それからどれくらい時間が経った頃か、沈まない月を見ながらうつらうつらとしていた頃、ふいに、知った霊圧がほんのかすかに史帆の感覚を刺した。ゆるりとまどろみから引き戻された意識でもう一度探知をかけて、弾かれるように、それが誰のものであるかを理解する。
「織姫ちゃん……?」
目をこすりながらぽつりとつぶやいても、当然ながら返事はない。誰かに聞こうにも、市丸が部屋を去ってから、誰一人としてこの部屋には訪れていなかった。時計もない常夜の世界では、今は何時なのか知るすべもない。ずいぶんと長い間眠っていた気もするし、ほんの数分だった気もする。
椅子から立ち上がり、何の意味もないのに窓際まで寄ってはつま先立ちし、外を眺めた。本当に何もない虚無の砂漠。時折砂に埋もれて立つ、植物を真似た何かでさえ枯れている。月は眠る前と何ら変わりない道化師の笑みで、夜空の濃紺の深さも何一つ変化はない。この世界に時間という概念が本当にあるのかすら疑わしくなるほど、あらゆるものが不変だった。
ちょうどそこで扉が開いた。隙間からまばゆい廊下の光が筋となって部屋に差し入る。振り向き、そこに立つ人物を見て、史帆は小さく溜息を吐いた。
「東仙隊長、できればノックしてくださいませんか」
「食事だ」
見事なまでの無視である。見えていないのをいいことに、史帆は遠慮なく肩をすくめた。
「食事って……あの、今は何時なんでしょうか」
「おおよそ、夜の八時頃だ」
「……私がここに来てから、もう一日近く経つってことですか?」
史帆が藍染に連れられて尸魂界を去ったとき、向こうはちょうど日付が変わる直前だった。だとしたら、すでに一度昼を過ぎて次の夜が訪れたことになる。そんなに長い間眠っていた記憶はない。
案の定、東仙は首を横に振って、それを否定した。
「いや、そうではない。尸魂界と虚圏では時刻にずれがあるから、君がここに来たのはこちらの時刻でいうと大体夕方くらいの時間だ」
「そうなんですか」
頷きながら、史帆は、虚圏に時刻を作ったのも、もしかしたら藍染なのかもしれないとふと思った。ここに住むのが虚だけだったなら、時刻など不要な概念だったはずだ。
「わかりました、ありがとうございます。食事は、どこでいただけばいいですか?」
「私が案内する。来なさい」
短く命じて、東仙はくるりと踵を返した。そのそっけなさに一つまた溜息を吐いてから、史帆も彼の背を追って部屋を出た。
「東仙隊長、一つお聞きしたいんですが」
彼の後に続いて廊下を歩きながら、史帆はふと思い立ってその背に問いかけた。東仙の歩みは止まらない。歩調すら緩めず、振り向くこともなく、ただ「なんだ」と、無機質な声だけが返る。
「井上織姫が来てるんですか?」
その言葉に、ほんの僅かだけ彼の肩が跳ねたのを史帆は見逃さなかった。
「ああ、そうだ」
「……どうしてですか」
「藍染様が井上織姫の力をお望みになったからだ」
そこで東仙が足を止めたので、史帆も一瞬遅れて立ち止まる。ゆっくりと振り向いた東仙は、顎を引き、相変わらず石のように冷たく硬い、むしろ一層低められた声でもって問う。
「どうする。会いに行きたいとでも言うか?」
その顔には史帆に対する警戒、あるいは嘲笑とも取れる何かが滲んでいた。
「別に構わない。藍染様には、君がしたいようにさせろと仰せつかっている」
あっさりと許可をしてみせる割には、ずいぶんと見下すような言い方だった。その理由が、今の史帆ならば理解できる。何も捨てられず、何もかも手放したくないと願っていたかつての史帆を、いつだかはっきりと批判したのが彼だった。
「……いえ、いいです」
首を横に振ると、東仙はいぶかしむようにわずかに顔をしかめた。
「今は、まだ考え中なので」
「考え中」
「……まだ、どちらを選ぶのか、決めてないから」
その言葉に、東仙はわずかに瞠目した。目元が隠されているから本当はわからないのだけれど、しかし、そんな気がした。
自分が藍染を選ぶのか、あるいは彼を斬る覚悟をしてでも護廷十三隊の隊士としての誇りを守るのか、史帆はまだ決めていない。それを史帆が自ら決められるように、藍染は自分をここへ連れてきた。
決断しなければ、織姫の敵か味方かさえも定まりはしないのだ。ならば、そんな状態で彼女に会いに行ったとしても意味はない。史帆は織姫にかける言葉を持たないし、織姫は史帆に何も与えられないだろう。
しばらく沈黙した後で、東仙がぽつりと、「そうか」とつぶやいた。
「……てっきり、会いに行くと言うと思ったが。変わったな」
史帆は苦笑する。東仙の言い分はよくわかる。
以前の史帆ならば、たとえ何が決まっていなくても、織姫に会いに行っていたはずだ。そうしてまた選べていない事実に気付かされては、頭を抱えて自責するだけだっただろう。
くるりと身体ごと振り向けて、東仙が史帆と向かい合う。身長の差で、少しだけ見下ろされるような形になった。
「私は、君が昔から嫌いだった」
躊躇いなく、真正面からはっきりと、東仙は史帆を否定する。
「君はいつもどっちつかずで、ただ痛みを恐れて逃げ回っては、かわいそうな子どものふりをしていたな」
「……」
「そんな甘ったれた心では、藍染様の隣に立つことも、藍染様に刃を向けることもできるはずがない」
かつての自身を手酷く糾弾する男から、史帆は目を逸らすことなく頷く。彼の言葉は正しかった。
ややあって、ふと、東仙の表情がわずかに緩んだ。何かを言おうとして開いた口を一度止めて、小さく息を吐く。いや、とつぶやくのが聞こえた。
「私からはもう何も言うまい。四谷、選ぶのは君だ」
「……はい、東仙隊長」
史帆の返事を聞いてから、東仙はまた前を向いて歩み出す。破面たちと同じ白いその背中を見つめながら、史帆はふと、彼は何のために戦うのだろうと考えた。
藍染も、市丸も東仙も、護廷十三隊の隊士たちも、みな譲れない理由があって、剣を握る。それもまた選ぶということだった。
ならば、自分は何のために戦うのだろう
何のために、今まで剣を握ってきたのだろう。
ぼんやりと思考しながら、史帆は東仙の後をついて長い廊下を歩いていく。二人分の足音が時折重なっては離れ、交わることなく、石の城ににぶく反響した。