虚圏は常に夜だというのは聞いたことがあったが、いざ来てみると、その空は思ったよりも深く、絶望を連想させるほど暗い色をしていた。霊子濃度が極端に高いせいか、気を抜くと酔って、めまいすらしてきそうだった。
虚夜宮と呼ばれる、虚圏の拠点らしい宮殿の中を歩いてもうずいぶんと経つ。黒腔を歩いてくるのでも体感では結構な時間が経過していたので、いい加減史帆は疲れを感じていた。あとどれくらい歩けばいいのかと、手を引きながら前を歩く幼馴染の背に問いかけようとしたところでちょうど、その足が止まる。これまでにいくつか通り過ぎてきたものとは違う、ひときわ大きな扉の前だった。
藍染が足を止めると、すぐに自動的に扉は開いた。薄暗い、広いホールのような空間。石の床は無機質で、触れた足先から冷たさが沁みて、指先まで体温を奪っていくようだった。部屋には市丸と東仙が立って何やら話をしていたようだったが、やってきた藍染を振り返って会話を中断した。
「おかえりなさいませ、藍染様」
恭しく頭を下げた東仙に対して、市丸は袖に手を入れたまま、黙っていた。その顔にはあの貼りつけたような笑みはない。
「ただいま。予定より遅くなってしまったね、すまない」
いえ、と短く答えてから、東仙は見えないはずの目を一度史帆に向けた。何かを思案するように黙って顎を引く。数日前現世で彼に糾弾されたばかりだったので、史帆は少しだけばつが悪くて、わずかに首を竦めた。
「変わりはないかい」
「はい。何も問題はありません」
「それは良かった。ご苦労だったね、要、ギン」
自身の不在を埋めた部下を労ってから、藍染は史帆を振り返った。ぬくもりだけ残して、やんわりと手がほどかれる。
「君も疲れただろう。ひとつ、君用に部屋を開けるから、そこで少しゆっくりするといい」
「……わかった。ありがとう」
「ギン、史帆を部屋に」
はあいと返事した市丸に頷いて、藍染は部屋の奥、また別の扉へと姿を消してしまった。それを見送ってから、市丸が史帆を見て、「ほな行こか」と言う。史帆が来たことにあまりにも無感情な様子に少し困惑しながらも頷いて、史帆は歩き出した市丸のあとを追った。東仙は史帆が部屋を去るまで、もう何も言わなかった。
またあの冷たい廊下を、市丸の白い背を追って歩きながら、史帆はぼんやり、京楽と藍染の言葉を思い出す。藍染は、自分が納得のいく選択ができるようにここへ連れてきたのだ。護廷十三隊の誰かと一緒にいては、自分もまた護廷十三隊の隊士であることを辞められないから。それが、分かれ道をもやがからせてしまうから。
もしこの先、史帆が本当に心を決めて護廷十三隊を選んだら――護廷の誇りを守って藍染を斬ることを決めたなら、きっと藍染は笑ってそれを受け入れて、この城から史帆を解放するのだろう。
本当にどこまでも、あの男は自分に甘い。
「自分、尸魂界におったん?」
廊下をいくらか歩いたところで、ふいに市丸が尋ねた。はいと史帆が肯定すると、ふうん、と、聞いておきながら興味のなさそうな反応を返す。
「東仙サンからは現世にいるって聞いとったんやけど」
「いたんですけど、帰還命令が出たので」
「誰から?」
やや食い気味に、市丸が質問を重ねた。その様子にわずかに訝しさを覚えながら、史帆は答える。
「京楽隊長ですが」
「ふうん」
「……あの、何か」
「別になんも。相変わらず過保護やなって思っただけ」
そう言って、市丸は言葉を切った。それ以上問いかけても答えてもらえないだろうことを直感して、史帆もまた口をつぐむ。それから部屋につくまで、二人の間に会話はなかった。
