一護の姿を見つけるなり走って行ってしまった織姫の背中を見送ってから、史帆は息をつき、ゆっくり階段を下った。下りてくる彼女を、平子とリサは黙って見つめている。ほかの元隊長格――百年前、藍染の策略によって失墜した者たちも、何も言わない。
痛いほどの視線が刺さるのを感じながら、史帆はやがて彼らの前で足を止めて、唾をのんだ。いつの間にか、口の中がからからに渇いていた。
何を言うのが正解か、わからない。けれど、どちらにせよもう手遅れなのだ。
今更どれだけ言葉を重ねようが、史帆が彼らを救わなかったことには変わりない。
「いきなり、すみません。まさか、お会いできると思わなくて、……その、何と言えばいいのか、わからないんですけど」
たどたどしく、言葉を紡ぐ。嘘だけは言わないように、取り繕うような真似だけはしないように、本心を乗せて。
「すみません、でした。みなさんを、見捨てるようなことをして」
空気は凍りついたように冷たい。それでも史帆は言葉を続けた。
「こんなこと、言える立場じゃないのは、わかってます。でも、皆さんが、……生きてて、良かった」
それはあまりにも身勝手な感情だった。彼らを救える機はあったかもしれないのに、何度だって目を逸らしてきた。そうやってこの百年、藍染惣右介とともにいた。
しかし、それでも。
――亡くなられたよ。
百年前、目覚めた史帆の傍らで、あまりにも冷淡に彼らの死をうそぶいた男の声を、史帆はこの百年一度たりとも忘れたことはない。
服の裾を握りしめ、うつむき、史帆は彼らの言葉を待つ。これ以上、自分から彼らにかける言葉はない。どんな罵声も覚悟の上だった。
しばらく、沈黙が続いた。随分と長い時間のように、史帆には感じられた。
やがて、裾を握る手に汗が滲み始めた頃、一つの溜息が静寂を破った。短く切られた金髪をがしがしと掻きながら、平子が口を開く。
「史帆ちゃん」
そう呼ばれて、思わず眉を寄せた。昔と変わらぬ声に、呼び方に、百年前の記憶が引っ張り出されるように脳をよぎる。白い羽織を翻してはだらける平子と、その後ろで呆れたように仕事を急かす藍染と、それから、自分を慕ってくれた五番隊の隊士たち。
それは史帆にとって、もう二度と戻ってこない尊い時間だった。
そして、今目の前に立つ男は、その時間を史帆とともに過ごしたひとりなのだ。
「元気やったか」
「……はい」
「ほんなら、ええわ」
平子が口端を吊り上げる。その悪戯っ子のような笑い方は、彼独特だった。百年前と何も変わらない。
「自分には何も怒ってへん。しゃあからそないな辛気臭い面しなや」
肩をすくめてそう言う平子に、史帆は一度ぎゅっと目をつむってから、頷いた。
「……史帆ちゃん、ホンマに久しぶりやなぁ」
「……そうですね」
「えらい別嬪さんになってたから、ビックリしたわ」
「平子隊長は、変わりませんね」
「ハア? 百年前よりはるかにええ男になってるやろが」
相変わらず調子の良い言葉を吐く平子に苦笑しながら言うと、とたんに眉を吊り上げて怒る。
「自分も何か言いや、リサ」
平子に話をふられ、それまで黙って腕を組んでいたリサがふんと鼻を鳴らす。そのしぐさが懐かしくて、史帆は目を細めた。
「変わってへんな、アンタは」
「……矢胴丸副隊長は、かっこよくなられましたね」
「おい、なんで俺にはそれ言わんねん、史帆ちゃん」
史帆は苦笑する。今この状況がまだうまく信じられなくてどこか心が浮ついていたけれど、それでも目の前できつくまなじりを吊り上げる彼女はやはりリサに違いなかったし、その横で岩に腰かけて頬杖をついている男はやはり平子に違いなかった。
本物だ。夢ではない。彼らは今たしかに、史帆の前で生きている。
「ンな迷子みたいな顔せんとき、うっとうしい」
「……はい」
つんけんとしたリサの言葉さえも懐かしくて、嬉しくて、史帆は口元が緩む。
百年間、史帆は何もできなかったし、何もしなかった。彼らを傷付けたのが藍染だとわかっていながら放置した。それは、彼らの命が失われたことに対して見て見ぬふりをしたのともはや同義だ。
それなのに、もう一度会えて、嬉しいだなんて。
どれだけ身勝手でいれば気が済むのだろう。自分自身に呆れながら、史帆は目を伏せる。それでも、心に広がる喜びと安堵は、どうしたって消えてくれそうになかった。
