娯楽らしい娯楽が一つとしてない部屋では、時間を持て余すほかない。ソファは身体が沈み込むほどやわらかかったし、ベッドは寝転がって両手を広げても余裕があるほど大きかったけれど、この部屋には史帆の好きな本もなければ、話し相手になる誰かもいない。よほど外に出て歩き回ろうかと思ったが、市丸の言った通り、うかつに出ればすぐに迷ってこの部屋に戻ってこれなくなることが明らかだったから、史帆は諦めてこの部屋でじっとしていた。
部屋には時計はないし外もずっと夜なので、時間感覚はないが、食事の時間を知らせに来る誰かしらが、かろうじて史帆に今が朝なのか夜なのかを知らせていた。食事は、部屋に運んできてくれることもあれば初日の晩のように呼び出されることもあったし(藍染が食事をともにしたのはあのときだけだったが)、あるいは時折食事の合間に差し入れだといってお菓子とお茶が運ばれてくることもあった。しいて言えば、それがこの部屋における唯一の娯楽だ。
藍染との会食から二回の睡眠と五回の食事を終え、おそらくは昼過ぎに当たる頃。ベッドでまどろんでいたら、前触れなく扉がノックされ史帆は身体を起こした。はい、と答えると、すぐに扉が開いて、廊下から一人の破面が入ってくる。それは、初日の夕食のときに出会った破面の男だった。
「スタークさん?」
「差し入れだ」
彼が押しているカートにはたしかに、いくつかのクッキーと紅茶らしきものが乗せられていた。どうやらおやつの時間らしい。前回までは名前も知らない破面が配給に来てくれていたのだが、今日はスタークがその役目を引き受けたようだ。第1十刃であるスタークが、こんな雑用のような仕事をするのは意外だったけれど。
「酒は抜けたか?」
「さすがにおとといの夜だからね。もう回復したよ」
スタークは興味なさげにそうかとだけ言って、ポットからカップに紅茶を注いだ。ベッドから飛び降り、黒い袴を揺らして席につくと、湯気の立つカップがそっと差し出される。
熱いカップを両手で持って、恐る恐る口を付ける。それをスタークは何も言わず、立ったまま見つめていた。ここではそれ以外の可能性がほぼないのだが、破面に給仕されるのはやはりまだ慣れない。
「この後、十刃を招集した会議がある」
「会議?」
「侵入者についてだと」
脈絡がないなと思いつつ、史帆は頷く。少し前から、知った霊圧をいくつか、この城から少し離れたところに感知していた。遠すぎて誰のものかははっきりとわからなかったのだが、どうやら侵入者だったらしい。そう言われて、史帆は特に迷うまでもなく、感慨もなく、井上織姫を助けに来たのだろうと思った。(どうしてそこで、誰かが自分を助けに来たという可能性を考えなかったかは史帆にもわからない)。
「それで?」
「会議に来たければ来てもいいってよ、藍染サマが」
「……じゃあ、行く」
どうせこの部屋にこもっていてもやることはないので、史帆はまた頷いた。スタークが小さく肩をすくめる。
「やるせねぇな」
「え?」
「だって、アンタの友だちなんだろ、侵入者」
史帆は一瞬呆気にとられて、ただ呆然とスタークを見つめた。まさか、破面に同情されるとは思っていなかった。それは不愉快ではなく、あくまで単純な驚きだったのだが。
「スタークさんって、優しいんだね」
「……面倒なのが嫌いなだけだ。今のアンタの立場みたいな」
なかなかに毒舌である。思わず苦笑する。
仕方のないことだ。スタークが面倒だと言い放った、今の史帆を取り巻く状況を生み出したのは、藍染を除けば紛れもなく史帆自身だった。
まだ少し熱いカップをおいて、史帆は目を伏せる。
