まぎれもなく生きている藍染の姿に、その斜め後ろにまるで部下のようなふるまいで立つ市丸に、日番谷はその翡翠の瞳を見開いた。その目が、彼らの後ろで血の海に倒れている雛森に向けられ、激しい絶望と憤怒に染まっていく。
痛みに支配されて朦朧とした視界で、それでも史帆は必死に意識をつなぎとめる。美しい氷の龍に変貌した日番谷が、ただ刀を抜いただけの藍染惣右介に一瞬で斬り落とされるのを見て、彼の名前を叫ぼうとしたが、声は出なかった。
砕けていく氷を風流な目で眺めていた藍染が、また入口に新しく現れた気配に振り返る。史帆を抱き上げたまま市丸も振り返ったおかげで、史帆も、そこに現れた人物が誰なのかを知った。
「来られるとすればそろそろだと思っていましたよ、卯ノ花隊長」
驚いた様子もなくそう言い放つ藍染に、やってきた卯ノ花は目を細め、藍染、市丸、そして市丸の腕に抱かれた瀕死の史帆を順に見遣る。
すぐにここだとわかりましたか、と、続けて問いかけた藍染に、卯ノ花もまた淡々と言葉を返した。曰く、あそこまで精巧な死体の人形を作って身を隠そうとしたなら、その行先は瀞霊廷内において最も人が立ち入らないこの清浄塔居林しかない、と。
「四谷三席も、きっと同じように考えたのではないですか」
自分の名前が呼ばれても、答えを返す力はない。卯ノ花とて、史帆に返事を求めたわけではないだろうけれど。
「彼女をどうするつもりですか?」
「どうも」
一瞬の静寂。緊張が肌を突き刺すような空気だった。
「ただ、すべてを知りたいと彼女が望んだから、それを聞き入れているだけですよ」
激痛に耐えながら顔を上げ、史帆はかろうじて視線を卯ノ花に向ける。視界はぼやけて、卯ノ花がどういう表情をしているかまでは読み取れない。
先ほどの卯ノ花の推理を褒めた上で、藍染が間違いを指摘し始める。先ほど史帆にもしてみせた、彼の斬魄刀の本来の力を、言い聞かせるように説明する。
その少し後ろで、合間、気を抜けば落ちそうになる意識を保とうと何度も顔をゆがめる史帆に、市丸が苦笑した。藍染と卯ノ花の会話を邪魔しないように小声でささやく。
「えらいつらそうやね」
あなたたちのせいなんだけど、と悪態を付きたいのはやまやまだが、しゃべろうとするとそのたび腹の傷口に激痛が走るので、史帆はただ黙って市丸を睨んだ。
「雛森ちゃんも大概やけど、史帆さんも、ようわからん人やな」
「……」
「あないな男のどこがええんやろ。理解に苦しむわ、ほんま」
史帆はもう面倒で、言葉を返すのを諦めた。それに、百歩譲って市丸の故意の誤認が真実だったとしても、彼に理解されようとは思っていない。
史帆に返事をする気がないとみるや、市丸はまた肩を揺らして笑う。そして史帆を抱えたまましゃがみ込むと、史帆の膝裏に回していた腕を離し、袂から白い帯を出して渦状に回し始めた。藍染と史帆、市丸の三人を包むように踊るその帯は、少しずつ速度を早め、やがて外界を完全に見えなくさせる。藍染と卯ノ花が何か最後まで言葉を交わしているようだったけれど、聞き取ることはできなかった。
白い帯に包まれた中で、藍染がふと振り向き史帆を見遣る。
「意識はまだあるね。良かった」
「あなたが、刺した、くせに……」
今この場で彼相手に沈黙するのはプライドが許さなくて、史帆はとぎれとぎれに言葉を紡いだ。藍染が肩を揺らして苦笑する。
「だって、どうせ言ってもおとなしくしないだろう、君」
だからといって刺すのはどうかと思うが、それを言っても彼は首を傾げるだろうから黙っていた。藍染は気にせず言葉を続ける。
「大事なのはこれからだからね、きちんと見ているといい。それが君の願いだろう?」
「なに、するの」
絶え絶えの息の隙間から、血を吐くような思いで問いかける。藍染がにっこりと笑った。
「見ていればわかる」
やがて、高速で回転していた帯がその速度を緩め、地に落ちていく。開けた景色は、それまでの室内とは打って変わっていた。
枯れた砂地と照りつける太陽。崖となった部分には、堂々とそびえたつ二本の柱があった。その光景に、史帆は確かに見覚えがある。つい最近、鮮明に見たのだ、夢の中で。
――双極だ。
「ようこそ、阿散井君」
藍染の声が、同じように、もう一つの白い帯の渦から姿を表した、赤髪の死神に向かう。その腕には、今日処刑されるはずだった、朽木ルキアが抱かれていた。
