突然目前に現れた史帆に、その少年はずいぶんと驚いた顔をした。前、彼の通う高校で再会したときもそうだった気がする。驚かせてばかりだと小さく笑いながら、スタークの手を離れて数歩、彼に近づく。
少年が目を見開いていたのはほんのわずかな間で、彼はすぐに顎を引いて、史帆に対してまっすぐに警戒の目を向けた。破面とともに現れた彼女のことを疑っているのだろう。当然だ。
「……史帆さん、」
戸惑いながらも名前を呼ぶその声は、しっかりと硬い。
「あんた、藍染に、攫われたんじゃねぇのかよ。なんで、そいつと一緒に……」
褐色の瞳には、警戒と困惑がきれいに混ざっていた。少年をじっと見つめながら、史帆はそっと目を細める。
「……攫われたことになってるんだね」
史帆のつぶやきに、一護が眉を寄せ、刀をいっそう強く握った。史帆は苦笑し、肩をすくめる。
「……違ぇのかよ」
「どうかな。惣右介が、そういうことにしてくれたみたいだけど」
史帆が、護廷十三隊であり続けることを選んだときに、ちゃんとそこへ戻れるように。裏切り者の烙印を押されないために。だからあのとき、わざわざ京楽に向けてああやって宣言してみせたのだ。どちらを選んでも構わないと言った藍染は、たしかに、どちらの道をも史帆に保証してみせた。
もう一度、確かめるように、一護が史帆の名を呼ぶ。先ほどよりも、覚悟のこもった声で。
「……あんたが藍染の味方なら、俺は、あんたを斬るぜ」
「……」
「俺は、藍染を倒して、井上を助けるために来たんだ」
知ってるよ、とつぶやいた声は、しかしなぜか音にならなかった。ただ口の形だけが、なぞるように言葉をかたどる。
痛みをこらえるように目をつむり、ぎゅっと眉根を寄せて、史帆は心の中で繰り返す。
――わかっている。私は、彼にはなれない。
大切な人たちを守るために、少年は剣を振るう。そして、大義は彼の戦う理由に味方をした。
途方もなくうらやましかった。彼のようになりたかった。
いつだって何にだって、まっすぐに立ち向かっていける強い心も、大義に愛を重ねられる幸運も。何もかもが妬ましかった。
自分がそれを手に入れられなかったのは、この百年、選択することから逃げ続けた結果なのだろうとわかっている。それでも、もしかしたら同じようにありえたかもしれない彼の姿を見るたびに、心のどこかで憧憬を抱かずにはいられなかった。
それでも、もう、史帆は選ぶしかない。目の前に自らの足で立つ少年の姿を見ながら、史帆はすとんと、心を決める。
あなたのようにはなれないとしても、せめて最後は、自分の心で選ぶんだ。
「一護くん」
「……なんだよ」
「あなたに、一つ聞きたいことがあって来たの」
黒崎一護は史帆にとって、自分がそうでありたかった姿の影だ。だから、彼と対峙するのは、どうしたって心が痛い。自分がそうありえなかった現実を、無自覚の刃で容赦なく胸に刻み込まれるようなものだった。
それでも。彼の言葉を聞くことがたとえどれだけおそろしくても、史帆は、どうしても彼に聞きたいことがあった。かつて自分にもあったかもしれない可能性に、希望があったと思いたかった。そのために踏み出した一歩を、誰かが勇気と呼んだのだ。
「もしも、あなたの守りたい人が、あなたの守りたい世界を壊そうとしてさ」
「……」
「どっちかを、殺さなきゃいけないとしたら。……あなたなら、どうした?」
冷たい石の廊下で、二人は真っ向から対峙して見つめあう。双極の丘で、荒れ果てた大地の上で、お互いぼろぼろになりながらお疲れさまと労いあったあのときよりずっと、心臓のあたりで何かが軋むように痛んだ。
「――どうして、殺すとか殺さないとか、そんな話になんだよ」
やがて、ぽつりと、つぶやくように一護は言った。批判するというよりは、本当に心の底から、史帆の言い分がわからないというように。
「どうして、止めようとしねぇんだよ。話し合って、ぶつかって、そうやって二人で、折り合いつけるって方法はねぇのかよ」
「……」
「どっちも守りたいから、どっちも捨てられないから、……だからあのとき、俺たちと一緒に戦ってくれたんだろ」
史帆はそっと目を閉じる。仕方がない。心の中で、そうつぶやく。
一護の言っていることは正しかった。それでも、できないのだ。二人で折り合いをつけることが、もう史帆と藍染にはできない。
藍染と史帆は他人だ。ほかの誰もがそうであるように、折り合いをつけなければ一緒に生きてなどいかれない。
それでも、折り合いをつけてでも一緒にいたいと願う史帆を、藍染は自ら突き放した。藍染は史帆に歩み寄ることをしなかった。心を渡そうとしなかった。だから、一緒にいるためには、史帆からそのそばへ歩み、自らの心を差し出してつなぐほかにない。
「……それが、できたら良かったのにね」
史帆が勇気を出して、藍染が決意を固める前にその手を彼に伸ばしていたなら、あるいはそうできた未来もあったのかもしれない。けれど、史帆はそうしなかった。
どんなに悔やんだって、もう遅い。それは、取り戻せない過去の話だ。
「ありがとう、一護くん」
「……」
「最後に、あなたに会えて良かった」
決然とそう告げて、史帆は一護に背を向けた。もう彼に話すことはない。
史帆さん、と焦ったように名を呼び、一護が駆け出す。その逸った足音を聞きながら、肩にそっと乗せられた手の温度に、史帆は目を閉じた。