尸魂界に帰ってきてほしい、と京楽から連絡を受けたのは、その翌朝だった。伝令神機から聞こえるノイズ交じりの上司の声に、史帆は寝起きの目をこすりながら応答する。部屋の主である織姫も乱菊もなぜか不在で、部屋にはすでに史帆一人しかいなかった。
「おはようございます、京楽隊長……」
『おはようって、もう十時だよ? こっちはとっくに勤務時間』
「……時差ですかね」
『ないでしょ。ほら起きて、しゃんとして、ほらほら』
言われた通りに布団からのそのそと抜け出して、史帆は声を殺してあくびした。カーテンを開ければ、なるほど確かに、太陽はとうに高く昇っている。昨日に続いて今日までこれとは、現世に来てからますます朝の弱さに拍車がかかっているようだ。
『起きた?』
「起きました……あさごはん、」
『朝ごはんっていえる時間か知らないけど、とりあえずそれは後にしてもらって、一回話していいかい?』
「はい……」
ちゃぶ台の前に正座して、呆れた様子の声に耳を傾ける。(まだ半分脳が眠っていたのだ。覚醒しきっていたら、いくら気心知れた上司であるとはいえ、ここまで崩れた態度は取らない。)
『史帆ちゃんに尸魂界に帰ってきてほしいんだよね』
断続的にこぼれ続けたあくびが、その言葉を聞いてぴたりと止まり、喉の奥へ急速に引っ込んでいった。まさかこんな朝っぱらから帰還命令が来るとは思っていなかったので(正確にはもう朝ではないのだけれど)、史帆は少しばかり驚いた。ようやく完全覚醒し始めた意識で問いかける。
「何かあったんですか?」
『最近惣右介くんの私室とか隊首室とか、後はよく立ち入ってた大霊書回廊とかの調査を進めてるのは知ってる?』
「あ、そうなんですか……」
相槌を打ちながら、史帆は昨日の話を思い出した。藍染の目的が王鍵の創成であるというのもつい最近わかったのだと言っていたから、もしかしたらその調査の過程で判明したのかもしれない。
そうそう、と京楽は軽く頷く。
『その調査に史帆ちゃんがいてくれた方がいいんじゃないかって、浮竹と僕で話しててさ』
「へ、」
『今の護廷で一番惣右介くんの思考がわかるのは君だろうからね』
ううんと史帆は唸った。あの幼馴染の思考がわかるかと言われると、わからない。しかし他の隊士と比較して、という話であれば、確かに史帆の名前が上がるのも納得ではある。
正直に言えば、あの息の詰まる護廷にいるよりも現世にいる方が気は楽だったが、それは史帆個人のわがままだ。自分が適任である仕事があるならば、戻るべきだろう。
「構いませんが、先遣隊は……」
『史帆ちゃんが一人抜けてもひとまずは大丈夫だろうってことで、昨日総隊長と日番谷隊長の間で話がまとまったよ。増員をかけるかは、状況をみて追い追い判断するってさ』
「そうですか、わかりました」
『うん、ありがとね』
あっさりと話がまとまったところで、史帆は自分の腹の虫が小さく鳴いたのを聞いた。京楽に聞こえない程度の音だと思ったが、端末の向こうでくすくすと笑う声が聞こえたので、どうやらしっかり拾われたらしい。
『気晴らしはできたかい?』
「あ、はい。とても楽しかったです」
もう一度腹が鳴らないように腹筋に力を込めながら、史帆は答える。現世に来てから、一度破面との交戦があったとはいえ、一護と話し、乱菊と遊び、織姫と友達になり、平子らと再会し、ずいぶんと充実した時間を送ってきた。ここまで楽しかったのは久々だ。
それは良かった、と、京楽が安心したように息を吐く。
『それで、できれば今日中にこっちに戻ってきてほしいんだけど、どう?』
「はい、大丈夫ですよ」
お昼ごろには、と言いかけて、今がすでに十時をまわっていることを思い出し、夕方までには、と言い直した。帰るとなれば、おみやげのお菓子を買って帰らなければいけない。穿界門を通過するのに必要な時間を考えても、昼頃の到着は不可能だった。
『うん、それでいいよ』
京楽が頷く。
『じゃあ、また後でね。何かあったら連絡ちょうだい』
「はい、……あ、あの、京楽隊長」
『ん?』
唐突に思い出して、史帆は声をはさんだ。昨日、"彼女"と再会したときから、京楽にだけは伝えなければと思っていたのだ。直接会って言おうかとも思ったが、一刻も早く告げるべきな気がして。
「昨日、矢胴丸副隊長に、お会いしました」
通信機の向こうで、わずかに息を飲む気配。完結に事実だけを伝えて史帆は、京楽が理解する時間を、そっと黙って待つ。
やがて、小さく息を吐いた音のあとで、そっか、と声が聞こえた。穏やかで、優しくて、あたたかい声だ。双極の丘で、史帆にお疲れさまと言ったときのそれとよく似ている。
『リサちゃん、生きてたんだね』
「はい」
『そっか。……そっか』
かみしめるように、京楽はただそれだけを繰り返す。その気持ちが痛いほどに理解できて、史帆もぎゅっと眉を寄せた。
『今度三人で、お茶でもしたいね』