「朽木ルキアを置いて下がりたまえ」
見れば、阿散井のそばには東仙まで立っていた。先ほど卯ノ花に言っていた通り、どうやら本当に彼も藍染の部下らしい。
阿散井は周囲の状況をまだ飲み込めない様子でいたが、何かに気付いたように目を見開いた後、しばらくして大きく唾を飲み、藍染に対して、断る、と言った。藍染は数秒黙ったが、肩をすくめ、彼に向かって歩き出す。
「君は強情だからね、阿散井君。放したくないというなら仕方ない。こちらも君の気持ちを汲もう」
危険だ。思っても、動くことはできなかった。先ほどからなけなしの霊力を費やして回道で治癒してはいるが、腹の傷はまだ燃えるように熱い。それに、市丸の腕からはおろされているものの、地面に座り込んだ史帆の肩には彼の手が置かれている。余計な真似はするなという意思表示だろう。
抱えたままでいい、と言いながら、藍染は当然のように刀を抜いた。
「腕ごと置いて、下がりたまえ」
「阿散井副隊長!」
痛みをこらえて叫ぶと同時に、肩に置かれた手に力がこもる。
目を見開き、すぐにルキアを抱えたまま飛びのいた阿散井だが、瞬時に振りぬかれた藍染の刀に右腕を割かれ、血を流した。やれやれ、と藍染が溜息を吐く。
「君の成長は嬉しいが、あまり粘ってほしくはないな。潰さないように蟻を踏むのは、力の加減が難しいんだ」
「……」
「僕も君の元上官として、君を死なせるのは忍びない」
よくもまあここまで滔々と、人をもてあそぶような言葉が出てくるものだ。
肩で呼吸をしながら、阿散井は強く藍染をにらみつける。
「何が、死なせるのは忍びない、だ……! だったらなんで雛森は殺した!?」
怒鳴りつけるような叫び。目の前にいながら救えなかった悔恨とともに、なぜ阿散井が知っているのかという疑問を抱くが、すぐに卯ノ花らによる伝令があったのだろうと史帆は察した。先ほどの阿散井の瞠目は、天挺空羅に対するものかもしれない。同時に、それも察知できないほどに自身が弱っていることも理解した。思ったよりも重症らしい。
雛森の名を出されても、藍染は微塵も動じない。それどころか淡々と、雛森を殺した理由を述べてみせた。自分なしでは生きていけないようにしたのだから、殺していくのが情けだという、信じられないほど傲慢な理論を躊躇なく語る。
怒りに身を任せ、ルキアを抱いたまま斬魄刀を解放した阿散井が藍染に攻撃を仕掛けるも、藍染はそれを素手で受け止め、まるでおもちゃを壊すかの如く簡単に阿散井の刀を破壊してみせた。いつの間にか斜めに大きく身体を斬りつけられ、言葉を失う阿散井に、最後通牒だとばかりに藍染が低く命じる。
「最後だ。朽木ルキアを置いてさがりたまえ」
しかし、阿散井は鼻で笑い、藍染の要求を却下した。そうか、残念だ、と、少しも残念でなさそうにつぶやいて、藍染が刀を振り上げる。
「やめて、惣右介!」
痛みも、口から溢れる血も無視して、史帆は叫んだ。前にのめりだした身体を、市丸が後ろから抱きしめるように止める。
その瞬間、史帆の脳に、弾き出されるようにして一つの映像がよみがえった。今目の前に広がる光景とよく似たそれが何なのか、史帆は知っている。
草一つない殺風景な丘に、身を震わすほどの威厳をまとって、一対の矛と盾が建っている。
砂を巻き上げる風が肌を叩くように打つ。喉を通る乾いた空気が、死の気配を明瞭に感じさせる。
そこには一人の少女と、一人の男がいた。どちらも、その場にいる彼女には気付かないまま、向かい合っている。がくりとうなだれる少女に、男が刀を抜き、高々と振り上げて――。
やめろ、と、雄たけびのように誰かが叫んだ。その声が、頭上を通って、二人の元へと駆ける。切り裂かれた空気に一瞬遅れて突風が吹きすさんだ。砂にくらむ視界で、それでも何とか、声の主を見る。
輝くような橙色が、太陽に照らされて揺れていた。
史帆の横を、突風が吹くように一瞬、何かが通り抜けた。風圧に髪が激しく靡く。
刃と刃がぶつかる甲高い音が、丘に響く。
「よお。どうしたよ、しゃがみ込んで。ずいぶんルキア重そうじゃねぇか」
黒い死覇装の裾を余韻に流して、刃を受け止めた少年が、顔を上げる。
「助けに来てやったぜ、恋次」
傷だらけで、血を流して、汗を垂らして。
すでに満身創痍にも見える彼は、相対する藍染を見上げて、不敵に笑った。