足元のおぼつかない感覚がやがて消えて、何か硬い床を踏みしめる感覚に変わる。ゆっくり目を開けると、そこは史帆に与えられていた部屋の中だった。ここまで運んでくれたスタークの姿は既になく、部屋にいるのは史帆だけだ。静かな部屋を一度ぐるりと見回してから、史帆は溜息を吐いて、部屋を出る。窓からさしこむ月の光が背にあたって、少しだけ冷たかった。
「おかえりさん」
ふと、かけられた声に視線を上げる。廊下の壁にもたれて、市丸がひらひらと手を振っていた。
「市丸隊長……」
「おん。話せた?」
史帆が藍染に頼んで、一護と話をしに行ったことは市丸も知っている。うん、と史帆は静かに頷いた。
「相変わらず、かっこいい子だった。……織姫ちゃんが好きになるのもわかるよ」
その言葉に、市丸は驚くように眉を上げた。
「なんや、史帆さん、ああいう子が好みなん? 藍染隊長と全然ちゃうやないの」
史帆はたまらずに小さく笑った。こういうからかわれ方をするのも、ずいぶんと懐かしい気がする。
そうしてまた、沈黙が訪れた。廊下は指先まで震えそうなほどにひんやりとしていて、吐く息も白みそうだった。
なぜ、彼はここに来たのだろうかと、史帆は不思議に思う。自分の選択を見届けに来たのだろうか。自分の選択が、もしかしたら間接的に彼の目的にも重なるかもしれないから。
「……あなたはさ」
ふと、空気を揺らした声に、市丸がわずかに身じろぐ。
「どうして、惣右介についていったの」
「取り返したいもんがあるからや」
確認のつもりで問いかけた。答えが返ってこなくてもいいと思ったが、市丸は案外あっさりと真意を告白する。
「命をかけてでも?」
静かな問いに、市丸は一拍間を開けて、「せや」と肯定した。その声があまりにりりしくて、史帆は目を細める。わずかに覗いた市丸の、透き通るような水色の虹彩はまぎれもなくうつくしい。
みんな、何かを選んで生きている。何かを捨てる覚悟をして、その痛みに耐えて、そうやって自ら前へと足を踏み出すのだ。
「みんな、強いね」
「……」
「あなたも、東仙隊長も、惣右介も、……みんな、選んできたんだね」
声はわずかに震えた。
泣いてはいけない。決断のその瞬間まで、泣かないと決めていた。親友の胸に抱かれて、そう決めたのだ。
また数秒、二人とも黙っていた。やがて、ぽつりとこぼすみたいに、市丸が、優しい声でつぶやく。
「史帆さんも、強うなったよ」
眉根を寄せ、目を閉じる。涙と笑みが同時に湧き上がってくるような感覚に、こらえるように唇を噛んだ。
随分と遅くなってしまった。史帆よりずっと年下の彼にもとうに抜かされた。愚かなほどに優柔不断だと自分でも笑ってしまいたくなるのに、どうしたって誰もが史帆に甘いのだ。申し訳ないと思うし、情けないと思う。
「ありがとう」
「おん」
「彼を殺したのは、許せないけど」
「許さんでええよ。ボクも、謝れへんから」
そっか、と史帆は苦笑した。
どこからか、遠い喧騒が聞こえてくる。一度、深く息を吸ってから、口を開いた。
「市丸くん」
「うん」
決意を込めて。
「教えて。惣右介は、どこにいるの」
市丸がそっと目を細める。百年前、大人に手を引かれて歩いていた子どももまた、すっかり背丈を伸ばし、自ら選んで彼の戦場へ向かおうとしている。けれど、自分だって同じだ。それだけは、史帆は自信を持って言える。百年前とは違うのだと、胸を張って言える。
やがて、市丸が少しだけ口元を緩めた。敵意や侮蔑などほんのかけらもない、ただただ優しいほほえみだった。
「この塔の下の方にひとつ、おっきい霊圧があるんわかる?」
「……わかるけど、でも、惣右介の霊圧じゃ」
「合うとるよ。結界張ってるからぼやけてわかりにくくなっとるだけ。それたどって、ここからまっすぐ行ったらええ」
「……」
「一本道やから、迷ったりはせんよ」
「わかった。ありがとう」
まっすぐ目を見つめて礼を言った史帆に、市丸はほほえんで、どういたしまして、と言った。
「……あなたとも、きっと最後だね」
「せやろね」
市丸はあっけらかんと頷く。その答えを聞いて、史帆はほほえんだ。最後だというのに、彼には少したりとも寂しがる様子はない。ふりすらしないその姿が、いかにも彼らしい。
彼の横を通り過ぎて、史帆はまた歩き出す。市丸ももう、何も言わなかった。ただ、踏み出した彼女を黙って見送っていた。
夜の静寂に包まれたまばゆい白亜の廊下を、踵を鳴らして歩む。前へ前へと進むその足に、もう迷いはない。
痛みを受け入れる覚悟なら、もうできていた。