とうに日付を超え、すっかりあたりが寝静まった頃に部屋を尋ねたのにも関わらず、藍染は優しく笑って雛森を歓迎した。何やら書き物をしていたようで、机に向かって筆を走らせながら、しかし雛森の話にはきちんと丁寧に応答してくれる。何かわからない漠然とした不安感から、さしたる用もなく隊長の私室へ非常識な時間に足を運んで、本来なら副官としては許されない非礼だ。しかしそれも、彼なら許してくれると思って来た部分は否めなかった。
藍染隊長、とその背中に呼びかけると、うん、と穏やかな声が返ってくる。それだけで雛森は嬉しくなって、ずっとこの場にいたいと思う。
「何かな」
「あ、ええと……」
何も質問もないのにぼんやりと名前を呼んでしまったことに気付いて、慌てて問いを探した。あわあわと記憶をたどって、ふと、よく藍染とともに話題に上がる女性の名前を思い出す。先ほども、阿散井を寝かせていた離れで顔を合わせたばかりだった。
「四谷、さん」
その名を口にすると、わずかに藍染の肩が跳ねた、ように見えた。え、何だろう、と思いながらも、呼びかけた意味を持たせるために、しどろもどろになりながら、会話を紡ぐ。
「藍染隊長の、幼馴染の方、なんですよね」
「うん、そうだよ」
何度か、副官として藍染に同行している際に、隊舎ですれ違って藍染と世間話をする彼女の姿を見たことがあった。隊が違うからそこまで頻繁に会うわけではないが、それでも藍染の雰囲気が、彼女に対してだけは他の者に対してのそれとわずかに変わるので、印象に残っている。
迷った末に、いっそ無礼を重ねるなら今しかないと、雛森は思い切って尋ねた。
「お付き合い、されてるんですか?」
藍染の手が止まったのが、背中越しでもわかった。気分を害しただろうか、と心が怯む。しかし、振り返った藍染の顔はずいぶんと穏やかだったので、どうやらそういうわけではないらしい。雛森はこっそりと胸を撫でおろす。
困ったな、と苦笑する顔は、むしろどこか気恥ずかしそうだった。
「昔よく聞かれたよ、その質問。曖昧に返すと、誤解を招く返答するなって彼女に怒られて。懐かしいな」
的を射ない返答に、雛森がなんと言うべきか迷っていると、それを知ってか知らずか、藍染は続けた。
「だからはっきり言うけど、その質問に対する答えなら、いいえ、になるね」
そうですか、と雛森は言った。その声音に思ったよりずっと安堵の色が出てしまって、わずかに焦る。雛森が藍染に抱く感情は、もはや雛森本人にとっても恋慕なのか敬慕なのかわからないが、ただ自分が隊長相手に恋心を抱くことが分不相応とだけは思っていた。
「彼女のことが気になるのかい?」
「あ、いえ、えっと……」
突っ込まれたくないところを突っ込まれ、雛森は慌てて言い訳を探す。何か、この場で口にしても角が立たない言い訳を。
隊舎の廊下で、何気なく言葉を交わしていた二人の姿を思い浮かべる。藍染が隊長位だからだろうか、どこか距離を取ろうとしている空気は感じたものの、会話の内容自体は幼馴染らしい気軽さで、いいなと思ったことを雛森はよく覚えている。
「……藍染隊長のお近くにいれるのが、うらやましいなと思った、だけです」
気付けばそう言っていた。言った後で、目を丸くしている藍染を見て、やっと自分の発言がかなり大胆なものであったことに気付く。まずい、何とかしなければ、と思ったとき、藍染がそれより先に小さく笑った。
「ずいぶんとかわいらしいことを言うね。君の方がよほど僕の近くにいると思うけど」
「す、すみません……」
からからと笑う藍染は、きっと自分の気持ちには気付いていないのだ。雛森は思う。
普段雛森が藍染のそばにいるからとか、そういうことではない。藍染が、彼女にだけはほかに見せない心を許している、そのことがうらやましいのだ。
「雛森くんは雛森くんだし、彼女は彼女だよ。羨ましがる必要なんてないさ」
羨ましがる必要はない。たしかにそうなのかもしれない。羨ましがったって、あの人になれるわけではないのだから。
けれど、もしも自分があの人のように、藍染の心のほんの片隅にでも棲むことを許されたなら、それは自分にとって、これ以上ない喜びだろう。
雛森の返事を待たず、藍染はまた書き物に戻ってしまう。その背中を少しの間見つめてから、雛森は自分の身勝手な心に、小さく溜息を吐いた。