藍染の離反から一か月。護廷十三隊はようやく元の落ち着きを取り戻し始めていた。
史帆の腹の傷も完治し、数日前から何の支障もなく執務に戻っている。入院中、藍染と親交が深かったという理由で念のために何度か取り調べを受けたが、藍染が自ら話した以上のことを史帆が知らないとわかると、それも取りやめられた。案外あっさり解放されたのは彼女自身双極の一件で藍染らに攻撃を受けたことも影響していて、それならばやはり彼女は藍染らの仲間ではないのだろうという判断になったのだ。その点でいうと、あのとき藍染が史帆を刺したことはある意味で彼女の先を救ったとさえ言えた。癪な話だが。
しかし、隊士たちの個人的な感情として、それを理解できない者もいるのもまた事実だった。八番隊の隊士ですらどこか腫れ物に触るように史帆に接する者もいて、復帰してまだ数日だというのに、史帆は藍染が離反する前よりもずっと一日一日の疲労を強く感じていた。
今日も今日とて、数名の席官とともに執務室で書類仕事に取り掛かっていた史帆は、そのぴりついた空気によって、始業一時間ですでに溜息を吐きたくなるほど疲れていた。そんな折、ちょうどよく四番隊への提出書類が残っているのを見つけて、史帆はこれだとばかりに立ち上がる。
「四番隊に書類出しに行ってきます」
誰にともなく声をかけた史帆に、席官たちは、はい、と短く返す。書類片手に執務室を出て、扉を背に大きく息を吐いてから、四番隊隊舎に向かって歩き出した。離れ際、部屋の中から何か席官たちのしゃべり声が聞こえたけれど、さすがに内容まで耳をそばだてる気にはなれなかった。どうせ自分の話だろう。聞けばまた一層疲れるだけだ。
人気のない廊下を歩きながら、今までだったら、と、史帆はぼんやり考える。
今までなら、こうやって何だか疲れたときややるせないとき、史帆の話を聞いてくれるのは専ら藍染であった。ふとしたときに現れては気軽に史帆を茶に誘い、取り留めない愚痴にも黙って付き合ってくれた、あの幼馴染だった。しかし、彼はもう尸魂界にはいない。尸魂界を裏切り、彼は史帆の前から姿を消した。
今、史帆にこうして溜息を吐かせる根本的な原因は突き詰めれば彼にあるので、彼の不在を嘆くのはそういった意味では少しおかしな話でもあるのだが。
疲れた、と心中でひとりごち、溜息を吐くと、後ろでかすかに衣擦れの音がした。
「お疲れのようですね」
「え」
声をかけられる直前までその気配に気付かず、史帆は驚愕して弾かれたように振り向いた。そこにいたのは、聖母のような笑みを浮かべた卯ノ花だった。
「あ、卯ノ花隊長……ちょうど今四番隊に伺おうとしてたんですよ。書類をお届けに」
「おや。それはご苦労様です」
そう言って、卯ノ花は史帆を見つめ、いたわるように目を細める。
「経過はいかがですか」
「お腹の怪我なら、もうばっちりですよ」
あの後、入院している間に卯ノ花が何度か直接治癒を施してくれたのだ。藍染に刺された腹には、もはやその傷の痕跡さえ残っていない。
「そうですか。それは何より」
「ありがとうございます。あとあの、これ、八番隊から、先日の討伐任務についての報告書です」
ここで卯ノ花に会ってしまったことを少しだけ残念に思いながら、史帆は手に持っていた書類を差し出した。できれば四番隊隊舎まで行って執務室にいる時間をなるべく減らしたかったのだが、仕方ない。
しかし卯ノ花はそれを受け取ろうとはせず、書類に目もくれることもなく、ただじっと史帆を見つめ続けた。
「あの、卯ノ花隊長……?」
「四谷三席。少しお痩せになったのでは?」
「え、あ、うーんと、どうでしょう……」
言われて、史帆はここ数日を思い返す。そういえば近頃体重を測っていないが、最近は考えることが多かったせいか食事も控えめで、甘味を食べる気分でもなかったので、確かにいつもよりは食べていなかった。多少は痩せていても不思議ではないだろう。
曖昧な返事に、卯ノ花は落ち着いた声音でそうですかとつぶやく。そして差し出されたまま宙で泳いでいた書類を受け取り、言葉を続けた。
「よろしければ、少し隊舎まで寄っていかれませんか」
「え?」
「あなたは甘味が好きでしたね。勇音が先日買ってきてくれた和菓子があるのですが、食べきれなさそうで困っていたんです。食べておいきなさい」
