光の射さない暗い牢獄を、ひとり歩いている。手に提げた小さなカンテラの灯りだけを、ほんのわずかな頼りとして。
中央地下第八監獄、”無間”。瀞霊廷でも最も重い罪を犯した囚人たちを収監するためにつくられたこの牢獄は、どこまで行っても一寸先すら見えない暗闇であり、息苦しいほどに陰惨な場所だった。かろうじて吸い込める空気も例外なく淀んでいる。通常ならば隊長格とて容易に入れる場所ではないが、それでも京楽春水が面倒な手続きをしっかりと踏んでまでこんな来たくもない場所にわざわざ足を運んだのは、当然ながらそこの囚人に用があるからだ。
無間に踏み入れてからしばらく歩いた。喉を通る酸素の汚さにも慣れてきた頃、京楽は、一つの牢の前で足を止める。鉄格子があるのかさえわからない、檻であるかすらわからないその漆黒の中に、それでも確かにその男はいるはずだった。
「……やあ」
音すらも闇に飲み込まれ、響くことなく溶けていく。まったく、大した空間である。こんなところにあらゆる感覚を奪われた状態で閉じ込められて、気が狂わない方がどうかしている。
返答を期待した男の声は――霊圧を用いた対話ならあるいは、と思ったのだが、返ってこなかった。手に握っていた鍵の一つをずらりと並んだ床の鍵穴に差し込むと、引っかかることもなく滑らかに飲み込まれた。捻れば呆気なく、くるりと回る。
「霊圧での対話はしない主義だったかい? それとも、流石の君も、ここではそれすらできないのかな――さあ、これで霊圧じゃなく口で応答ができるはずだ。普通なら二年も口を塞がれてれば喋る事なんてできないだろうけど、君に限っちゃそんなことはないだろう」
からかうように笑うと、やっと反応があった。そうだな、とつぶやきながら、囚人が近づいてくる気配。まだ口の封印しか解いていないはずなのに、既に男は何の妨げもなく立ち上がり、歩いているようだ。本当に、理解の範疇などもう超えている。
二年間、あらゆる感覚も神経も封じられていたくせに、男はあっけらかんと京楽の前に立ち、それは流暢に言葉を操ってみせた。男の口から吐き出される言葉の数々は二年前と同じ、あるいはそれ以上に端的で的確であり、聡明な正気はかけらほども失われていないらしかった。常人の感覚に当てはめれば信じがたいことなのだが、こと今においてはむしろありがたくもある。
久々に新鮮な空気が吸いたくないかと問いかければ、ユーハバッハに潰される無様な尸魂界の空気をか、と呆れたように言い返される。地上で何が起きているかは知らないくせに、――いや、あるいはユーハバッハから直接聞いたのかもしれない。しかし、もうひとつひとつ明らかにしていく時間は残されてない。
ひとまず交渉が終わったと思われたところで、京楽は懐に手を入れて、一度大きく息を吐いた。用意された椅子を前に、藍染はまだ動かない。
「ところで君さ」
「なんだ」
「市丸ギンの墓に行ったことある?」
京楽の言葉に、藍染ははっきりと眉をひそめた。あざ笑うというよりは本気で理解ができないという顔で、「気でも違ったか」という。おかしな反応ではないだろう。だって、市丸の墓が立てられたのは藍染がここに投獄された後なのだから。下手すれば、市丸の墓があることさえ彼は知らなかったはずだ。
「……君が何を期待しているのか測りかねるが、生憎私は脱獄などしていないよ」
できない、ではなく、していない、と言うところが彼らしい。予想通りの返答に、京楽は安堵を感じつつ肩をすくめる。
「だろうね。まあ、わかってたけど……念のため確認しておきたくてね」
「確認」
「君がまだ、何も知らないってことをさ」
京楽の言葉に、藍染は無感情な目をそっと細めた。しかし、それだけだった。数秒殺気を交わすようににらみ合って対峙して、そうして小さく溜息を吐いてから、藍染が自らの足で椅子に歩み寄る。
