乱菊が風呂に入っている間に史帆はふと思い立って、織姫に断ってから屋根の上に登ってみた。そこにはやはり日番谷の姿があって、彼は背中を丸めて夜の空をじっと見上げていた。
「どうした」
「どうしたも何も……日番谷隊長、本当に下りてきたらいいのに」
「俺はここでいい」
きっぱりとした声音に、史帆は小さく息を吐く。季節は夏の終わり。比較的あたたかい時期だとはいえ、夜の空気の中に半袖で過ごすのはあまり身体には良くないのではないだろうか。
上着か何かを貸してもらえないか、織姫に頼んでみよう。そう思って一度屋根を下りようとした史帆に、ふいに日番谷が声をかけた。
「四谷、良い機会だ。てめぇに確認しておきたいことがある」
呼ばれて、再度、史帆は日番谷を振り向いた。ずいぶんと大きく浮かんでいる今晩の月に並ぶと、彼の背はいくらか小さく見える。
「何でしょう」
「覚悟は、決まったのか」
少しだけ、史帆を見るように振り向いた横顔は、月影に入って薄暗い。それでも鮮やかに光る翡翠が、じっと、射貫くような鋭さで史帆を見ていた。
「……覚悟、ですか」
「そうだ。もう時間もねぇ。いつまでも迷ってはいられねぇだろ」
ぐ、と言葉を飲んだ。日番谷が何を言いたいのかは、わかっている。双極の丘で、藍染にも言われたことだった。
護廷十三隊の誇りを守って藍染を斬るのか、それとも、護廷十三隊であることを捨てて、藍染を選ぶのか。日番谷はもちろん、護廷の誰もが後者は想定していなくて、史帆にただ前者の覚悟を定めさせようとするのだろうけど。
そうですね、とつぶやいた声は、自分でも思った以上に透明で、感情さえも抜け落ちていた。
「おっしゃる通りです……本当に」
日番谷が目を細めた。そのまま何も言わず、黙って、見定めるような色を持って、史帆から視線を逸らさない。
しばらく、互いに沈黙していた。時折静かに流れる夜の空気が、日番谷と史帆の服の裾を揺らす。衣擦れは葉音のように些細だ。
やがて、日番谷がその静寂を破り、「四谷」と呼んだとき、タイミングを計ったように、ポケットの中の伝令神機が鳴った。同時に、肌を刺すような何者かの霊圧。日番谷の目が見開かれる。
――破面の襲撃だ。まさか、こんなに早く。
驚く史帆をよそに、日番谷がすぐさまポケットから義魂丸を取り出し、口に放り込む。脱ぎ捨てた義骸にすぐさま離れるよう言いつけてから、見慣れた袴姿で史帆に向き直った。
「四谷、話は後だ。戦闘準備を急げ」
「っ、はい」
日番谷と同じように、義魂丸を飲み込んで義骸を脱ぎ捨て、史帆もまた死神の姿に戻る。そこで部屋から出てきたらしい乱菊が、屋根の上に軽快に飛び乗り合流した。井上織姫は、という日番谷の言葉に、戦闘に参加しないよう義骸に見張らせている、との答え。頷き、日番谷は何もない空を見上げる。
「来るぞ。構えろ、二人とも」
日番谷にならい、史帆と乱菊の二人も刀を抜いて構えたそのとき、目の前に前触れもなく三体の破面が現れた。ずいぶんと性急だと、史帆はこっそり嘆息する。
死神とよく似た、しかし色だけが真逆の死覇装を身に着けたひとがた。話には聞いていたが、思ったよりもずいぶんと死神じみた見た目をしていて、やるせない気持ちになった。
誰も口を開くこともなく、数秒対峙していた。一秒が数分にも感じられるほどの緊張感。
ふいに、破面の一人がほんのわずか口角を上げたその瞬間。目の前に刃が光った。
「――ッ、!」
ほとんど反射神経だけで、刀でそれを受け止め、史帆はぐっと奥歯を噛みしめる。
「あんた、弱そうだな」
史帆に切りかかった破面が、至極つまらなさそうにつぶやいた。一度刀を払って距離を取り、史帆は肩をすくめる。
「そう見える?」