一護と史帆に総隊長からの伝令を伝えると、織姫はすぐに帰ってしまった。一人残された史帆は、ぼんやりと一護の特訓を眺めながら、先ほどの話を脳内で復習していた。
王鍵の創成。霊王の殺害。そのための、空座町の殲滅。その計画が遂行されれば、被害は百年前の事件や、双極の一件の比ではない。それはずいぶんと壮大な話で、史帆はやっぱり、それを目論む男があの幼馴染張本人なのだと、いまいち実感が持てなかった。
岩に座って頬杖をつく史帆の隣に、平子があぐらをかく。
「大丈夫か?」
「……はい。さすがに、ちょっとびっくりはしましたけど」
自分でも思った以上に、透き通った声が出た。感情のない、空気のような声。平子が少しだけ間を開けてから、「せやな」と頷く。
藍染の計画に、史帆がショックを受けていると思っているのかもしれない。しかし、史帆の思考は別のところにあった。
織姫からその話を聞いたとき、史帆は、藍染や彼の計画そのものについて考えるより先に、自分がその話に直接呼ばれなかった事実を考えた。それが総隊長の意思なのか、日番谷や乱菊の意思なのかはわからないが、人間である織姫でさえ呼ばれたその場に、自分は呼ばれなかった。
もしかしたらただ単純に、隊長や副隊長しか立ち会えない伝令であったのかもしれない。しかしこういうとき、想像は悪い方向にばかりすぐ向かう。
もしかして彼らは、史帆にだけ、故意にその情報を秘匿したかったのではないか。
史帆がまだ藍染に情を持っているから。彼を斬る覚悟がまだできていないから。
護廷十三隊を裏切って、彼を選ぶのではないかと、思われているから?
「……、」
平子に気付かれないように唾を飲み下し、史帆は目を伏せる。
自業自得なことはわかっていた。すべて、その予想が正しかったとしても、それは史帆の決めきれない甘さが招いていることだ。彼らはけして悪くない。
双極の一件以来、護廷十三隊の一部から向けられた白い目を思い出して、史帆は小さく嘆息する。
「史帆ちゃーん? 聞こえてますぅ?」
「え、あ、はい? なんでしょう、平子隊長」
ぼうっとしていたところ、視界にひらひらと手のひらが振られて、史帆は我に返った。平子が呆れたように肩をすくめる。
「その隊長っていうのやめ。もうちゃうわ」
「じゃあ、なんとお呼びすれば?」
「真子くんでええよ」
「無理です!」
もう護廷十三隊の隊士ではないにせよ、元上官にそんな親しげな口はいくらなんでも聞けない。しかし平子は不満げに首を曲げて、唇を尖らせた。
「なんでやねん。藍染は副隊長でも呼び捨てやったやんけ」
「いや、それは幼馴染なので……というか仕事中はそんな呼び方してませんし」
「じゃあ今はもう仕事仲間ちゃうし、呼べるやろ? ほれ言うてみ、真子くんって」
「しつこい男は嫌われますよ、平子隊長」
「ノリ悪いなぁ。まあええわ、なんでも」
自分から首を突っ込んだ癖にあっさり呼び方の論争を放り投げて、平子は気だるげにポケットに手をつっこむ。
「えらいぼーっとして。一護がどないかしたか?」
平子の問いに一瞬考えて、「虚化を見るのが初めてで、驚いて」と史帆は答えた。黒崎一護が内に虚の力を持っていることは前々から聞いていて、確かにその実際を見るのは初めてなので、嘘ではない。ぼうっとしていた理由そのものではないけれど。
史帆の返答に、ああ、と平子はあっさり頷いた。どうやら、平子らも生き延びるために身体の中に虚を取り込んでいるらしかった。その元凶を思えばあまり触れたくはなかったのだが、そんな史帆の懸念をものともせず、平子はずいぶんあっけらかんとした様子だった。あれからもう百年だ。彼の中ではある程度折り合いをつけているのかもしれない。
「えらいじっくり見とるから、一護に惚れたんかと思ったわ」
「違います」
「せやなぁ。史帆ちゃんは昔から藍染しか見とらんもんな」
「違います」
「男の趣味悪いで、自分」
「だから違います!」
気を遣って話しているのがだんだんいらぬ苦労な気がして、史帆は肩を落とした。そういえば昔から、平子は史帆をからかって遊ぶとき、ずいぶんと楽しそうな表情をする。今もそうだ。口が裂けても言えないけれど、そこは少しだけあの幼馴染と似ていた。