そう言って、卯ノ花は史帆の先を歩き出した。卯ノ花の声は優しくて穏やかで、おそろしさなど微塵も感じないのに、逆らう気力を消し去る不思議な力を持っている。百年前から変わらぬそのたおやかな迫力に、史帆はいつだって敵う気がしなかった。
少し間を開けて、史帆も卯ノ花の後を追う。正直あの執務室には戻りたくないから、卯ノ花の誘いは史帆にとっては救いだった。他隊の隊長に誘われて断る方が無礼なのだから、史帆の行動を咎める者はいないはずだ。
四番隊隊舎にある応接室に案内され、促されるままソファに腰をおろす。部屋に控えていた隊士にお茶を淹れるよう頼んでから、卯ノ花も向かいに座った。
「仕事の方はどうですか」
「支障なくできていますよ。京楽隊長が気を遣って仕事量を減らしてくださっていたんですけど、週明けにはもう元通りまで戻してもらう予定です」
「そうですか。素晴らしいことですが、くれぐれも無茶はなさらぬように」
史帆は苦笑しながら、はいと答えた。そういえば卯ノ花とも、もうずいぶん長い付き合いだ。京楽や浮竹とまではいかないが、彼女からしてもまだ自分は子どものように危うく見えるのかもしれない。
戻ってきた隊士が茶と羊羹をそっと机に乗せる。彼に礼を言い頭を下げてから、史帆はいただきますと手を合わせた。
「芋羊羹ですか。いいですね」
「お好きですか?」
「甘いものは全部好きです。例外なく」
大げさな言い方に、卯ノ花がまあ、と口に手をあてて笑う。そのしぐさの優美さに、史帆は一瞬目を奪われた。この人はいつも、本当に流麗なふるまいをする。うつくしい女性とはこういう人のことを言うのだろう。
「しかし、甘味だけではなくて食事もきちんと取ってくださいね。食欲はありますか?」
「お腹は、すくんですけど」
語尾を濁らせた史帆の答えに、卯ノ花は眉を下げた。
「けど?」
「えっと、……なんというか、色々考えて、ぼーっとしてるうちに、食事の時間が過ぎてることが多くて……」
そこで言葉を切って、史帆は叱られるのを待つ子どものような気持ちで、目の前の卯ノ花を顎を引いて見上げた。表情こそ厳しくはないが、無言の卯ノ花はそれだけで少し怖い。
数秒して、卯ノ花はそうですかとつぶやいた。それだけだった。
微妙な沈黙が気まずくて、史帆はそれから逃げるように、出された芋羊羹をフォークで小さく切る。切り出されたかけらをそのまま口に入れて、広がるほのかな甘味に目を細める。
やがて、史帆が半分ほど羊羹を食べ終えたところで、まだお茶を飲んでいるばかりで羊羹には手を付けていない卯ノ花が口を開いた。
「あなたはよく頑張りました」
フォークを片手に、史帆はぴたりと動きを止める。目をまたたかせて卯ノ花を見つめると、その口元がわずかに緩んだ。
「ゆっくりで構いません。少しずつ、自分の心と折り合いをつけていけば良いのです」
湯気の立つお茶を一口すすって、卯ノ花が落ち着いた声音で告げる。
「急かされた決意は容易に揺らぎます。どんなに時間をかけてでも、後悔のないように決めなければ意味はありません」
「……」
「あなたが彼と過ごしたこの百年は、そのために必要な時間だったとお思いなさい」
その言葉は史帆の胸にすとんと落ちた。自然と頷いた史帆に、卯ノ花もほほえみを深めて頷き返す。この口ぶりでは、もしかしたら卯ノ花も、京楽らからすべて聞いているのかもしれない。
史帆がこの百年間、故意に藍染を告発せずにいたのを知るのは京楽と浮竹だけだ。彼らは上層部にそれを伝えなかった。すでに藍染が離反した今となっては、史帆がそれを告発していようがいまいが追及している場合ではない、という理由らしかった。きっとそれは建前で、彼らは史帆が護廷十三隊で居場所を無くさないように守ってくれたのだろうと、史帆自身も心の奥底ではわかっているのだけれど。
ふと、卯ノ花がぱっと目を開いて、何かを閃いたように手を軽く叩いた。
「そういえば、良い気晴らしになりそうな任務がありました。私から京楽隊長にひとつ進言しておきましょう」
「え?」
「早ければ数日以内にお伝えできるでしょう。楽しみになさっていてください」
何の話だろうか。目を白黒させて、史帆は沈黙によって先を促す。しかし卯ノ花はそれ以上詳細を話すつもりはないようで、ただ唇をうつくしくほほえませたまま、こちらも食べますか、と、自身の羊羹の皿を史帆に差し出した。