その途中、京楽の横を通り過ぎたところで、その足がふいに止まった。そういえば、と斜め後ろからかかった声に、京楽は振り向くことなく耳を澄ます。無間では声すらも残響なく消えていくので、気を抜けば聞き逃してしまいそうになるのだ。
「京楽春水。私も君に聞きたいことがあるんだが」
「何」
冷たく突き放すように先を促すと、楽しそうに低い男の声が返ってきた。
「史帆の行方は掴めたのかい」
「……」
全く、相変わらず大層性格が悪い。内心で毒づきながら、京楽は編み笠をつまんで引き下げる。振り向かずとも、きっとあの悪辣な笑みを浮かべているのだろうことは容易に想像がついた。
藍染はもしかしたら、知っているのかもしれない。しかし、それをたてに京楽を嘲っているつもりなのであれば、それは彼のおこがましい勘違いだった。まさか、誤算があるだなんて、彼は思ってもいないだろうけれど。
――だから、君は、何も知らないって言っているんだ。
「あの子なら、もう見つけたよ」
京楽の返答に、藍染は驚いた様子もなく、ただ「そうか」と頷くだけだった。
藍染惣右介の離反による戦争が終結し、虚圏にて意識のない状態で保護された四谷史帆が四番隊の隊舎牢から姿を消したのは、終焉から三日後の夜中だった。はじめて気が付いたのは、定時確認で明け方にその牢を訪れた四番隊の隊士である。毛布は綺麗にたたまれ、牢の中には霊圧の痕跡一粒も残っていなかったし、牢も壁も破壊はされていなかった。ただ、牢の鍵は内側から開けられていたらしい。
戦いそのものが終わったとはいえ、数多くの負傷者を出した護廷十三隊は忙しなくばたついていたが、四谷史帆が姿を消した――おそらくは、明確に本人の意思で逃亡した――ことによって、さらなる混乱に騒然となった。
やがて、四谷史帆が藍染惣右介の仲間であったと結論づけられ、指名手配されるのに、そう時間はかからなかった。
その対応について、反対の声が上がらなかったわけではない。特に強く再審議を要求したのは、たとえば十番隊副隊長の松本乱菊。ともすれば四十六室に直訴するのではないかと思われるほどに激しく憤っていた彼女も、そのままでは彼女まであらぬ疑いをかけられてしまうと危惧した周囲の者によって厳しく止められ、最終的には苦い表情で口を噤んだ。
なお、かの戦争の元凶である藍染惣右介は、四谷史帆の逃亡より先に裁判を終え、無間に投獄されていた。彼女の直属の上司であった京楽春水は複数名の隊長格の連名によって、藍染惣右介の再出廷および四谷史帆についての証言をさせることを四十六室に要求したが、却下された。
その陳情に名を連ねたのは、京楽春水をはじめ、松本乱菊、日番谷冬獅郎、浮竹十四郎、伊勢七緒、そして平子真子である。
それから、約二年が経過した。
指名手配を受けてからも、一度として四谷史帆がその姿、あるいは霊圧の残滓さえも護廷十三隊に掴ませたことはない。無実の罪人はあまりにも鮮やかにその身を隠し逃げ続けていた。まるで、もともと四谷史帆という死神などいなかったのではないかと思えるほど。
日に日に彼女の声を思い出せなくなっていることに京楽がふと気付いたそのとき、彼は信じられない報告を部下から受けることになる。それは、四谷史帆の件とは全くの別件で、流魂街に派遣されていた八番隊の隊士からの報告だった。ひどく怯えた様子で隊舎へ戻ってきた彼は、隊首室になだれるように駆け込んで、肩を上下させながら告げた。
藍染惣右介の霊圧が在った、と。
それは、どう考えたってただの勘違いと思うしかない。藍染惣右介は既に無間に沈んでいて、地上に出ることなどないはずだ。それでもその部下はけして納得せず、あの押しつぶされそうなほど圧倒的な霊圧は間違いなく彼のものだと言って譲らなかった。あまりにも顔を真っ青にしながらそう繰り返す部下にいたたまれず、ひとまず彼に休養を言いつけ下がらせてから、京楽は七緒と顔を見合わせた。そのときの七緒の、苦みを煮詰めたような表情が京楽は忘れられない。
なお、その隊士が派遣されていた先は、東流魂街第六十二地区。名を花枯という。