一護と離れてからさらに数十分走って、ようやく殲罪宮にたどり着いた。瀞霊廷の中でもひときわ高くそびえたつ石の塔は、近づけばますます異様な存在感を放っている。百年以上護廷にいる史帆でもここに来るのは初めてだ。それほどまでに、普通の死神であれば縁のない場所だった。
地下水道の錠保管庫からあらかじめ鍵を盗んでいた花太郎が、固く閉ざされたその扉を開ける。扉の先に広がる薄暗い空間に、徐々に開いた扉から差し入る光がそれを照らしていった。壁も床も灰色の石でつくられた、ずいぶんと殺風景な場所だ。
その中に、一人の少女が立っていた。
「お前たちは……?」
黒くつややかな髪は毛先を外に跳ねさせ、華奢な身体は真っ白い罪人の長着をまとっている。朽木ルキア、なのだろう。
ルキアさん、と花太郎が嬉しそうに駆け寄るのを見送り、史帆は彼らから少し離れ、殲罪宮の入口に続く渡り廊下の終わりのあたりに立ち止まってぐるりと周囲を見回した。先ほど花太郎が気絶させた見張りの隊士以外は、気になる気配はない。
思ったよりもずいぶんと警備は手薄だった。旅禍の進入が朽木ルキアの救出のためだと、史帆は藍染から聞いて知っていたけれど、もしかして護廷十三隊はその情報を得ていないのかもしれない。または藍染の死にごたついて、こちらに人員を割けるほどの余裕がないのだろうか。後者だとしたら、藍染が姿を消したことはむしろ旅禍の手助けになっているようにも見える。
「……あ、」
そこで、史帆ははっと思いつく。こういうときは、必ず逆についても考えておくべきだ。
つまり。旅禍が騒ぎを起こしたことで、藍染が死を装い、動きやすくなったのだとしたら――。
「なんでこんなやつを助けなきゃなんねぇんだよ!?」
思考の海に沈みそうになったところで、突然響いた怒声が意識を引き戻す。声の聞こえてきた殲罪宮を振り向けば、岩鷲がルキアの胸倉を掴んで、何やら怒鳴り散らしているのだ。この状況で一体何を、と困惑しながら史帆が近づこうとした、そのとき。
まばたきしたその瞬間に、史帆の目の前に、白い羽織が突如としてひらめいた。その背に大きく刻まれた数字は、六。
六番隊隊長、朽木白哉だ。
朽木隊長、と、ほとんど反射的にその名を呼んだ史帆に、彼はわずかに振り向いて、その目を鋭く細めた。
「四谷。貴様、ここで何をしている。上位席官の勝手な行動が許される状況ではないだろう」
低く厳かな声に唾を飲む。奮い立たせるように喉の奥で咳払いしてから、「お言葉ですが」と、史帆は口を開いた。
「上の指示を悠長に待っている状況でもないかと」
自分の発言が、無礼極まりないものであることは理解していた。しかしこの状況では、もうそんなことを気にしている場合ではない。
史帆の言葉に、白哉は冷え切った目で史帆を睨みつけたが、言葉を返すことはなく、また殲罪宮の方へ顔を向けた。見れば、殲罪宮から出てきた岩鷲が、霊圧に息を切らしながらも白哉と真っ向から対峙しようとしているところだった。
無茶だ。今この瞬間でさえ、白哉の霊圧に耐えるので精一杯な顔をしているくせに。
慌てて止めに動こうとした史帆を、しかし振り向くことなく白哉の鋭い声が止める。
「動くな。四谷三席」
「……」
「少しでも動いたら、旅禍の援護のための反逆行為とみなす」
白哉がそう告げた直後、岩鷲が雄たけびをあげながら、白哉に向かって突進した。だめだ、間に合わない。
「岩鷲さん!」
一瞬で自身の後ろへと移動した白哉の姿をとらえることもできず、自分が斬られたことにすら遅れて気が付き、血の噴出するその腕を、岩鷲はただ驚愕に満ちた目で見遣った。
そこで黙って倒れておけばまだ良かったものを、岩鷲は勇ましくもその二本足で立ち続けた。血をとめどなく垂らしながらも、これで終わったとばかりに背を向けた白哉に威勢よく叫び、その歩みを止めさせる。
「言葉が通じないようだな。私は失せろと言ったのだ」