友だち、とスタークは言った。かつては朽木ルキアを救うために、今は井上織姫を救うために、まっすぐに藍染惣右介に立ち向かう愚直な少年は、関係に言葉を与えるのならばたしかに、史帆の友だちと呼べる存在の一人だったかもしれない。
「……スタークさん」
「なんだ」
「スタークさんは、どうして戦うの?」
「藍染サマへの義理だよ。本当は、戦いなんて好きじゃねぇんだけどな」
頭をかきながら、スタークは気だるげに答える。どうやら本当に好きではないらしかった。義理、と繰り返した史帆に、小さく頷く。
「あの人が、俺たちに仲間をくれた。その義理だ」
俺たち、と複数形になったのは、きっと、今この場にいない彼の片割れの少女のためだろう。
目を伏せて、何かを思い返すような遠い目で、スタークはつぶやく。
「俺たちは別に、誰かといられりゃそれで良かったんだ。アンタとは違う」
その声にはいっそぞっとするほどの哀愁があった。その根源に何があるのか、史帆には到底わからない。ただ、想像もできないほどの孤独があったのかもしれないと、遠くから推測するだけだ。
「アンタみたいに、痛んででも誰かを選ぼうとする強さはねぇよ」
「……」
「藍染サマとは、ちゃんと喋ったのか」
問われ、史帆は目をそらす。虚圏に来た初日の食事を思いながら、「したけど」と小さくつぶやくと、スタークが目を細めた。
痛んででも、選ぼうとする。ずいぶんときれいな言い方をするものだ。空笑いしながら、史帆は言葉を続ける。
「……私は、そうだけど、彼は……」
「……」
「惣右介は、痛くなかったって」
スタークは相変わらず無表情のままだが、その眉は何かを慮るように少しだけ下げられていた。そうかとつぶやき、小さく息を吐く。
「でも、痛みがなかったっつっても、決断はそこにあったんだろ」
俯けていた顔を上げて、史帆はスタークの顔を見つめた。決断、とおうむ返しすると、彼はこくりと頷く。
「それなら、やっぱり藍染サマはアンタのことが大切だったんじゃねぇのか。最終的にアンタを選ばなかったとしても、そこに選択の余地があったんなら」
細められた目は穏やかだった。史帆はふと、その灰色の瞳に自身の上司のそれを重ねる。史帆を労わり、心から心配し、これ以上傷つけまいと最後まで藍染を非難した上司の、あたたかい瞳を重ねる。
「……そうなら、いいね」
まだほとんど知り合ったばかりなのに、スタークはずいぶんと史帆に甘い。甘やかされてばかりだ、と自嘲しながら、史帆はそっと、良い温度になった紅茶をまた一口飲んだ。
お茶を終えて、連れて行かれたのは長いテーブルと背の高い椅子が並んだ会議室だった。すでに何人かの十刃らしき破面は席についていて、スタークとともに現れた史帆を好奇の目で舐めるように見つめている。いかにも死神ですよと宣言するような黒い死覇装を着たままなのだから、仕方がないといえば仕方がないかもしれないが。
どうしたものかと考えあぐねていると、後ろから肩を叩かれた。
「いらっしゃい、史帆さん」
「市丸隊長、」
「こっちおいで」
手招いて、市丸は部屋の隅に向かう。ちらりとスタークを見ると、彼はすでに史帆を放って自分の席につこうとしていたところだった。これ以上彼についていって、血の気の多そうな十刃に近づくのも避けたいので、史帆は言われた通りギンの後を追う。
壁に沿ってギンと並んだところで、かつ、と新しい足音がした。
「やあ、十刃諸君」
王のような声。何やら好き勝手に騒いでいた十刃が、一瞬で静まり返る。
「敵襲だ」
藍染の声は聞いたことのないような威厳をまとっていた。強いて言うならば、双極の丘で黒腔へと吸い込まれていったあのとき、護廷十三隊の隊士たちに向けて言い放った時のそれと少し似ている。