「……そうですね」
『いやあ、まさしく両手に花だ。参っちゃうな。浮竹に自慢しないと』
京楽らしく調子の良い発言に、史帆はただ笑って返す。これももしかしたらセクハラと呼ばれるのかもしれないけれど、今回ばかりは黙っておこう。良かった、と、少しの沈黙の後で聞こえたひとりごとのようなつぶやきが、あまりにも胸に刺さるので。
現世に来る前はシュークリームとやらをおみやげに買うつもりだったが、初日に乱菊と入った喫茶店のケーキがおいしかったのを思い出して、史帆はそれを買っていくことにした。(日本酒という京楽のリクエストは無視することにした。史帆は酒に明るくない)。路面に出されたショーケースとじっとにらめっこして、並べられたケーキを吟味する。
京楽も七緒も、どちらかというと甘さが控えめなものの方が好みそうだ。しかし現世の菓子の知識がない史帆には、一体どれが甘味の抑えられたケーキなのかがわからない。先日自身が食べたチョコレートケーキでは甘すぎるだろうということくらいしか、史帆にわかることはなかった。
顎に手を当て、一人でじっと悩んでいると、ふいに声がかけられた。
「あれ、史帆さん?」
「え?」
声のした方を見遣れば、そこには制服でも死覇装でもなく、黄色いカーディガンに水色のジーンズを身に着けた乱菊が立っていた。どうやら買い物帰りのようで、その手にはすでに二つの紙袋が下げられている。
「おはよう、乱菊。買い物中?」
「はい! まだまだめぐってないお店が山ほどありますからね。時間はいくらあっても足りないですよ」
楽しそうな声でそう言って、乱菊は手に下げた紙袋をわずかに持ち上げて見せた。
「史帆さんも誘いたかったんですけど、史帆さん、あんまり気持ちよさそうに寝てたからそのままにしておきました」
「あ、うん、ありがとう……返す言葉もないです……」
乱菊が何時に出発したのかは知らないが、まさか史帆が十時まで寝ていたとは思ってもいないだろう。どうせ知ったとしてもどうでもいいことなので、史帆は黙って首をすくめた。
「史帆さんは何してるんですか?」
「あ、実は帰還命令が出て……今おみやげにケーキ選んでるの」
「帰還命令? え、史帆さん帰っちゃうんですか!? まだ全然遊び足りないのに……」
半ば怒ったようにまなじりを吊り上げて、乱菊は声を上げた。眉をハの字に歪めて、唇を尖らせる。ごめんね、と苦笑してから、ふと妙案を思いついて、史帆は乱菊を手招いた。乱菊はきょとんとした表情で、史帆の隣まで距離を詰める。
「乱菊さ、どのケーキがどういう味とかわかる?」
「? ええ、まあ、ある程度はわかりますよ」
さすがだ。史帆はわが意を得たりという気持ちで尋ねる。
「京楽隊長と七緒副隊長にお土産を買いたくて。あまり甘すぎないのがいいと思うんだけど、どれがいいと思う?」
史帆の言葉に、乱菊は「甘すぎないやつかあ」とつぶやきながら、一緒に身をかがめてショーケースを覗き込んだ。
「このチーズケーキは割とおすすめですね。私も前食べたやつですけど、甘さ控えめで、男の人でも食べやすいと思います。レアとベイクドがありますけど、ベイクドの方がより甘みが抑えめですかね。あとはこっちのコーヒームースもいいですよ。甘さ控えめというよりむしろ苦みを生かしたスイーツで、京楽隊長こういうの好きそうです。あ、あと外せないのはこの抹茶ティラミスですね! そもそも、ティラミスってコーヒーとチーズを使ったふわふわしたケーキの名前で……」
「ごめん乱菊、待って待って」
次から次へと指さされるスイーツとその説明についていけなくなって、乱菊のマシンガントークをおそるおそる遮った。チーズケーキは前に乱菊が食べていたからわかるが、それ以外の片仮名言葉は史帆にはほぼ初耳だった。
「れあ、べいくど、むーす、……てぃ、てぃ?」
「ティラミス」
「てぃらみす」
言葉を覚えたての赤ん坊のような舌足らずさでそう繰り返して、史帆はもう一度ぐるりとショーケースを見回した。何がなんだかわからないが、とりあえず全部おいしいらしい、という思考放棄した結論に至って、史帆は結局、今乱菊から紹介されたケーキを一つずつ買うことにした。
会計を終え、横で待ってくれていた乱菊と並んで史帆は歩き出した。この後乱菊は山の中で、ほかの先遣隊メンバーと合流する予定だという。その途中に人気のない空地があったはずだから、そこで穿界門を開けばいいという乱菊に、頷いた。
「にしても、本当に短かったなぁ。もっと史帆さんと遊びたかったのに」
「本当にね。でも、すごく楽しかったよ」
溜息を吐く乱菊に、史帆は笑いながら言葉を返す。
「また落ち着いたら来ましょうよ。まだまだ史帆さんと行きたいお店、いっぱいあるんです」
「もちろん。乱菊のおすすめを制覇するまでは死ねないからね」
大げさな口ぶりに乱菊は楽しそうに肩を揺らし、「絶対ですよ!」と笑った。