藍染らの離反から数日後。
入院期間を終えてようやく自由行動を許可された史帆が真っ先に向かったのは、雛森の病室だった。四番隊管轄の病棟の中でも重傷者のために使用される特別病室をめぐり、複数回った後に、その名札の下げられた病室を見つける。
扉は施錠もされておらず、部屋の中央には一つの無機質なベッドが置かれているだけだ。そこに雛森が眠っている。心拍を測定する機械が、一定の間隔でリズムを刻み、彼女の心臓がまだ確かに動いていることを教えていた。
一命は取り留めた、と卯ノ花は言った。少なくとも、命に別状はないのだろう。しかし、問題は心の方なのだ。
藍染が雛森にした仕打ちのすべてを史帆が知ったのは、藍染が尸魂界を去った後だった。藍染が偽装死の際に雛森に手紙を遺していったこと。日番谷を犯人だと思い込み、幼馴染である彼と殺し合いを演じたこと。何もかも、藍染のために、藍染を信じて行動し、彼が生きていたことを心から喜んで、そうして彼女は何もわからぬまま藍染に斬られたのだ。
彼女が受けたであろう痛みを思い、こらえるようにぎゅっと目を閉じた直後、入口の方に気配を感じて史帆は振り向いた。明るい廊下を背にして立つ彼は、暗い病室からは影がさして見えた。
「日番谷隊長、もうよろしいんですか」
「こっちの台詞だ」
いつも通りの不機嫌そうな声色でそう言うと、日番谷は病室へ足を踏み入れた。史帆と並んで雛森を見下ろす。その横顔を見つめて、史帆はそっと目を伏せた。
「卯ノ花隊長から聞いた。あと少し刺される場所が悪ければ、即死だったそうだ」
「……そうですか」
「お前が、助けてくれたんだろ」
日番谷の大きな瞳が、まっすぐに史帆をとらえる。その強い視線に耐えられず、史帆は目をそらした。あのとき史帆が一切の躊躇いなく藍染に斬りかかっていたなら、おそらく雛森は傷を負うこともなかったはずだ。その逡巡が、史帆にはどうしても後ろめたい。
「助けたかった、んですけど……すみません」
「なぜ謝る」
雛森から史帆へ、その身体を向き合わせて、日番谷は隊長らしい声ではっきりと口を開いた。その声に込められた力強さに、史帆は驚いて顔を上げる。
「お前だけじゃない。俺だって、ほかの誰だって、後悔だらけだ。それでも、手から零したもんにばかり気を取られちゃいけねぇ。手の上に残った、守れたもんを忘れちゃいけねぇんだ」
日番谷の顔は精悍だった。
手の上に残ったもの。守れたもの。双極の丘で、みんな生きているのだから文句はないと、息を吐いた京楽を史帆は思い出す。
「もっといい方法があったかもしれねぇ。でも、今、少なくとも雛森の命がつながってんのは、お前のおかげだ。……礼を言う、四谷」
そう言って、小さく頭を下げると、日番谷は隊長羽織を翻し、来た道を戻っていく。唖然と口を開いたままその背中を見ていた史帆は、我に返り、慌てて深く頭を下げた。数秒そのままの姿勢でいて、ゆっくりと戻せば、すでにそこには日番谷の姿はない。史帆はふうと一つ溜息を吐く。
「すごい人だな……」
「そうなんですよ史帆さん!」
「わっ!?」
独り言のつもりでつぶやいた言葉に、突然背後から抱きつかれて返事をされ、史帆は短く悲鳴を上げた。背に当たるやわらかい感触とその甲高い声で、すぐに誰かは理解した。
「ら、乱菊……」
呼べば、思いのほかあっさりと腕を離し、乱菊は花のほころぶように笑う。
「怪我、だいぶいいみたいですね」
「軽傷だったからね」
史帆の言葉に、乱菊は呆れたように肩をすくめた。四番隊が不眠不休で働かなくてはならないほどに大勢のけが人が出たというのに、その中でも入院患者としてベッドを用意されたくらいだから、史帆の怪我が軽傷であるわけはない。それでも阿散井恋次や朽木白哉をはじめとする一部の超重傷者に比べれば、自分の怪我はかわいいものだと史帆は認識していた。