「今の攻撃でもぎりぎりじゃねぇか。手加減したんだぜ、これでも」
「だって、びっくりしたんだもの」
笑ってそう言いながら、史帆は周囲に一瞬視線をめぐらせた。乱菊は乱菊で、日番谷は日番谷で、それぞれの相手に一対一で戦闘を始めているようだった。それを確認してまた、目の前に対峙する破面に視線を戻す。まっすぐな赤髪に、どこか少年らしさを残した青年。
「せっかくならもうちょっと強そうなやつが良かったんだけどな……破面ナンバー19、ギド・エックハルトだ」
「八番隊第三席、四谷史帆です。強いかどうかは戦ってから判断する方がいいよ」
とたん、男が訝しむように目を細めた。四谷史帆、と小さな声で復唱し、頭を掻く。
「聞いたことあるな、その名前」
「へえ。なんでだろうね」
言いながら、史帆は宙を蹴り、勢いよく斬りかかった。まだ思い出そうとして思い出せずに顔をしかめているギドは、しかし特に焦った様子もなく応戦する。
剣で打ち合って、間合いを取っては互いに探りあって、それをしばらく繰り返すうちに史帆はふと、いつもよりずっと早く自分の息が切れていっていることに気が付く。破面と闘うにはいささか霊圧が足りていないのだ。史帆を含め、先遣隊のメンバーは皆、現世における力の解放に制限がかかっている。破面が出現したそのときからすでに限定解除の申請はされているが、許可が下りるには多少時間がかかる。連絡はまだ来ない。
距離を取った合間、刀をくるくるともてあそびながら、史帆の息切れに気が付いたのか、ギドが嘲るように唇をゆがめた。
「もう限界なのか? やっぱり弱いじゃん」
「……手厳しいね」
はやる呼吸をごまかすように肩をすくめる。そのときふいに、大きな音をともに乱菊の呻き声が聞こえて、史帆は反射的にそちらに視線を取られた。屋根に叩きつけられた乱菊が、その額から一筋の血を流し、痛みに顔をゆがめている。
「乱菊っ、!」
「よそ見してんなよ!」
動揺した一瞬、また目の前から容赦なく刃が振り下ろされて、史帆は間一髪のところで受け止める。斬りつけるギドの顔はずいぶんと不機嫌そうだった。
「……そんなに怒らなくても」
「弱いやつに舐めた真似されると、一層むかつくもんだろ」
「そう。気が短いんだね」
そうして笑った瞬間、服の中にしまっていた伝令神機から、限定解除下りました、と焦った声が聞こえた。思ったよりも遅かったと心の中で文句を垂れながら、抑圧されていた力を解放する。
史帆の霊圧が急に跳ね上がったことに気が付いたのだろう。ギドが目を見開き、すぐさま飛びのいて距離を取った。訝しげに眉を寄せ、史帆の様子をうかがっている。その警戒が先ほどまでの言動からすればどうも不釣り合いで、思わず苦笑した。
「ごめんね。お待たせ、ギドさん」
「……」
ギドは動かない。こちらから仕掛けるのを待っているらしい。仕方ない。
刀を握る手に力を込める。行こう、と心の中で語りかければ、奮い立つように剣が熱を帯びた。
「瞬け、」
そっと剣先を持ち上げて、その名前を呼ぶ。
「――綺羅星」
ギドはやはり動かない。距離を取ったまま、どこから来ても対処ができるように、警戒の糸を張り詰めている。だから史帆は自分から踏み出して、切りかかった。応戦するギドも、先ほどとは比べ物にならないほどに上昇した霊圧にまだ戸惑っている様子だった。
また接近して刃を刃にぶつけ合い、つばぜり合いから押し飛ばし、数歩たたらを踏むように下がって、史帆は目を細めた。数メートル離れた先では、ギドがわずかに息を荒げている。しかしその血走った目は、一瞬たりとも視界から逃さぬようにまっすぐ史帆を捉えていた。
「そんなに警戒しなくても」
「……」
「目の前の敵ばっかり意識しちゃだめだよ。ちゃんと周りも見ないと。ほら、そのあたり、」
