霊圧をたどって階段を下った先は、先ほどまでの廊下の人工的な明るさとは打って変わって薄暗かった。床の中央には窓からぼんやりと切り取られた四角い光が落ちている。その中に、ぽつりと浮かぶ人影。
窓のかたわらに、彼は立っていた。ポケットに手を入れ、ただひとり月夜を眺めていた彼が、止まった足音にゆっくりと振り向いて、その端正な口元をそっとゆるませる。
「空を見てたの?」
「月を見ていたんだ」
出会ったときと同じ頑なさで、藍染は言葉を返す。見るものが月であれ星であれ、あるいはそれらすべてを包む空であれ、こんな低い階からではほかの塔に遮られて、見るものも見えないだろうに。
「屋上とかから見ればいいのに」
「屋上がないんだ。だから、ここから見る」
静かな声は、夜の冷たい空気によく似合う。いつもこうして、ここで一人で空を見上げていたのだろうか。その様子を想像して、史帆は少しだけ悲しくなった。
少しだけまた歩いて、彼の隣に並んで、史帆も、窓の外を見た。虚圏の月は、相変わらず作り物のように不自然な欠け方をしている。
「……おかしな月」
独り言のつもりだったが、隣の幼馴染は敏く聞き取って、小さく笑った。けれど、それだけだった。
「黒崎一護とは話せたかい」
市丸と同じことを聞くので、史帆にはそれが少し面白い。さすがに百年も一緒にいたら、似る部分もあるのだろうか。市丸以上に長い時間彼といた自分が言えたことではないけれど。
うん、と頷いて、史帆は口を噤んだ。
かっこいい子だった。憧れだった。だが、それらの思いはもう、置いていかなければいけない。
すでに虚圏のいくつかの場所で、霊圧のぶつかり合いが起こっているのを感じていた。争いは徐々に虚夜宮の中核へ、迫るようにその距離を縮めている。少年たちが戦っているのだ。井上織姫を取り返すために。藍染惣右介を倒すために。
「もうじきだな」
何てことない雑談のように、藍染は淡々と口を開いた。その目は変わらず月を見ている。
「隊長格が来たら、尸魂界と虚圏の接続を断ち、旅禍の少年たちと加勢した隊長格をこちらに幽閉する。それが完了次第、現世へ侵攻する」
それは開幕の宣言だった。多くの血が流れ、多くの犠牲が出るだろう未来を、藍染はまっすぐに見据えて、史帆に告げる。月の笑う空から彼へ顔を向けて、史帆は目を細めた。
「戦うんだね、護廷と」
「そうだ」
「みんな、殺すんだね」
紡いだ声は震えなかった。ただ無感情に、澄み切った水のような冷たい響きだけをしていた。この百年余り、きっと誰よりも長い時間を一緒に過ごした幼馴染の横顔が、瞳だけを動かして史帆を一瞥する。
「そうだ」
彼の声に迷いはなかった。当然だ。迷っているならば革命など起こせない。
ふと、尸魂界にいる大切な人たちの姿が脳裏をよぎった。京楽、乱菊、関わりあるすべての隊士たち、すべてが史帆にとって大切な人だ。大切な上司で、大切な後輩で、大切な友だちだ。彼らの死の可能性など何があったって考えたくはない。
そしてそれは、今隣に立って一緒に月を見上げている、幼馴染も同じだった。
彼を、失いたくなかった。
「もう、決めたのかい」
藍染の声はひどく優しい。やわらかく与えられた問いかけに、史帆は一度目を閉じた。
もう心は揺らがない。締め付けられるように胸は痛むけれど、それでも。
ありがとう。史帆は心の中でつぶやく。ありがとう、ここまで待ってくれて。ずっと、ずっと、決めきれないでいた自分が、最後に納得がいく選択ができるように、ただ黙って一緒にいてくれて。
今、横に立つ幼馴染は。かつてともに星を見上げ、ともに鍛錬し、ともに護廷十三隊で長い時間を過ごした、――ずっと隣にいてくれた、この男は、今からその手で多くの命を握り潰そうとする世界の敵なのだと、史帆はもうわかっている。
すべてを知った。その上で選んだ。だからもう、後悔はない。
「うん。もう、決めた」
「そうか」
「聞いてくれる?」
「勿論」
こみ上げてくる感情に声が震えないように、一度大きく息を吐いてから、史帆は、藍染と向かい合う。彼がそこにいることを確かめるように名前を呼ぶと、藍染はただ黙って、いつくしむように目を細める。
そのやさしい鳶色の目があまりにいとしくて、かなしくて、好きだと思った。
「すきだよ、惣右介」
掴まれた手首が強く引かれて、驚く間もなく腕の中に閉じ込められる。
背に回された手のひらがあたたかくて、それに気が付いた瞬間、堰を切ったみたいに涙があふれた。喉からしゃくりあげるように嗚咽があがってくるのを必死に堪えながら、震える声でもう一度、すき、とつぶやく。
失いたくなかった。愛していた。
彼を選ばない理由ならいくらだってあったのに、それでもずっと迷い続けたのだから、きっと最初から答えはわかっていたのだろう。そこに、選択の余地があったのならば。
「ありがとう、史帆」
出会ったときから変わらない穏やかな声が、史帆の心の傷を癒すようにそっと鼓膜を揺らす。
「僕も、君が好きだよ」
もう何も言えなくて、頬をぬるいしずくが伝っていくのを感じながら、史帆は頷く。幼馴染の胸板に額を押し付けて、唇をかみしめて、ただ静かにむせび泣いた。背を掻き抱く彼の手が、この先たくさんの血を浴びるのだろう。それがわかっていても、史帆にはもう、どうしようもない。
肩を震わせて泣き続ける史帆を抱きしめたまま、藍染が優しく、その頭を撫でる。それは、史帆だけがずっと知っていた彼の優しさだった。たとえ他の誰が知らなくたって、史帆だけは知っていたのだ。
夜はいつまでも明けない。差し込む冷たい月光は藍染の背中に遮られ、もう彼女を照らさなかった。それでいい。目を閉じ、ただ自分を抱きしめる男の体温だけを感じながら、痛む心の中でつぶやく。
――それでいい。