空けられた上座に足を進める途中、藍染がふと足を止め、市丸と並んで立つ史帆に視線を遣った。鳶色の目がほんのわずか細められる。来たのか、とでも言いたげな顔。しかしそれは数秒にも満たない短い時間で、史帆が何か反応を返すより先に、すぐに藍染はまた十刃たちへと視線を戻し、席についた。
「要、映像を」
「はい」
いつの間にか市丸とは反対側の壁際に控えていた東仙が壁のレバーを引くと、藍染と十刃が座った卓の中心に映像が現れた。そこに映し出されたのは、虚圏、虚夜宮の外を走る三人の男の姿。
わかってはいたけれど、実際に映像としてそれを見ると、少しだけ胸が痛んだ。彼ら三人、特にその真ん中を走る橙色の髪の少年を、史帆はよく覚えている。
――黒崎一護。
織姫を助けるためにやってきた、力なき少年。双極であれだけ力の差をつきつけられながら、それでも藍染惣右介を倒すためにやってきた、愚直な少年。
迷いなく夜の砂漠を走る彼の姿を見て、史帆は、無性に泣きたくなった。
決めなければ。彼の疾走に突きつけられるように、そう気が付く。
もう時間なのだ。もうすぐ、幕が切り落とされる。考えるだけで心は握りつぶされたように苦しい。
――けれど、史帆は、自分がどちらを選びたいのか、とうの昔にわかっていたような気もするのだ。
会議が終了すると、ばらばらと十刃が部屋を去っていく。中には会議が始まる前のように、市丸の隣に立つ史帆に対して不審げな、あるいは良くない種類の好奇の視線を遣る者もいたが、誰ひとり声をかけることまではしなかった。藍染がまだその場に残っていたことが抑止になったのかもしれない。
スタークがまた頭をかきながらやってきて、「送ってく」と言う。その言葉に返事をせず、史帆は一度、まだ座ったまま立ち上がらない藍染を見た。おい、と、もう一度呼びかけるスタークを無視して、彼のもとへ早足で向かう。市丸はただ、黙ってそれを見ていた。
「惣右介」
残った紅茶を楽しんでいた男は、名前を呼ばれて緩慢とその顔を上げる。
「なんだい」
「お願いがあるんだけど」
「……言ってごらん」
そっと目を細めて先を促した幼馴染に、史帆は、願いを告げた。
「最後に、……――」
*
心に刻まれた傷はあざになって消えない。
いずれ、何かを捨てなければいけないのだとわかっていた。わかっていながら、心に傷を重ねることに耐えられなくて、足を踏み出すことを拒んだのだ。
それでも、いつまでも分かれ道の前で立ちすくむ自分を見限ることなく、彼は随分と長い間、黙って待ってくれた。もうこれ以上、待たせるわけにはいかない。
決めなければ。何を選ぶのか。何を捨てるのか。いずれにせよ避けられない痛みに耐える覚悟とともに。
訣別は、もうずっと前からそこにあった。
*
しばらく黙って史帆を見つめていた藍染は、やがて一度目を閉じて、そうか、と言った。
「構わないよ。行っておいで」
藍染は穏やかにほほえんでいる。その表情がたたえているのが、喜びなのか悲しみなのか、あるいはそれ以外の何かなのか、史帆にはわからない。
藍染がカップをおいて、立ち上がる。向かい合って、頭一つ分高い身長で史帆を見下ろして、壊れ物に触れるような手つきで史帆の頬を撫でる。
「史帆。よく、勇気を出したね」
まるで、心からほめたたえるような声だった。勇気、という単語が彼の口から出てきたことに少しだけ驚きながら、史帆は黙って頷く。
まっすぐに藍染を見つめる史帆に、彼ももう何も言わなかった。そうして惜しげもなく手を離して、コートの裾を翻し、部屋を出ていった。
大きく一度息を吐いて、史帆は、後ろに控えていたスタークを振り向く。察しの良い彼は、面倒そうというよりもどこか憐れむように顔をしかめていて、その複雑な表情に史帆は思わず苦笑した。