら、あの逃亡は、四谷元三席が自ら望んだことだからです。裏切り者と呼ばれてでも、彼女はきっと自ら藍染惣右介の手を取ることを選んだ。もう護廷十三隊に帰る気はなかったのでしょう」
「……そうだね」
卯ノ花の言葉に、京楽は深く頷く。その通りだ。彼女の言っていることは正しい。
「それに、藍染惣右介に証言をさせたところで、彼はきっと嘘をついてまで彼女を庇うことはしなかったでしょう。それは、彼女の決断への侮辱に等しい行為です」
流れるように言葉を紡いで、卯ノ花は目を細める。もう戻ってこない何かを懐かしむように。
結局、藍染はすべてを手に入れたのだと、京楽は思う。史帆が――すべてを捨ててでも藍染惣右介を愛することを選んだ彼女が、最後に護廷十三隊に心を半分預けたことだけは悔しそうに笑っていたけれど、それでも結局、史帆が彼を選んだ時点で彼は手に入れたいものをすべて手に入れていた。その時点で、彼はもう勝負には勝っていたのだ。
そうだね、ともう一度呟いた。いつの間にか冷めたお茶はさっきよりもずっと渋みが強調されて、ずいぶんとまずかった。
「京楽隊長」
「うん?」
「実はもうひとつ、あなたのご意見をお聞きしたかったことがあるのです」
まずかっただろうに、文句ひとつ言わずに冷めたお茶を飲み干して、卯ノ花が空の湯呑みを丁寧に机に置く。
「二年前、四谷元三席が虚圏から救出されたとき、彼女が衰弱していた理由はご存知ですか」
「大量の霊圧を短時間に浴びたからじゃなかった?」
言いながら、京楽は小さく溜息を吐いた詳細な理由をもっと簡潔に、かつ直接的に言うことはできるけれど、そういった事情はあまり他人が口を出す部分ではないだろう。(ただし、相手が彼でなければの話だが。)
その通りです、と頷く卯ノ花はさすがの貫禄で、動揺した様子などほんの少しもない。
「そこでお聞きしたいのです。あのとき、四谷元三席の身体から検出されたのは、藍染惣右介の霊圧だったと思いますか?」
卯ノ花の問いが何を意図したいのかがわからず、京楽は首を傾げた。今更そんなことを聞いてどうするのだろう。そもそも卯ノ花の問いは、疑う余地もなく自明の話だと思っていたが、一体何が引っかかっているのだろうか。
「それは、そうじゃないの? 検査結果なかったっけ」
「検査でわかったのは、その霊圧が四谷元三席本人以外の誰かのもの、というだけ。それが誰のものかまでは、検出された霊圧があまりに不安定で、照合できなかったようです」
そう、と頷きながら、京楽はもう一度、わからないという意味を込めて卯ノ花を見つめた。
「卯ノ花隊長、どうしたの。何が気になってるんだい?」
京楽の言葉に、卯ノ花は一度何かを考えるように目を伏せたが、やがて小さく「いえ」とつぶやいた。
「……なんでもありません。すみません、お気になさらず」
「……」
「ただ、四谷元三席の霊圧があった件は、しっかりご報告されるのがよろしいかと」
「うん、そうだね」
どこか様子がおかしい卯ノ花をいぶかしみながらも、そう答える。卯ノ花がこういう曖昧な態度をとるのは珍しいことなのだが、これ以上問い正しても、きっと何も喋らないだろう。また、必要になれば彼女の方から話してくれるはずだ。
報告書作りは七緒が戻ってきたら任せることにしよう。そう決めてまた新しいみたらしに手を伸ばした京楽に、その心を見抜いたのか、卯ノ花がふっと顔をほころばせた。