ちょうど陽が沈むころ、穿界門を通って尸魂界に帰還した史帆を出迎えたのは、ずいぶんと疲れた顔の七緒だった。おかえりなさい、と丁寧に頭を下げる彼女に、ただいま戻りました、と史帆も頭を下げる。
「どうしたんですか、顔色がすぐれないみたいですけど……」
隊舎へ戻る道すがらおそるおそる問いかけると、七緒は頭痛をこらえるようにぎゅっと眉を寄せた。
「いえ、別段何も。ただ、やはり史帆さんは優秀でいらっしゃると、身をもって実感しただけです」
「……というと?」
「あなたがいないと、仕事が回すのがいつもの倍大変で……」
そんな大げさな、と史帆は苦笑したくなったが、そうつぶやいた七緒の目の下があまりにも真っ黒だったので、口をつぐんだ。ここはありがたく誉め言葉として受け取って、疲れた彼女を労わることにしよう。
「それは、お疲れ様でした。ちょうどお土産にケーキ買ってきたので、よろしければ休憩で召し上がってください」
「けえき?」
「現世の菓子です。おいしいですよ」
手に提げていた紙製の箱を見せると、七緒は不思議なものを見るように目を細めた。中身は見えないのだから箱に目を凝らしても仕方がないのだが、それを指摘したら彼女はきっとまたむっとしてしまうだろうから黙っておいた。
やがて何か満足したのか、それとも意味がないと気付いたのか、七緒はぱっと顔を上げた。
「執務が終わったらいただきます。ありがとうございます」
あと一刻ほどで定時である。それまでは休まず執務に励むつもりらしい。七緒らしいと思いつつ、史帆ははいと頷いた。
てっきり明日から調査とやらに入るのかと思っていたが、七緒はすぐにでも作業に入ってほしいと言った。正直疲れもあって休みたい気持ちはあったけれど、あそこまで疲労困憊の七緒を前にしてそんな弱音が吐けるわけもなく、史帆は残った定時までの時間を五番隊隊舎にて調査に励むことになった。
藍染の私室と隊首室にはすでに一度調査が入っているらしく、ひとまずはまだ手をつけていない資料庫からということで、史帆は今、本と埃にまみれた小さな倉庫の入口で一人立っている。
腰に手を当てて、窓から射す夕焼けに舞い上がった埃がきらめているのを見ながら、溜息を吐いた。これだけ埃だらけならそうそう人が立ち入っているとは思えないのだが、念には念を入れて、ということだろう。
仕方ない、と自身に心の中で声をかけてから、史帆はゆっくりと、大小異なる本やら紙の束やらが積まれたその部屋に足を踏み入れた。一体何から調査すればいいのかわからないが、とにかくは藍染の痕跡が残っていないか確認してほしいと言われていたので、霊圧探知をかけながら、史帆はゆっくり丁寧に、部屋の中を見て回った。本棚に詰められた本の背表紙に触れ、積み上げられた紙の塔を倒さないように数枚めくり、そうやって時折咳き込みながら、藍染の霊圧の残滓を探す。
結論から言えば、それは結局無駄足で、史帆の鋭敏な探知能力をもってしても藍染が何かしらに手をつけた痕跡はほんのかけらも見つからなかった。棚に積まれた本を一つずつひっくり返しながら、当然の帰結だと史帆は嘆息する。こんな埃っぽいところに彼が来るとは思えない。もしくは、彼が来ていたとしたらいくらなんでも誰かに頼んで掃除をさせているはずだ。
忘れ去られたように部屋の隅にちょんと置いてあった小さな椅子に、身を投げ出すように腰かけて、窓の外を見る。いつの間にかすっかり太陽は沈み、濃紺の空が世界を覆っていた。よく晴れているらしく、いくつかの星が輝いているのが部屋からも見える。今日の夜空はさぞ綺麗だろうと思われた。
さて、もういい加減へとへとだし、定時も過ぎただろう。八番隊に帰るかと史帆が大きく伸びをしてから、椅子を下りたそのとき、踏み出した足が何かを蹴った。
「……ん?」
それは、一冊の小さな冊子だった。えんじ色の装丁に黒い紐で綴じられた、どこか手作り感のある古い冊子。
こんなもの、どこにあっただろうか。この部屋に立ち入ってから見た覚えのないそれを何とはなしに手に取って、史帆はふいに、その本から知っている霊圧を感じ取った。かなり薄く、もうほとんど砂粒ほどしか残っていないけれど、それでも確かに知っている霊圧だった。
藍染、なのだろうか。指先に神経を張り巡らせて必死に探るけれど、残滓があまりにも微量すぎて、どうしても判別することができない。
表紙から覗く中の紙はもうすっかり黄ばんでいて、下手に触れればすぐにでも破れてしまいそうなほどだった。しゃがみ込んで膝に乗せ、ていねいに、破れないように頁を開く。
――あ。
めくった手は、一ページ目ですぐに止まった。
写真だ。それも、百年前の、五番隊の。
まだ髪が長かった平子、青年だった頃の藍染、そして史帆。それからほかの隊士たち。
まるで学校の集合写真のようなそれに、史帆ははたと、閃くように思い出した。そうだ。誰かが、藍染の副隊長就任を祝って、宴会を開いて、そこで記念写真を撮ったことが、たしかにあった。
自然と眉が寄るのを感じながら、史帆は一度目を閉じた。小さく息を吐き出してから、かすかに震える手で、二ページ目をめくる。三ページ目、四ページ目と、ゆっくりと、めくっていく。
本の中身はすべて、当時の五番隊の写真で埋め尽くされていた。執務中のもの、休憩中のもの、誰かの誕生日会、飲み会、休日。状況は様々であれ、写っている者はみな、史帆の知る百年前の五番隊の隊士たちだった。その大半が、今はもう護廷にはいないけれど。
十数ページめくったところで、最後の写真だった。四角に切り取られた一瞬は、史帆と藍染が顔を寄せて笑っている姿だった。あの幼馴染がよく顔に貼りつけていた、すました笑顔ではない。目を閉じて、眉を下げて、何か耐えきれない面白さがそこにあるように、二人そろって笑っていた。
色褪せた写真に指を伸ばして、史帆は目を細める。何も知らなくて、だからこそ嘘偽りなく幸せだった過去の自分が、懐かしい。そして少しだけ、妬ましくもあった。
その写真の中にあるのは、何も知らなくても、何も捨てなくても、彼とともにあることができた、もう二度と取り戻せないまぶしい日々だ。
胸に渦巻く感情すべてを吐き出すように、深く息を吐く。震える手でアルバムを握りしめながら、史帆はただ、きっとこのアルバムを作ったのはあの幼馴染ではないだろうということだけを、自然に理解していた。
本当に幸福なときほど、そうであることには気付けない。それを失った後でしか、幸福であったことを知ることはできない。
そしてそれを知るのは、その幸福がもう戻らないときほど、よりいっそう恐ろしいのだ。