「うるせぇ。この程度でびびって逃げるような腰抜けはいねぇんだよ、志波家の男の中にはなぁ!」
志波家。その言葉に、白哉がわずかに瞠目した。振り向き、声だけは冷静なまま、再度岩鷲と向き合って、再び刀を抜く。
「そうか。貴様、志波家の者か。……ならば、手を抜いてすまなかった」
刀を顔の前にまっすぐ掲げ、白哉がその刀の名前を呼ぶ。始解だ。直後、花びらのように消えていった刀身に、岩鷲が警戒と緊張に固まるのが見えた。
「駄目です、岩鷲さん!」
「逃げろ!」
ルキアの悲鳴が史帆の叫びと重なって空気を揺らした瞬間、見えない無数の刃によって全身を切り裂かれた岩鷲は、声一つ上げることすらままならずに、力なく渡り廊下に倒れ伏した。
何も考えず、ただ反射的に、史帆はその身体に瞬歩で駆け寄った。呼吸はある。しかし出血量がひどい。早く処置しなければ、本当に死んでしまう。素人に毛が生えた程度の回道しか使えないが、何もしないよりはましだとその手を岩鷲の身体に触れさせたところで、ちゃき、と音がした。目の前に、無言で刀が突きつけられたのだ。
「動くなと言ったはずだ」
「朽木隊長、」
「なぜ旅禍とともに行動している。奴らは藍染殺害の重要参考人でもある。兄が奴らを憎む理由はあっても、その行動を助ける理由はない」
すぐそこで煌めく刃は、容赦なく明瞭な殺意を孕んでいる。背中を焦燥の汗が伝った。
「答えよ、四谷三席。貴様、いったい何を企んでいる」
違う。叫び出したくなる気持ちを抑えるように、史帆は唇を噛んだ。
何を企んでいるか。何を考えているか。それらすべてを話してしまえるならどれほど楽か。しかし史帆にはそれができないのだ。できないから、誰にも、京楽にさえその心中を打ち明けずに、今ここにひとりでいるのだ。
口を開かない史帆に苛立ったのか、白哉がすっと目を細め、そうか、答えぬか、とつぶやく。斬られる、と直感し、すぐさま自身の斬魄刀を抜こうと手をかけた。
そのとき。
「――やれやれ、物騒だなあ」
刀を握る白哉の手が後ろから掴まれ、止められた。
突然現れた男の姿に、史帆は無意識に止めていた息をほっと吐き出した。張り詰めていた緊張が少しほどける。まさしく九死に一生を得た気分だ。
「それくらいにしといたらどうだい、朽木隊長」
浮竹隊長、とつぶやいた史帆に、彼は眉根を寄せた。
「四谷、お前もこんなところで何してるんだ。京楽がえらく心配して探してるぞ」
不意打ちで京楽の名前を出され、史帆は首をすくめる。百年前の移籍当時からは想像もできないほどに打ち解けて、この頃京楽はすっかり史帆に甘かった。いっそ過保護ではないかと思うときさえある。
「すみません、ご心配おかけして」
「まあ、怪我がないみたいで良かったけど……あ、おーっす朽木。ちょっと痩せたな、大丈夫か?」
マイペースに話を変える浮竹に、肩の力が抜ける。そうか、朽木ルキアはそういえば十三番隊所属だった。
「どういうつもりだ、浮竹」
「それはこっちのセリフだよ。こんなところで斬魄刀の解放なんで、一級禁止条項だ。いくら旅禍を追い払うためとはいえ、何を考えているんだ」
「戦時特令により、斬魄刀の解放は許可されている」
「戦時特令!?」
白哉の言葉に、浮竹が驚いたような声を上げる。どうやら知らなかったらしい。
「旅禍の進入がそんな大事になってるのか。まさか、藍染を殺したのも、――」
そこで、浮竹が言葉を飲み込んだ。突然、重い霊圧が場を呑んだのである。大きさは隊長クラスでありながら、この場にいる二人の隊長どちらもが知らない霊圧に、一同が息を飲み、空を見上げる。
驚異的な速度でこの場へと近づいてくるそれを肌に感じながら、史帆は思わず感嘆の息を吐いた。無事を祈ってはいたけれど、でも、信じられない。まさか、あの男を相手取って、本当に――生きてるなんて。
やがて、呆然と立つルキアの前にふわりと降り立って、黒崎一護は、太陽の元にその精悍な顔を上げた。