何も変わらない夜空はきれいだった。
死覇装のまま、隊舎の屋根の上に三角座りをして、星のまたたく空を見上げる。一見満月にも見えるほど大きく丸く浮かんでいる月は、確かにその弧の一部だけをぼやかしていた。
ひとりで月見をするなんて、初めてだ。史帆はぼんやりと、この百年の記憶を思い返す。苦しく、罪の意識にさいなまれ続けた百年間だったけれど、それでも自分はけしてひとりではなかった。誰かは、自分のそばにいてくれた。史帆が自らの咎を黙って受け入れている限り。
けれど今、はじめて、自分はひとりだと思った。
この世界で、自分がひとり取り残されてしまったような、そんな気持ちだった。
背を丸めたまま顔だけをまた上げて、月と、その周りに輝く星を見る。こんなにも美しい星月夜に、しかし隊舎は気が付くこともなく静まり返っている。史帆がここにいることを誰も知らない。
いっそずっと、そうであってくれたなら。
「――また空を見ているのか」
ふいに、透き通った水のような声が、空気を揺らした。
足音もなく屋根に降り立った男を視界の端に捉えながら、史帆はそれでも、空を見上げたまま振り向かなかった。遠い空と、吐き出した息が白く染まっては夜の中に溶けていくのを、ただ無心で眺めていた。
「……月が、きれいだから」
ぽつり、こぼした言葉に、男は「そうか」と短く頷く。そうして音もなく、屋根の上を伝うように歩いて、史帆のそばへ。
「まだ、満月ではないね」
「うん」
「あと少しだ」
「……うん」
男の言葉にそっと頷いて、史帆はそこでやっと、光の粒のまたたく空から、隣に立った彼へと視線を移した。見上げた男は、ゆったりとした白いコートを夜風になびかせ、堂々と夜の中に立っていた。史帆と同じ服に身を包んでいたころとは全く違うその姿は、まるで異端者のようだ。
月に言及した鳶色の目は、しかし空ではなく、まっすぐに史帆を見ている。その男は、たとえ何が変わったって、あの古いアルバムの中で、かつて史帆の隣で笑っていた彼だった。どんなに雰囲気が変わっても、どんなに見た目や服装が変わっても、史帆に向けられるその瞳だけは変わらないまま。
「おいで、史帆」
孤独な彼女にそっと手を差し伸べて、ささやくように声を紡ぐ。
「君に選択をさせるのは僕だ。だから、それを見届ける役目は、僕が務めよう」
藍染の言葉は甘い毒のように優しい。それが毒だとわかっていながら、藍染は史帆にそれを与え、史帆はそれを受け取るのだから、救いがない。
「……惣右介、」
何かを懇願するように名を呼んだ、その瞬間。
藍染が弾かれたように横に視線を流したかと思えば、その姿が消えた。ついで、身体が浮き、視界が激しく揺れ動いて、たまらずに史帆は目を閉じる。同時に何かが爆発する音。
周囲が認識できるまでに落ち着いたとき、ゆっくりと目を開ければ、自分を抱きしめるように抱えているのは藍染で、先ほどまで二人が立っていた場所には、炎の弾がはじけた跡があった。
「ずいぶんと手荒だな」
どこか驚いたような声は、その視線とともに屋根の下、隊舎庭へ落とされる。え、と思って同じ方向を見下げて、史帆は目を見開いた。
「彼女諸共でも構わないつもりか?」
「おかしなこと言うねえ。この程度の鬼道を君がくらってくれるわけないじゃない」
「京楽隊長、」
ぽつり、ほんとうに小さな声で呼んだのに、京楽はしっかりとそれを耳にしたようで、史帆の方に一瞬だけ視線を遣って目を細めた。月の光から自身を守るように編み笠を片手でしっかりとつまみ、もう片手は腰の斬魄刀にかけて。
「こんな綺麗な夜に逢引だなんてやるじゃない、藍染隊長。僕、すっごい無粋なことしてる気分だよ」
「ならば、このまま見なかったことにして帰ったらどうだい。京楽隊長」
「見つけたのが君じゃなきゃそうしてたさ」
素早く打ち交わされる会話の間も、二人には一瞬とて隙がない。ぶつかり合う霊圧に肌がしびれるのを感じながら、史帆はただ言葉を失っていた。
そうやって、藍染の腕の中で動けずにいる史帆を見てか、京楽が眉根を寄せた。
「惣右介くん。もうやめなさい」
「……」
「あんまり女の子を苦しめるもんじゃない。……その子が、どれだけ君のことを大切に思ってるのか、君だってわかってるだろう」
わがままな子どもを諌めるような言葉に、藍染が嘲笑する。
「面白いね。彼女を最も苦しめているのは、君たち護廷十三隊ではないのか」
「……どうしてさ」
「決まっている。君たちには最初から、彼女の意思を尊重する気などないからだ」
自分を置いてけぼりに進められる会話に、史帆はただ困って藍染を見上げる。藍染は京楽をじっと見つめたまま、史帆を抱く腕に力を込めた。
「君たちは彼女に、護廷十三隊の隊士であることを強要する。たとえそれが無意識であったとしてもだ。その状態で選ばせた決断が彼女の意思であると、本気で言い張るつもりか?」
厳しく批判するような藍染の言葉に、京楽が顔をしかめた。返答を待たずに藍染は史帆を腕に抱いたまま空へと飛びのき、まるでそのタイミングを待っていたかのように口を開いた黒腔の前に立って、コートを翻す。史帆が慌てて身体を押し返そうとするのも、気にも留めない。
まだ庭でぼうっと屋根の上を見ている――おそらくは、まだそこに史帆と藍染の幻影を見ている京楽を少しだけ振り返って、藍染は最後、突きつけるように言った。
「早く帰って、護廷に報告するといい。四谷史帆は藍染惣右介に拉致されたと」
「史帆ちゃん!」
視覚を乗っ取られた京楽が逃げる二人に気付き、ひどく焦った声で史帆の名を呼んだ瞬間、黒腔は容赦なくその口を閉じる。そして、鳥肌が立つような闇だけがあたりに残った。
あまりの闇の深さに唾を飲み下した史帆に、藍染は苦笑しながらその身体を下ろす。
「驚かせてすまないね。さて、行こうか」
「惣右介、待って、私……」
まだ、ひとつとして決意はできていない。それを言葉にするのは自らの弱さを開示することであって、少しだけ言葉にためらいの色がこぼれた。
「いいよ。わかっているさ」
そして、愚かにもまだ決意を固められないその甘さを、男はあっさりと許容する。
「僕を選べと言っているのではない。ただ、僕の隣で選べばいい」
「……」
「言っただろう。君の選択を見届けるのは、僕の役目だと」
滔々と説く男は、まるで声に迷いがなかった。
苦しげに眉を寄せる史帆にそっとほほえんで、藍染は彼女の手のひらをそっと持ち上げた。もう片方の手も上から重ねて、寒さに凍えたそれをあたため、癒すように、自らの手で包み込む。
「心配する必要はない。君が何を選ぼうとも、僕だけは君の決断を肯定するよ」
それはどこかで聞き覚えがある言葉だった。ずいぶんと前に、似たようなことをこの幼馴染から言われた気がする。
しかしそれがいつのことなのかは思い出せなくて、史帆はただ呆然と、握られた手のぬくもりだけをぼんやり感じていた。