市丸に案内された部屋は笑ってしまうくらい何もなかった。ベッドとソファと、小さなテーブルに椅子、あとは小さな正方形の窓が一つあるだけだ。この城の中は自由に歩かせてもらえるのだろうか。この部屋にずっと缶詰では、精神が病んでしまいそうだ。
「あの、市丸隊長」
史帆よりも先にソファに飛び込み、その反発を楽しんで飛び跳ねていた市丸に声をかけると、彼は、ん、と小さくだけ言葉を返した。
「私、出歩いたらまずいですか?」
「別にええよ、好きにしとったら。でも、多分やけど史帆さん、迷うで」
それは、確かにそうかもしれない。先ほどの部屋からこの部屋まで、どうやって来たかも正直わからないのだ。霊圧を探知すれば誰がどこにいるのかはわかるが、それでも対象に追いつくのに一刻以上かかったあの瀞霊廷の地下水道を思い出して、史帆はげんなりする。
「それに、その服やからね」
史帆の黒い死覇装を指さす。昔は市丸だって同じ服を身に着けていたはずなのに、今の彼の服装はすっかり対極のような真っ白さだ。
「着替えるなら白い服貸したるけど」
「……いえ、いいです、これで」
史帆の返答に、市丸は「そ」とだけ短く頷いて、ソファに寝転がっていた身体を起こした。突っ立っていても仕方がないので、史帆もひとまず椅子に座る。
市丸の糸目がじっと史帆を見るので、何、という意図で首を傾げると、彼はほんのわずか、肩をすくめた。
「史帆さん、思ったより落ち着いてはるね」
「……そうかもね」
こぼれた笑みは乾いていた。たしかに、彼の言う通りだ。
史帆は護廷十三隊が、ひいてはそこに所属する仲間たちのことが好きだけれど、だからこそ、ここにくる直前、藍染が京楽に言った科白は史帆にとって真実だったかもしれないと思う。誰も史帆に行く道を強制しないこの場所に来て、本当は少しだけ気が楽だった。
市丸は真顔を崩さないまま、まっすぐに史帆を見つめ続ける。史帆さん、と呼ぶ声が、どこか諌めるような響きを帯びた。
「史帆さんがどっち選ぼうがボクはどうでもええけど、でも、藍染隊長は、自分を選ばんよ」
「……」
「史帆さんが藍染隊長選んでも、あの人は史帆さんを一番にはせえへん。あの人にとって一番大事なんは、霊王殺すことや。そのためなら、何人死のうが、史帆さんがどんだけ泣こうが、あの人は構わん」
「……そうだね」
史帆は苦笑しながら、小さくつぶやいた。わかっていたことだ。
窓から常夜の空気を取り込んで、部屋の中は少し肌寒い。吐く息がわずかに震えた。
市丸はまだ何か言いたげだったが、ただ黙って息をつき、そのままあっさりと部屋を出ていった。扉が閉じられると部屋はずいぶんと薄暗い。月の光に切り取られた窓が、真四角の影を床に落としていた。
出ていった市丸の後姿を思いながら史帆はふと、彼は自分に対して怒っているのかもしれないと思った。どうして藍染を捨てないのか。何を迷うことがあるのか、と。そしてそれは、史帆に対して、というよりは、それ以外の誰かに対する感情から来る怒りのように思う。
いつだって花開くように快活に笑ってみせる親友の姿を思い描いて、史帆は目を閉じ、眉を寄せた。彼女が泣くのは、もう、史帆だって見たくはない。見たいわけがない。
小さな丸テーブルに頬杖をついて、窓の外を見上げる。尸魂界では満月に近いほど肥えていたはずのに、そこに浮かぶ月は鋭く尖った下弦だった。まるで、作り物みたいだ。どこか不自然なその月から逃げるように目を閉じ、史帆は、尸魂界の夜空を思い出す。
月が満ちるまで、あと何日だろうか。