取り乱すルキアと、彼女を離さない白哉に向けて藍染が足を踏み出し、自らの刀を抜こうと手をかけたそのとき、天から迫る新しい気配に、その場にいた全員が揃って顔を上げた。巨人とその肩に乗った女が、すさまじい速度で宙を下ってきていた。女の放った破道を飛びのいて避けた藍染だが、それを見越したかのように、瞬歩で現れた夜一と砕蜂がその身体を捉える。
「なんや、派手やなぁ。どないしよ」
破道に撃たれて飛び散る砂粒を払いのけた市丸の手が、瞬間誰かに掴まれる。ちゃき、と、刃の音。
現れた霊圧に、史帆ははっと顔を上げた。
「乱菊……」
名を呼ばれた彼女は、警戒の表情を浮かべたまま、一瞬だけ史帆に目を遣る。その肩に乗せられた市丸の手を睨み、彼の首元に刃をつきつけたまま低く告げた。
「……史帆さんを離して」
沈黙。市丸と乱菊が、無言で何かを探り合うように睨みあう。やがて小さく肩をすくめた市丸が、史帆の肩から手を離して持ち上げ、ひらひらと振ってみせた。それは降参のポーズにも似ていた。
次々と空から大きな霊圧が降り注いでくるのを呆然と見ながら、史帆は、不意に自分の身体がふわりと持ち上げられたのを感じる。瞬きの間に市丸は遠く離れていて、移動させられたのは自分なのだと、少し遅れて気が付いた。視界に映る、自分を包み込むようにひらめく桃色の羽織。
「遅くなっちゃったね。ごめんよ、史帆ちゃん」
「京楽、隊長」
震えた声に、史帆を抱きあげた京楽は優しくほほえむ。そしてすぐに顔を上げ、神妙な顔で藍染を見つめた。
砕蜂と夜一によってその首に刃を突きつけられながらも、藍染の微笑は崩れない。史帆にとってはそれが、おぞましいほど不気味に見えた。
「これまでじゃの、藍染」
夜一の言葉に、藍染が首を傾げる。わからんか、と、出来の悪い子どもに呆れるような声で、夜一は続けた。
「もはやおぬしらに、逃げ場はないということが」
すでに丘には隊長格が十余名集結している。市丸は乱菊に、東仙は檜佐木にそれぞれ拘束され、藍染と同じく今すぐにでも首を斬れるように刃を突きつけられていた。夜一の言う通り、ここから逃げることなど到底不可能なようだ。
しかし、藍染は何も言い返すことなく、ただ黙ってその口元を微笑ませた。夜一が不愉快げに眉根を寄せ、何がおかしい、と問う。
「すまない。時間だ」
「――、っ、離れろ!」
そのつぶやきに、砕蜂と夜一が危機を察知して飛びのいた直後、彼を守るように天から神々しい光が落ちてきた。降り注ぐその光には見覚えがある。大虚が同族を助けるときに使う、反膜だ。
まばゆい光に包まれ、そのまま地面ごとえぐり取って空に開いた黒腔へと登っていく藍染を見上げながら、史帆は思わず唾を飲んだ。
まさか、虚圏に逃げる気か。あの枯れ果てた世界に。
京楽の腕に支えられながらなんとか立っている状態の史帆を、ふいに藍染が呼んだ。空から降り注ぐ声に顔を上げれば、少しずつ遠ざかっていく鳶色の双眸が、たしかに自分を見下ろしている。
「史帆。一つだけ、幼馴染として君にアドバイスをしよう」
その声は、今の今までこの争いを引き起こしていた張本人のものとは思えないほどに穏やかだった。
「君はさっき、わからない、と言ったね」
「……それが、なに」
「混乱に思考を取られて考えられない今この瞬間は、それでもいいだろう。しかし、いつまでもそれではいけないよ」
説き伏せるような言葉に、史帆は無性に泣きたくなった。明日は忘れてはいけないよ、と、史帆に自分の教科書を貸してくれた霊術院のときとまるで変わらない口調で、彼は言うのだ。
「どんなに受け入れがたくても、いつかは決断するべきだ。きっとね」
ふと史帆は、あの朝、彼が護廷十三隊の隊士であった最後の朝に、彼が口にした科白を思い出す。そうだ、あのとき、彼は。
――君が、僕を選んでくれることを願っているよ。
「君の望む方を選びなさい、史帆」
その言葉の意味を理解した瞬間、目の奥から溢れるように涙が湧いて、史帆は耐えきれず口元を覆った。気を抜けばすぐにでも嗚咽がこぼれそうだった。
――あんまりだ、こんなの。
藍染は史帆に、どちらを選ぶかを決めろと言っているのだ。藍染を選ぶのか、それ以外を選ぶのか。前者を選ぶならそれ以外のすべてを捨て、後者を選ぶのならば、藍染の首を自らの剣で斬り落とす覚悟をしなければならないだろう。それを、明確に選べと、選んだ方が良いと、彼は言うのだ。史帆の甘さを知っている幼馴染として、心からの善意で。
それは、この百年、どちらかを選ぶことのできないまま生き続けた史帆に対して、明確につきつけられた初めての批判だった。
史帆が泣き崩れたのを見てから、藍染はぐるりと、丘に立ち尽くす人々を見回す。京楽の傍らに立つ浮竹が、吹きつける風にその髪を揺らしながら、厳しく藍染を糾弾した。
「地に落ちたか、藍染」
「驕りが過ぎるぞ、浮竹。初めから誰も天に立ってなどいない。僕も、君も、神すらも。……だが、その耐え難い天の座の空白も終わる」
眼鏡を取っては自ら握りつぶし、流されていた前髪を手のひらで撫でつけて、藍染は告げる。
「これからは、私が天に立つ」
それはまるで、神の宣託のようだった。誰もが言葉を失い、遠ざかる彼らをただ呆然と見上げている。
黒腔に向かって消えていく間際、藍染はふと黒崎一護に目を止めて、その口元をわずかに緩ませた。
「さようなら、死神諸君。そして旅禍の少年。人間にしては、君は実に面白かった」
藍染、市丸、東仙、三人を飲み込んで、あまりにも呆気なく空間の裂け目はその口を閉じる。
信じられないほど唐突に訪れた戦いの終わりに、しばらくの間、誰一人としてその場から動かなかった。ただ時折強く吹き抜ける乾いた風が、砂を巻き上げてはむき出しの肌を打ち、ごうごうと低く唸っていた。