雛森に視線を移し、乱菊がぐっと眉をひそめる。副隊長同士、史帆よりも雛森と関わりがあったのだろう。聞けば、日番谷が清浄塔居林にくる直前まで、事態のおかしさに気付いてともに真相究明のため動いていたらしい。もしかしたら彼女もまた、間に合わなかったことを悔んでいるのかもしれない。
「乱菊は怪我なかったの? 吉良副隊長と戦ったって聞いたけど」
「ほとんど無傷でした!」
「そ、そう……それは良かった」
「そうだ、今度吉良と飲むんで、史帆さんも来てくださいよ」
「そうなの? それは行きたいな、ぜひ」
つい先日に真剣で斬りあった相手と気軽に飲めるその胆力は、乱菊のすばらしき才能だ。苦笑しながら了承の返事をする史帆に、乱菊が喜んで頷く。
「吉良もきっと落ち込んでるだろうから、色々吐かせないと。一人で抱えるよりも、覚悟決めて誰かに吐いた方が楽になりますからね」
「……そう、だね」
吉良が落ち込んでいるであろう理由は、史帆にもわかる。市丸の離反だ。
雛森の藍染に対するそれと同じとまでは言わないが、吉良も市丸をよく慕っていた。彼の裏切りは吉良にも大きなショックを与えただろう。
そしてそれは、目の前の友人も同じはずだった。
しばらく、二人の間に沈黙が訪れる。いつも絶え間なくしゃべり続ける乱菊にしては珍しいことだが、その沈黙の根源が何にあるのかは、二人ともわかっていた。
「……ねえ、乱菊」
こぼした声は、思ったよりもずっと無機質に鳴った。乱菊がわずかに顎を引く。
「しんどかった、ね」
「……」
乱菊はわずかに目を細め、悼むように史帆を見つめた。
藍染惣右介が史帆の幼馴染であるように、市丸ギンは乱菊の幼馴染だった。だからこそきっと、悲しくも、互いが互いにその心中を最も理解できる立場だった。他人の心の痛みなど、想像はできてもわかってあげられることはないけれど。
こんな苦しみを共有せず、もっとくだらない話をしていられたなら、どんなに幸せだっただろうか。
「……そうですね」
「一緒に、いたかったんだけどな」
「……」
「……もっと言ってもいい?」
「いいですよ、なんでも」
まなじりを下げてそっとほほえむ乱菊の、その淡水色の瞳の奥に、かすかに揺れる光を見る。
悲しかった。自分も、目の前の彼女も。
「大体わがままがすぎるんだよ、あの人」
「奇遇ですね。あいつも、本当に自由奔放で、自分勝手なんですよ」
「全部知ったような顔して、何も教えてくれないし」
「言葉足らずなくせに、いっつも意味深なこと言ってくるし」
「自分のこと超優秀だと思ってるから、まわりのことすぐ見下すし」
「行先も言わないで、すぐふらふらってどこかに消えちゃうし」
交互に、迷うことなく飛び出す愚痴に、ふたりはだんだんとたまらなくなって、小さく吹き出した。それが徐々に大きくなり、やがて声を立てて、ふたりで笑う。目の奥が熱くって、でも乱菊がなんでもいいと言ったから、史帆はもうこらえることなく、泣いた。
「男って馬鹿ね」
「本当に」
滲む視界をぬぐいながら、ふと、目の前の乱菊も、その大きな瞳をうるませていることに気付く。
「女を泣かせる男なんて、どんな理由があれろくでなしですよ」
「はは、間違いない」
軽口を叩きながら、互いの背に震える腕を回す。互いの心の傷を、誰にも打ち明けられないその傷を癒しあうように相手を抱きしめて、二人は誰も見ていないその部屋で、静かに泣いた。
泣くのはこれで最後にしよう。震える喉で嗚咽を殺し、史帆は心の中で誰にともなく約束する。少なくとも、何を選ぶのか決める、その決断の瞬間までは。
乱菊の胸に抱かれ、史帆は目を閉じる。窓からこぼれいる光はすっかり昼下がりのそれなのに、頬を伝うしずくの方がずっとあたたかくて、それが今の史帆にはとても不思議なことのように思えた。
(尸魂界編 終)