そっと口元を緩めながら、史帆は告げる。ゆっくりと、彼の後ろを指さして。
「たくさん落ちてるから、危ないよ」
「――……ッ、!」
"それ"は目に見えない。しかし迫り来る危険に、あるいは霊圧で、察したのかもしれない。わずかに振り向き、何もないはずの夜の空を見て、男はその顔を驚愕させた。
次の一瞬に、大きく切り裂かれた身体から、鮮血を溢れさせて。
悔しそうに眉根を寄せ落ちていく彼を見ながら、史帆はひとつ大きく息を吐く。そして刀を収めた。
綺羅星は、飛ばした斬撃を史帆の意のままに操れる力だ。戦闘中に振り下ろした刃から発生した斬撃を周囲に停滞させておけば、後は指先一つ動かさずとも、相手にそれをぶつけることができる。
ふと綺羅星が、すでに収められたというのに、どこか誇らしげに胸を張っているように感じて、史帆はたまらず苦笑した。たまにこういう子どもっぽいところがあるのだが、そんな彼女が自分の魂の写し身だと思うと、どうも納得がいかない。
乱菊と日番谷の方を見ると、彼らもまた限定解除が下りたことで問題なく相手を圧倒しているようだ。手助けなどはおこがましいだろう。彼らを遠目に、史帆は戦いで疲労した身体で大きく伸びをする。織姫のところへ戻って様子を見ようか、と思ったとき、ふいに、史帆の身体を突き抜けるような寒気が襲った。
先ほどまではなかった、新しい霊圧だ。しかし、知っている霊圧。
「東仙隊長……!?」
改めて霊圧を探知すれば、かなり消耗している一護、ほとんど消えかかっているルキアの霊圧に、今自分が倒した破面よりも数段強大な霊圧と、そしてその新しい霊圧が集積している場所を見つける。そこまで遠い距離ではない。
全身全霊の瞬歩で史帆がその場に駆けつけると、場は惨憺たる有様だった。あまりの光景に息を飲む。
ルキアはすでに意識を失って倒れており、一護はぼろぼろの状態で地に膝をついていた。それに相対する水色の髪の破面と、見知った顔が、たった今ちょうど、黒腔に帰ろうとしているところだった。
突然現れた史帆に二人が足を止め、振り返る。破面の男は誰だとでも言いたげな表情で黙ってにらみつけるだけだが、もう一人は史帆に気付いて、わずかに顎を引いた。
「四谷か」
「……お久しぶりです、東仙隊長」
一護が咳き込みながらも、四谷さん、と名を呼ぶ。意識が残っているのがほとんど奇跡のような様子だが、それでも史帆の身を案じているのだろう。たった今彼らが帰ろうとしていたなら、確かに自分がこの場に来たことは藪蛇だったかもしれないと史帆も思うけれど、来てしまったものは仕方ない。
史帆の言葉に、東仙は呆れたように鼻で笑った。
「まだ私を隊長と呼ぶのか。愚かなことだ」
「……」
東仙の言葉にはとげがあった。場に緊張が張り詰める。東仙は数秒黙って史帆を見つめていたが、そのまま何も言わず踵を返し、黒腔へと足を踏み出した。破面の男もそれに続くと、二人を飲み込んで、空間の裂け目がゆっくり閉じていく。
「――君は変わらないな」
東仙の声は、その歩みよりもずっと早く遠ざかっていくような響き方をして、史帆の鼓膜を揺らした。
「いつまでもそうやって、膝を抱えて泣き続ければいい。考えることも選ぶことも放棄して。それが、君のためだ」
信じられないほど冷たい声音に、肌が粟立つ。刀にかけた手が勝手に震えた。
「君に、藍染様の隣に立つ力はない」
その言葉を最後に、二人を食らうように黒い空間が口を閉じ、その裂け目さえも跡形なく霧散した。張り詰めた糸が切れるように、あたりを覆っていた霊圧が消えて、元の静かな夜が戻る。
それでも史帆は動けないまま、何もなくなったその場所を、しばらくの間呆然と見つめていた。